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59/107

#59「お前を見てると、なぜか胸が痛い」

航海三日目。

昨日は結局、ほとんど休めなかった。

原因は分かっている。

女三人。あとモップ一本。


「……今日は静かに過ごしたい」


俺はルミナスを肩に担ぎ、ロイヤルスイートを抜け出した。

チャピとノアはまだ部屋にいる。

今のうちだ。

別に逃げているわけじゃない。

避難だ。

廊下を抜け、階段を上がる。

扉を開けた瞬間、強い風が頬を撫でた。


「おお……」


甲板。

見渡す限りの青空。

遥か下には雲が広がり、その隙間から海が見える。

昨日あんな大騒ぎがあったとは思えないほど、船は静かに空を進んでいた。


「こういうのでいいんだよ……」


事件もない、爆発もない、黒い汚れもない、設備は正常。

最高だ。

ルミナスも気持ちよさそうに房を揺らしている。


「平和が一番だな」


そう言いながら甲板を歩いていると。

一人、先客がいた。

青い髪。手すりにもたれ、遠くを眺めている。


レナだ。


「……」


声をかける必要もないか。昨日散々騒いだし。

俺はそのまま反対側へ行こうとして――足が止まった。


「……?」


胸の奥。ちくり。

針で刺されたような、小さな痛み。

思わず胸へ手を当てる。


「なんだ……?」


筋肉痛か?昨日は主魔力炉の中を走り回った。

全身痛かったし、胸だけ後から痛くなっても不思議じゃない。

そう納得しかけた時。レナが手すりから身を乗り出した。

ただ下を覗いただけだ。危険でもなんでもない。


なのに。


ズキッ。


「――おい!」

「え?」


考えるより先に身体が動いた。

腕を掴む。そのまま強く引いた。


「きゃっ!」


勢いよく引っ張ったせいで、身体がこちらへ倒れ込んでくる。


「うわっ!」


胸元に青い髪が飛び込んできた。


「……」


近い。

めちゃくちゃ近い。

ゆっくり顔を上げる。


「……何すんのよ」

「いや」

「いや、じゃない!」


慌てて俺の胸を押し、離れる。

顔が赤い。


「いきなり引っ張らないでよ!」

「お前が落ちそうだったから」

「落ちないわよ!」

「でも身を乗り出してただろ」

「下を見てただけ!」


言われてみればそうだ。

手すりは腰より高い。

足元もしっかりしている。

普通に考えれば落ちるような状況じゃない。


「……そうだよな」

「そうよ!」

「悪い」


レナが乱れた髪を手で直す。


「本当にどうしたの?」

「分からん」

「またそれ?」

「俺にも分からないんだよ」


ただ。手すりの向こうへ消えそうに見えた瞬間。

妙に嫌だった。

胸の奥が、勝手に拒絶した。


行くな。

そんな感じだった。


「……変だな」

「何が?」


俺は胸を押さえる。

まだ少し痛い。


「お前を見てると、たまに胸が痛い」


レナが固まった。


「…………え?」

「昨日からなんだよ」

「ちょ、ちょっと待って」

「何を?」

「そういうこと急に言わないでよ!」

「何が?」


顔が一気に赤くなる。


「また赤くなってるぞ」

「誰のせいよ!」

「俺?」

「他に誰がいるの!」


意味が分からない。


「昨日の事故の後遺症かな」

「は?」

「黒いやつに力を吸われたし」


「……本気で言ってる?」

「他に思い当たらない」

「もういい……」

「なんでだよ」

「なんでもない!」


またそれだ。

レナは大きく息を吐くと、今度は普通に手すりへ寄りかかった。

俺も少し離れて隣に立つ。


風が吹く。


しばらく、誰も喋らなかった。


「昨日さ」


先に口を開いたのはレナだった。


「怖くなかったの?」

「怖かったぞ」

「……即答するのね」

「当たり前だろ。死ぬかと思った」

「でも逃げなかったじゃない」

「逃げられるなら逃げてた」


レナがこっちを見る。


「え?」

「俺、戦うの嫌いだし」

