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#60「帰る場所なんて、考えたこともなかった」

航海四日目。

風の大陸シルフィードへの到着は、明日。

朝から船内は妙に慌ただしかった。

廊下では使用人たちが荷物を運び、商人らしい連中は箱を開けては閉じ、何度も中身を確認している。

昨日まで酒を飲んで騒いでいた貴族たちまで、今日は真面目な顔で荷造りをしていた。


「……引っ越し前日のビルみたいだな」


廊下の端へ寄りながら呟く。

こういう日は嫌いじゃない。

散らばっていた荷物が箱へ収まり、少しずつ船内が片づいていく。

掃除屋としては見ていて気持ちがいい。

肩に担いだルミナスも、機嫌よさそうに房を揺らした。


「お前も分かるか」


ぶん。


「だよな」


「……何をモップと会話してるのよ」


後ろから声がした。

振り返る。


チャピだった。


「おはよう」

「おはようじゃないわよ。朝からどこ行ってたの?」

「散歩」

「一人で?」

「ルミナスいるだろ」

「一本じゃない!」


一本扱いされたルミナスが、ぶんぶん揺れる。


「怒ってるぞ」

「知らないわよ!」


いつものチャピだ。


……と思ったが。


「……」


なんか違う。

チャピは俺の横を通り過ぎると、廊下の窓へ近づいた。

外を見る。


……また歩く。


少し進んで、今度は壁に掛けられた案内図を見る。


そして、また窓。


「……何してんの?」

「別に」

「さっきから落ち着きないぞ」

「そんなことない!」


ある。めちゃくちゃある。

今度は自分の髪を手で整え始めた。

耳の横。後ろ。また耳。それから服の裾を引っ張る。


「具合悪い?」

「悪くない!」

「腹痛い?」

「違う!」

「じゃあ腹減った?」

「キョーくんは私をなんだと思ってるの!」

「エルフ」

「そういう意味じゃない!」


怒った。

なら元気か。

俺が歩き出すと、後ろから小さなため息が聞こえた。


「……ほんと鈍い」

「何か言った?」

「何でもない!」


また怒られた。

今日はよく分からんな。


昼過ぎ。


俺はロイヤルスイートのソファに座り、ルミナスの柄を布で磨いていた。

房は勝手に綺麗になるくせに、柄には普通に手垢が付く。


「お前、そこだけ普通なんだな」


ルミナスが不満そうに揺れる。


「事実だろ」


窓の近くでは、チャピがまた外を見ていた。

朝から何回目だ。十回どころじゃない。


「なあ」

「何?」

「そんなに外見ても、急には着かないぞ」

「分かってるわよ」

「じゃあ何見てるんだ?」

「……風」

「見えるのか?」

「感じるの」

「エルフすげえな」

「そういう話じゃない!」


また怒られた。

こいつ、今日ずっとこんな感じだな。

俺はルミナスを置き、立ち上がった。

窓の横へ行く。外は雲。遠くに海。

昨日とあまり変わらない。


「……帰りたくないのか?」

「――」


動きが止まった。

長い耳が、ぴくりと震える。


「……なんでそう思うの?」

「朝からずっと変だから」

「変じゃない」

「変だぞ」

「……」


「帰るの嫌なのか?」


しばらく返事はなかった。

窓の外を見たまま、ぽつりと答える。


「……別に」

「そうか」

「……」

「……」


「……聞かないの?」

「何を?」


こっちを見る。


「なんで帰りたくないのかとか」

「言いたくないんだろ?」

「……うん」

「じゃあ聞かない」


目を瞬かせた。


「それだけ?」

「それだけ」

「普通もっと聞くでしょ」


「嫌がってるのに?」


「……」


「話したくなったら話せばいいんじゃないか」


俺はソファへ戻ろうとした。


「待って」

「ん?」


小さく息を吐く。


「……少しだけ」

「何が?」

「話す」

「おう」


また窓の横へ戻った。

少しだけ迷ってから、チャピが口を開く。


「私ね」

「うん」

