#71「清掃員、世界を掃除する理由を知る」
本当に――よかった。
「…………」
どれくらい座っていたんだろう。
涙を拭って顔を上げる。
チャピがまだ俺の前にいた。
心配そうに、じっとこっちを見ている。
「……もう大丈夫?」
「たぶん」
「たぶんって……」
チャピが困ったように笑う。
なんで泣いたのか。
なんでこんなに安心しているのか。
結局、分からない。
でも……。
周囲を見回す。
黒い汚れはない。
それだけで胸の奥が少し軽くなった。
「レナは?」
「生きてるわよ」
少し離れたところから声がした。
見ると、レナが壁に背中を預けて座っていた。
「……ボロボロだけどな」
「誰のせいよ」
「あの女のせいだな」
「そうよ!」
なら俺のせいじゃない。
立ち上がって服についた埃を払う。
その横ではノアが何事もなかったように立っていた。
「…………」
さっきの蹴りを思い出す。
女が消えたと思った。
いや、本当に一瞬消えてた。
「ノア、お前、あんなに強かったんだな」
「お褒めいただき光栄です」
「あとパンツは履け」
「おやおや」
ノアがいつもの薄ら笑いを浮かべた。
……これは履く気はないな。
……まあいい、今考えることじゃない。
「そういえば」
チャピが声を上げた。
「私たち、精霊王様に会いに来たんだよね」
「…………」
忘れてた……完全に忘れてた。
世界樹に入って、黒い女を見つけて。
変な根を掃除して、死ぬほど怖い思いをして。
もう仕事終わった気分になっていた。
「そうだったな」
「そうだったな、じゃないよ!」
「いや、色々ありすぎたんだよ」
「それはそうだけど……」
チャピも途中で納得したように黙った。
レナが立ち上がる。
「で、どこにいるの?」
「もっと奥のはずよ」
チャピが通路を見る。
「ここからなら、そんなに遠くないと思う」
「じゃあ行くか」
ルミナスを肩に担ぐ。
その時。
ふわり。
周囲が明るくなった。
「……ん?」
壁に点々とあった緑色の光。
消えかけていたそれが、ひとつ。
またひとつ、ゆっくりと輝きを取り戻していく。
「精霊光……」
チャピが呟いた。
さっきまで黒く汚れていた世界樹の内部が、淡い緑色に照らされていく。
「戻ったのか?」
「たぶん……世界樹が元気を取り戻してる」
「そうか」
それなら、ちゃんと掃除できたらしい。
ルミナスを見る。
房が誇らしげに膨らんだ。
「よし。作業完了だな」
「世界樹を掃除して『作業完了』で済ませる人、初めて見たわ」
レナが呆れた顔をしている。
仕事は仕事だ。
規模が少し大きいだけで。
俺たちは再び歩き始めた。
道はさらに地下へ続いている。
さっきまで感じていた嫌な気配はない。
胸のざわつきも、恐怖も、嘘みたいに消えていた。
ただ。
「…………」
妙な感じだけは残っている。
ここを知っているような。
この道を歩いたことがあるような。
でも……考えても分からない。
「キョーくん?」
「いや、なんでもない」
巨大な根の間を抜け、先へ進む。
右へ、さらに下へ。
そして――。
「着いたよ」
チャピが足を止めた。
目の前に大きな空間が広がっていた。
「……すげぇ」
今まで見てきた世界樹の内部とは違う。
巨大な広間。
その中央に一本の木が立っている。
世界樹の内部なのに。
その木だけは、普通の大木くらいの大きさだった。
周囲には何百本もの巨大な根。
まるで中央の木を守っているみたいに広がっている。
緑色の光が静かに瞬いていた。
そして、木の根元に人がいた。
長い銀色の髪。
白い衣。
男……なのか?
目を閉じたまま、木に寄り添うように座っている。
チャピの表情が変わった。
「……精霊王様」
その場で膝をつく。
「え?」
俺はチャピを見る。
レナも頭を下げた。
……俺もやった方がいいのか?