「……本気?」

「本気」

「じゃあ、なんで主魔力炉まで行ったの?」

「壊れてたから」

「……」

「あと汚れてた」

「……それだけ?」

「それ以外に何がある?」


レナが頭を抱えた。


「船が落ちるところだったのよ?」

「だから直したんだろ」

「普通はそれを『船を救った』って言うの!」

「大げさだな」

「大げさじゃない!」

「俺は掃除して、壊れたところを戻しただけだぞ」

「それで何百人も助かったの!」

「結果的にはな」


レナがしばらく俺を見る。


「……ほんとに清掃員なのね」

「最初からそう言ってるだろ」

「普通、あんな力を持ってたらもっとこう……」

「こう?」

「自分は特別だとか。選ばれた人間だとか」

「面倒くさそうだな」

「即答!?」

「掃除して金もらえる方がいい」


一瞬、目を丸くして。

ふっと笑った。


「……変なおじさん」

「またそれか」

「本当のことでしょ」

「否定はしない」


また風が吹いた。

今度は少し穏やかだった。


「そういえば、お前は?」

「何が?」

「水の勇者って、大変なのか?」


レナの表情が少し変わった。


「……まあね」

「戦わされる?」

「戦うこともあるわ」

「嫌じゃないのか?」


「……嫌でも、やらなきゃいけない時はあるから」

「そうか」


「勇者なんだから当然って言われるしね」

「面倒だな、それ」


「……それだけ?」

「他に何て言えばいいんだよ」


「もっとこう……頑張れとか、勇者なんだからとか」

「もう言われてるんだろ?」

「え?」

「だったら俺まで言う必要ないだろ」


「……」


「嫌なもんは嫌でいいんじゃないか」

「……勇者でも?」

「勇者だって人間だろ」

「……」


しばらく俺を見て……やがて、小さく笑う。


「なんか、おじさんと話してると力抜ける」

「失礼だな」

「褒めてるの」

「分かりづらいぞ」

「おじさんが鈍いだけ」

「なんでだよ」


強い風が吹いた。


「きゃっ」


レナが風に押され、一歩よろめいた。


ほんの一歩。

手すりから離れる方向だ。

危険なんてない。それなのに。


ズキッ。


「……っ」


まただ。さっきより強い。

胸の奥を掴まれたような痛み。

俺は思わずレナを見る。ちゃんといる。目の前にいる。

それなのに。

なぜか、確認せずにはいられなかった。


「……レナ」

「なに?」

「……いるよな」

「は?」


自分で言ってから意味が分からなかった。


「いや……」

「何それ」

「忘れろ」

「無理でしょ」


俺は胸を押さえた。

痛みは少しずつ引いていく。


「……お前がいなくなりそうになると、嫌なんだよ」

「――っ」


言葉が止まった。

しまった。

また変な言い方をした気がする。


「いや、違う」

「何が違うのよ」

「俺も意味が分かってない」

「意味分からずそんなこと言わないで!」

「だから困ってるんだよ!」

「こっちだって困るわよ!」

「なんでお前が困るんだ!」

「分からないなら黙ってなさい!」

「理不尽だろ!」


レナが真っ赤な顔でそっぽを向く。

俺はため息をついた。

今日も静かに過ごせそうにない。


「……でも」


口から勝手に出た。


「何?」

「しばらく、そこにいてくれ」


ゆっくり、こちらを向く。


「……キョウマ……」

「なんだ」

「それ、本当に意味分かってないの?」

「だから分からないって言ってるだろ」

「……ばか」

「なんでだよ」


その時。

背後から声がした。


「…………キョーくん?」


身体が固まった。嫌な予感しかしない。

ゆっくり振り返る。

少し離れたところに、チャピが立っていた。

その横にはノア。

ノアは、ものすごく楽しそうに笑っている。

俺は空を見上げた。


平和な一日って。

どこに行けば売ってるんだろうな。

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