#59「お前を見てると、なぜか胸が痛い」
航海三日目。
昨日は結局、ほとんど休めなかった。
原因は分かっている。
女三人。あとモップ一本。
「……今日は静かに過ごしたい」
俺はルミナスを肩に担ぎ、ロイヤルスイートを抜け出した。
チャピとノアはまだ部屋にいる。
今のうちだ。
別に逃げているわけじゃない。
避難だ。
廊下を抜け、階段を上がる。
扉を開けた瞬間、強い風が頬を撫でた。
「おお……」
甲板。
見渡す限りの青空。
遥か下には雲が広がり、その隙間から海が見える。
昨日あんな大騒ぎがあったとは思えないほど、船は静かに空を進んでいた。
「こういうのでいいんだよ……」
事件もない、爆発もない、黒い汚れもない、設備は正常。
最高だ。
ルミナスも気持ちよさそうに房を揺らしている。
「平和が一番だな」
そう言いながら甲板を歩いていると。
一人、先客がいた。
青い髪。手すりにもたれ、遠くを眺めている。
レナだ。
「……」
声をかける必要もないか。昨日散々騒いだし。
俺はそのまま反対側へ行こうとして――足が止まった。
「……?」
胸の奥。ちくり。
針で刺されたような、小さな痛み。
思わず胸へ手を当てる。
「なんだ……?」
筋肉痛か?昨日は主魔力炉の中を走り回った。
全身痛かったし、胸だけ後から痛くなっても不思議じゃない。
そう納得しかけた時。レナが手すりから身を乗り出した。
ただ下を覗いただけだ。危険でもなんでもない。
なのに。
ズキッ。
「――おい!」
「え?」
考えるより先に身体が動いた。
腕を掴む。そのまま強く引いた。
「きゃっ!」
勢いよく引っ張ったせいで、身体がこちらへ倒れ込んでくる。
「うわっ!」
胸元に青い髪が飛び込んできた。
「……」
近い。
めちゃくちゃ近い。
ゆっくり顔を上げる。
「……何すんのよ」
「いや」
「いや、じゃない!」
慌てて俺の胸を押し、離れる。
顔が赤い。
「いきなり引っ張らないでよ!」
「お前が落ちそうだったから」
「落ちないわよ!」
「でも身を乗り出してただろ」
「下を見てただけ!」
言われてみればそうだ。
手すりは腰より高い。
足元もしっかりしている。
普通に考えれば落ちるような状況じゃない。
「……そうだよな」
「そうよ!」
「悪い」
レナが乱れた髪を手で直す。
「本当にどうしたの?」
「分からん」
「またそれ?」
「俺にも分からないんだよ」
ただ。手すりの向こうへ消えそうに見えた瞬間。
妙に嫌だった。
胸の奥が、勝手に拒絶した。
行くな。
そんな感じだった。
「……変だな」
「何が?」
俺は胸を押さえる。
まだ少し痛い。
「お前を見てると、たまに胸が痛い」
レナが固まった。
「…………え?」
「昨日からなんだよ」
「ちょ、ちょっと待って」
「何を?」
「そういうこと急に言わないでよ!」
「何が?」
顔が一気に赤くなる。
「また赤くなってるぞ」
「誰のせいよ!」
「俺?」
「他に誰がいるの!」
意味が分からない。
「昨日の事故の後遺症かな」
「は?」
「黒いやつに力を吸われたし」
「……本気で言ってる?」
「他に思い当たらない」
「もういい……」
「なんでだよ」
「なんでもない!」
またそれだ。
レナは大きく息を吐くと、今度は普通に手すりへ寄りかかった。
俺も少し離れて隣に立つ。
風が吹く。
しばらく、誰も喋らなかった。
「昨日さ」
先に口を開いたのはレナだった。
「怖くなかったの?」
「怖かったぞ」
「……即答するのね」
「当たり前だろ。死ぬかと思った」
「でも逃げなかったじゃない」
「逃げられるなら逃げてた」
レナがこっちを見る。
「え?」
「俺、戦うの嫌いだし」
「……本気?」