横を見る。
ノアは立ったままだ。
参考にならん。
とりあえず頭だけ下げておく。
その時、銀髪の男が……ゆっくりと目を開いた。
深い緑色の瞳。
その視線が俺たちを順番に見て――。
最後に……俺で止まった。
「――来たか」
低い声が広間に響く。
チャピがさらに深く頭を下げた。
「シルフィード王家第一王女、チャルディアノクス・ピュルシエールです」
精霊王は答えない、ずっと俺を見ている。
……なんだ?俺、なんかしたか?
世界樹の根を勝手に掃除したこと怒ってる?
だったら謝った方がいいのか?
そんなことを考えていると。
精霊王が口を開いた。
「光の使徒殿……」
「……はい?」
俺を見る。
間違いなく俺を見ている。
「名を」
「……白石恭真」
精霊王は静かに目を細めた。
そして、俺の肩に担がれたルミナスへ。
ほんの一瞬だけ、視線を向けた。
「…………」
何だ?
今、ルミナスを見たよな?
モップが珍しかったのか?
だが精霊王は何も言わなかった。
再び俺を見る。
「恭真殿」
静かな声が広間に響く。
「よくぞ――ここまで辿り着いた」
その言葉を聞いた瞬間。
なぜか、また胸の奥が痛んだ。
精霊王はゆっくりと周囲へ視線を向ける。
巨大な根、淡く輝く精霊光。
そして、再び俺を見る。
「そして――礼を言わせてほしい」
「礼?」
精霊王が静かに頷いた。
「世界樹を救ってくれたこと、心より感謝する」
「知ってたんですか?」
チャピが尋ねる。
精霊王は静かに頷いた。
「世界樹に起きた異変は、私にも伝わっていた。何者かが内部へ侵入したことも、大量の穢れが流れ込んだことも」
「穢れ……」
さっきまでそこら中にあった黒い汚れ。
「あれのことか」
「ああ」
精霊王の視線が俺へ向く。
「そして、その穢れが消えたことも」
「まあ……汚れてたから掃除しただけだがな」
「キョーくん……」
チャピが額を押さえる。
精霊王はしばらく俺を見ていた。
「……なるほど」
何がなるほどなんだ。
「やはり、光の使徒か」
「いや、清掃員だ」
「キョーくん!」
声が広間に響いた。
精霊王は僅かに目を細めた。
笑った……のか?
「ならば、清掃員である恭真殿にも分かるように話そう」
何か馬鹿にされた気もするが、分かりやすいなら何でもいい。
精霊王が中央の木へ手を触れた。
「まず、お前たちが汚れと呼ぶものについてだ」
俺たちは黙って聞く。
「あれは穢れ、この世界にとって異物だ」
「異物?」
「ああ。大地を侵し、生あるものから力を奪い、やがては世界そのものを蝕む」
さっきのチャピの姿が、一瞬頭をよぎった。
痩せ細った腕、乾いた顔。
「…………っ」
また胸が痛む。
なんだよ……。
「キョーくん?」
「なんでもない」
精霊王が続ける。
「少量であれば、世界はすぐには滅びぬ。だが穢れが蓄積し続ければ、話は変わる」
「どうなるんだ?」
「世界を巡る力が失われる」
精霊王が周囲の根へ視線を向けた。
「森は枯れ、大地は死に、海は淀む。やがて生命が生きられぬ世界となる」
誰も何も言わなかった。
「……つまり」
俺は腕を組む。
「汚れを溜めすぎると、世界全体が駄目になるってことか?」
「……概ね、その理解でよい」
「やっぱ清掃するしかねえじゃなか」
「規模がおかしいのよ!」
レナに突っ込まれた。
だが分かりやすい。
汚れは放置すれば溜まる。
溜まりすぎれば設備が壊れる。
それが世界になっただけだ。
……いや、規模はだいぶ違うな。
「そして今、その穢れを意図的に集めている者たちがいる」
ノアの肩が僅かに動いた。
俺はそれを見逃さなかった。
「……五大魔族」