「あそこ、嫌いだったの」

「シルフィード?」

「……うん」


声が小さい。


「決まりばっかりなの」

「決まり?」

「エルフだからこうしなさい」

「ふむ」

「家柄なんだからこうしなさい」

「面倒そうだな」

「女だからこうしろとか」

「それも面倒だな」

「……」

「何?」

「それだけ?」

「他に何て言えばいい」

「もっとこう……あるでしょ」

「知らん」

「本当にキョーくんって……」


呆れたように笑った。


「何?」

「ううん」


少しだけ表情が柔らかくなる。


「私、そういうの全部嫌になって」

「うん」

「外へ出たの」

「家出?」

「家出じゃない!」

「似たようなもんだろ」

「違う!」

「じゃあ独立」

「……まあ」

「大人じゃん」

「最初から大人よ!」


そうなのか。

見た目では分からん。

言ったら怒られそうなので黙っておく。


「でも」


声がまた小さくなった。


「戻ることになるとは思ってなかった」

「そうか」

「……怖くないわけじゃない」


初めて。


チャピがそんなことを言った。


「何を言われるか分からないし」

「うん」

「歓迎されるかも分からない」

「うん」

「もしかしたら……」


そこで言葉が止まった。

無理に続きを聞く必要もない。

俺は少し考える。


「じゃあ、帰らなきゃいいんじゃない?」

「え?」

「嫌なら」

「そんな簡単な話じゃないわよ」

「だろうな」

「キョーくん!」

「でも」


俺は窓の外を見る。


「帰る場所って、別に生まれた場所じゃなくてもいいんじゃないか」

「……え?」

「俺なんて、日本に帰ったところで仕事だぞ」

「夢ないわね」

「現実だよ」


朝起きて。

仕事へ行って。

帰って寝る。

また朝が来る。

そんな生活だった。

考えてみれば。

帰る場所なんて、まともに考えたこともなかった。


「帰りたいかって聞かれると、よく分からんな」

「……日本に?」

「ああ」

「家族とかは?」

「まあ、それはそれ」

「適当」

「そうか?」


少し考える。


「でもさ」

「何?」

「帰る場所って、人がいるところなのかもな」

「人?」

「仕事終わって帰って」

「うん」

「誰かが『おかえり』って言ったら、そこが帰る場所なんじゃないか」


「……」


「知らんけど」

「最後で全部台無し!」

「責任持てないからな」


チャピが笑った。

少しだけ。

でも、今朝から見た中では一番普通の笑顔だった。


「……じゃあ」

「ん?」

「私の帰る場所は――」


チャピが俺を見る。


目が合う。


「……」


「何?」


少しだけ口を開いて。

また閉じた。


「……なんでもない」

「そうか」

「……聞かないの?」

「言いたくなったら言うんだろ?」

「……ほんと、そういうところだけ変にちゃんとしてる」

「褒めてる?」

「知らない」


それ以上は聞かなかった。


夜。


部屋は静かになっていた。

ノアは先に休み、レナも自分の部屋へ戻っている。

俺は寝る前に、応接室のソファへ座っていた。ルミナスは隣。

チャピだけが窓辺に立っている。


「……」

「チャピ」

「ん?」

「窓、閉めろよ。寒い」

「分かってる」


窓の外。

遠く。

雲の向こう。

暗闇の中に、大きな影が浮かんでいた。

大陸だろうか。

チャピも同じものを見ている。


「……帰る場所、か」


小さな声だった。


「何か言った?」

「何でもない」


「……おやすみ、キョーくん」

「おう」


数歩進んで。

一度だけ振り返る。


「……明日ね」

「ああ」


明日。


風の大陸シルフィード。


チャピの故郷。


そこがチャピにとって帰る場所なのか。

俺には、まだ分からない。

俺たちの旅は、ようやく次の場所へ辿り着こうとしていた。

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