「本気」
「じゃあ、なんで主魔力炉まで行ったの?」
「壊れてたから」
「……」
「あと汚れてた」
「……それだけ?」
「それ以外に何がある?」
レナが頭を抱えた。
「船が落ちるところだったのよ?」
「だから直したんだろ」
「普通はそれを『船を救った』って言うの!」
「大げさだな」
「大げさじゃない!」
「俺は掃除して、壊れたところを戻しただけだぞ」
「それで何百人も助かったの!」
「結果的にはな」
レナがしばらく俺を見る。
「……ほんとに清掃員なのね」
「最初からそう言ってるだろ」
「普通、あんな力を持ってたらもっとこう……」
「こう?」
「自分は特別だとか。選ばれた人間だとか」
「面倒くさそうだな」
「即答!?」
「掃除して金もらえる方がいい」
一瞬、目を丸くして。
ふっと笑った。
「……変なおじさん」
「またそれか」
「本当のことでしょ」
「否定はしない」
また風が吹いた。
今度は少し穏やかだった。
「そういえば、お前は?」
「何が?」
「水の勇者って、大変なのか?」
レナの表情が少し変わった。
「……まあね」
「戦わされる?」
「戦うこともあるわ」
「嫌じゃないのか?」
「……嫌でも、やらなきゃいけない時はあるから」
「そうか」
「勇者なんだから当然って言われるしね」
「面倒だな、それ」
「……それだけ?」
「他に何て言えばいいんだよ」
「もっとこう……頑張れとか、勇者なんだからとか」
「もう言われてるんだろ?」
「え?」
「だったら俺まで言う必要ないだろ」
「……」
「嫌なもんは嫌でいいんじゃないか」
「……勇者でも?」
「勇者だって人間だろ」
「……」
しばらく俺を見て……やがて、小さく笑う。
「なんか、おじさんと話してると力抜ける」
「失礼だな」
「褒めてるの」
「分かりづらいぞ」
「おじさんが鈍いだけ」
「なんでだよ」
強い風が吹いた。
「きゃっ」
レナが風に押され、一歩よろめいた。
ほんの一歩。
手すりから離れる方向だ。
危険なんてない。それなのに。
ズキッ。
「……っ」
まただ。さっきより強い。
胸の奥を掴まれたような痛み。
俺は思わずレナを見る。ちゃんといる。目の前にいる。
それなのに。
なぜか、確認せずにはいられなかった。
「……レナ」
「なに?」
「……いるよな」
「は?」
自分で言ってから意味が分からなかった。
「いや……」
「何それ」
「忘れろ」
「無理でしょ」
俺は胸を押さえた。
痛みは少しずつ引いていく。
「……お前がいなくなりそうになると、嫌なんだよ」
「――っ」
言葉が止まった。
しまった。
また変な言い方をした気がする。
「いや、違う」
「何が違うのよ」
「俺も意味が分かってない」
「意味分からずそんなこと言わないで!」
「だから困ってるんだよ!」
「こっちだって困るわよ!」
「なんでお前が困るんだ!」
「分からないなら黙ってなさい!」
「理不尽だろ!」
レナが真っ赤な顔でそっぽを向く。
俺はため息をついた。
今日も静かに過ごせそうにない。
「……でも」
口から勝手に出た。
「何?」
「しばらく、そこにいてくれ」
ゆっくり、こちらを向く。
「……キョウマ……」
「なんだ」
「それ、本当に意味分かってないの?」
「だから分からないって言ってるだろ」
「……ばか」
「なんでだよ」
その時。
背後から声がした。
「…………キョーくん?」
身体が固まった。嫌な予感しかしない。
ゆっくり振り返る。
少し離れたところに、チャピが立っていた。
その横にはノア。
ノアは、ものすごく楽しそうに笑っている。
俺は空を見上げた。
平和な一日って。
どこに行けば売ってるんだろうな。