ノアは薄ら笑いを浮かべっている。
精霊王もなにも言わずそのまま続けた。
「五大魔族は、五つの大陸に散り、穢れを集めている。そして、このまま穢れが集まり続ければ――世界は滅ぶ」
さすがに笑えなかった。
チャピも。
レナも。
誰も口を開かない。
ノアだけがいつもの笑みを浮かべている。
けれど、その目は笑っていなかった。
「そこで必要となるのが――使徒だ」
「使徒……」
俺は自分を指差した。
「俺みたいな?」
「ああ」
即答された。
「だから俺は清掃員なんだけど」
「一度そこから離れなさいよ!」
レナに怒られた。
精霊王が俺たちを見渡す。
「神々は、この世界へ直接降りることができない」
「五柱の誓約……」
チャピが呟いた。
精霊王が頷く。
「光、炎、風、大地、海。五柱は自ら世界へ干渉せぬと誓った」
その話はチャピから聞いた。
「故に、神々は自らの代わりとなる者を選ぶ」
「それが使徒?」
レナが尋ねる。
「そうだ」
精霊王の視線がレナへ向く。
「海の女神ネレイシアに選ばれし者」
「……私」
次に俺を見る。
「そして、光の女神ルミナリエルに選ばれし者」
「俺……なのか」
今でも実感はない。
モップ持ってるだけだぞ。
「待って」
レナが何かに気づいたように顔を上げた。
「五柱……」
「ああ」
「使徒も……五人?」
その言葉で、俺も思い出した。
召喚された時に俺の他に四人いた。
「……まさか」
精霊王が静かに頷いた。
「お前たち五人が同時にこの世界へ呼ばれたのは、偶然ではない。五柱が、それぞれ一人ずつ選んだ」
俺は固まった。
「…………」
待て。
「じゃあ俺……」
「どうしたの、キョーくん?」
「勇者召喚に巻き込まれたんじゃなかったのか?」
ずっとそう思ってた。
たまたま近くにいたとか。
何かの事故とか。
そういうやつだと。
「違う」
精霊王が言い切った。
「恭真殿……」
俺を見る。
「お前もまた、選ばれてこの世界へ来た」
「…………マジかよ」
なんて迷惑な話だ。
せめて事前に連絡くらい欲しい。
「では……」
レナが口を開く。
「私たちが持っている力も?」
「ああ」
精霊王が頷く。
「五柱は、それぞれ異なる力を使徒へ託している」
「異なる力……」
「ある者は敵を討つための力を、ある者は仲間を守る力を。傷ついた者を癒やす力を。そして――」
精霊王の視線が俺へ戻った。
「光の使徒には、他の使徒にはない役目がある」
「役目?」
「ああ」
精霊王がゆっくりと言った。
「穢れを――この世界から消し去ることだ」
「…………」
俺はルミナスを見る。
「それって……」
飛行船で、世界樹で。何度も消してきた。
あの黒い汚れ。
「お前たちが魔族を退けても、穢れが残れば意味はない」
精霊王は続ける。
「魔族は倒せる。穢れを押し返すこともできる。だが、完全に消滅させることができるのは――光の使徒だけだ」
「…………」
なんか凄いことを言われてる。
俺は肩に担いだルミナスを見る。
「……つまり」
「なんだ?」
「最後に掃除するのが俺ってことか?」
「…………」
精霊王が黙った。
チャピも、レナも、ノアも。
全員が俺を見る。
「違うのか?」
長い沈黙のあと。
精霊王が小さく息を吐いた。
「……否定はできぬ」
「ほら!」
「ほら、じゃないわよ!」
レナの声が広間に響いた。
精霊王はそんな俺たちを見ながら、再び口を開いた。
「故に、お前たちは呼ばれた」
空気が変わる。
「五つの大陸で暗躍する、五大魔族を止めなければならない」
ノアが……静かに精霊王を見つめている。
「この世界が、穢れに呑まれる前に」




