#56「落ちる飛行船、清掃員は炉心へ」
船体が、さらに大きく傾いた。
床に転がった木箱が、貨物区画の端まで滑っていく。
このままここにいても、どうにもならない。
主魔力炉へ戻るしかなかった。
一番行きたくなかった場所だ。
できることなら乗客に混じって、隅で頭を抱えていたい。
でも、船ごと落ちるならどこにいても同じだ。
そのまま主魔力炉へ走る。
やがて、見覚えのある大扉が見えてきた。
「……なんだ、これ」
思わず足が止まった。
さっきまで職員たちが集まっていた場所が、黒く染まっている。
床。
壁。
配管。
そこら中を、黒い筋が這い回っていた。
その中に、何人もの職員が倒れている。
俺はルミナスを握り直した。
「相棒、やるぞ!」
ルミナスが大きく房を膨らませる。
床へ押し当てた瞬間、黄金色の光が広がった。
黒い汚れが一斉にうねる。
逃げるように壁を這い、配管の隙間へ潜り込もうとする。
「レナ!逃がすな!」
「分かった!」
水が床を走り、逃げようとした黒い筋を包み込む。
「チャピ、反対側!」
「任せて!」
風が吹き抜け、黒い汚れの進路を塞ぐ。
俺はそのままルミナスを走らせた。
黄金色の光に触れるたび、黒い汚れが次々と消えていく。
やがて。
主魔力炉の扉の前から、最後の黒い染みが消えた。
最後の黒い汚れが黄金色の光に消えた。
「……よし」
俺はルミナスを持ち上げる。
チャピとレナが倒れている職員たちへ駆け寄る。
ノアも一人を抱き起こした。
「息はあります」
「こっちも!」
よかった。
死んではいない。
ただ、全員ぐったりしていた。
顔色も悪く、指一本動かすのも辛そうだ。
「う……」
すぐ近くで声がした。
「おい!」
俺は倒れていた職員のそばへしゃがみ込む。
「聞こえるか?」
職員がかすかに目を開いた。
「……排出、弁……」
震える指が、扉脇を走る太い配管を指す。
そこには大きな操作輪が取り付けられていた。
「これか?」
職員が小さく頷く。
「炉の……圧力を逃がそうと……でも、あの黒いものが……」
「操作しようとしたら襲われたのか?」
もう一度、頷いた。
「触れられた途端……力が抜けて……」
俺は周囲に倒れている職員を見る。
全員、同じか。
「……あれを開ければいいんだな?」
「はい……圧力を逃がせば……炉を冷却できます……」
「分かった!」
俺は立ち上がり、操作輪へ向かった。
両手で輪を掴む。
「これを回せば――」
力を込めた。
ギッ。
重い。
だが、動く。
「この……!」
足を踏ん張り、さらに体重をかける。
ギギギギッ――!
操作輪がゆっくりと回り始めた。
直後。
配管の奥から、腹に響くような轟音が鳴った。
ゴォォォォ――!
どこかで大量の魔力が吐き出されている。
扉脇の計器の針が、ゆっくりと下がり始めた。
倒れた職員がそれを見て、弱々しく息を吐く。
「……これで……炉内の圧力が……」
「下がるのか?」
「はい……あとは、冷却が終われば……中へ……」
その時。
船体が、また大きく揺れた。
「きゃっ!」
チャピが床に手をつく。
まずい。
さっきより傾きが大きい。
「中に入れるようになるまで、どれくらいかかる?」
倒れた職員に尋ねる。
「圧力は……下がっています。でも、炉室の温度が……まだ……」
「すぐには無理か」
職員が小さく頷いた。
直後。
けたたましい警報が鳴り響く。
赤い魔石灯が明滅した。
待ってくれる気はないらしい。
「私の水なら入れるかもしれない」
レナが立ち上がった。
「水?」
「身体を水の膜で包むの。完全には防げないけど、熱ならかなり抑えられる」
「かなりって……」
「ここで待って船ごと落ちるよりマシでしょ」
正論だ。
嫌になるくらい。
「……分かった」
俺はルミナスを握り直した。
「キョーくん、私も行く!」
「チャピはここにいてくれ」
「なんでよ!」
俺は倒れている職員たちを見る。
全員、息はある。
だが黒い汚れに力を奪われ、まともに動ける状態じゃない。
「この人たちを頼む。それと、黒いのがまた出てきたら通路に逃がすな」
チャピが職員たちを見る。
それから俺を見た。
「……絶対戻ってきてよ」
「ああ」
「ノアも頼む」
「承知しました」
ノアが倒れた職員のそばへしゃがむ。
「こちらはお任せください」
俺はレナを見る。
「行けるか?」
「もちろん」
レナは剣を握り直した。
水が俺たちの周囲を薄い膜のように包んだ。
ひやりとした空気が肌に触れる。
「私から離れないで」
「分かった」
俺たちは主魔力炉室へ足を踏み入れた。
むっとする熱気が押し寄せる。
水の膜越しでも熱い。
「……暑いな」
「私から離れないでよ」
「離れたら?」
「知らない」
「絶対離れない」
部屋の中央。
巨大な円筒形の主魔力炉が、青白い光を明滅させていた。
その周囲を黒い筋が覆っている。
床。
配管。
炉の外壁。
何本もの黒い筋が、まるで血管のように中心へ向かって伸びていた。
「……多すぎるな」
ルミナスの房が震える。
「全部掃除するの?」
「いや」
俺は黒い筋を目で追った。
どれも同じ方向へ伸びている。
「先に根元を探す」
俺とレナは、黒い筋を追って炉の奥へ進んだ。
床を這う黒い筋は、先へ進むほど数を増していく。
その時。
一本が突然、床から跳ね上がった。
「うおっ!」
咄嗟にルミナスを振る。
房が触れた瞬間、黄金色の光が弾けた。
黒い筋が逃げるように床を走る。
「そっち!」
レナの水が先回りし、逃げ道を塞いだ。
俺はそのままルミナスを押し当てる。
黒い筋が光に包まれ、消えた。
「……完全に襲ってきてるな」
さらに奥へ進む。
今度は壁から二本。
「右!」
「分かってる!」
ルミナスを振る。
一つを消した。
もう一つはレナの水が弾き飛ばす。
きりがない。
消しても、別の場所から黒い筋が伸びてくる。
「こいつら……俺たちを奥へ行かせたくないみたいだな」
「だったら、奥に何かあるってことでしょ」
「だよな」
俺たちは再び歩き出した。
その時だった。
ぞくり。
背筋に冷たいものが走った。
「……?」
足が止まる。
何もない。
黒い筋は見えない。
なのに……まずい。
俺は隣を見る。
レナが一歩前へ出ようとしていた。
「レナ!」
「え?」
考えるより先に、その腕を掴んだ。
思い切り引き寄せる。
「ちょっ――!」
直後。
バシュッ――!
レナの背後。
太い配管の隙間から、黒い筋が飛び出した。
さっきまでレナがいた場所を薙ぐ。
「……え?」
レナが目を見開いた。
俺も動けなかった。
見えてなかった。
音だってしなかった。
それなのに。
「キョウマ……今の、分かってたの?」
「……いや」
「でも――」
「分からん」
本当に分からない。
何が来るのかなんて知らなかった。
ただ。
レナをあそこから離さなきゃいけない。
なぜか、それだけは分かった。
「やっぱり未来予知なんじゃない?」
「……かもな」
そう答えた瞬間。
床を這っていた黒い筋が跳ねた。
「キョウマ!」
レナを突き飛ばす。
代わりに、黒い筋が俺の腕へ巻きついた。
「ぐっ!」
一気に力が抜けた。
腕だけじゃない。
身体の奥から何かを引っ張り出されるような感覚。
「なんだ、これ……!」
膝が落ちる。
「離れて!」
レナが剣を振るう。
水が黒い筋を弾き飛ばした。
俺はその場に手をついた。
息が重い。
指先に力が入らない。
「キョウマ!大丈夫!?」
「……大丈夫じゃないな」
「ちょっと!」
「でも、動ける」
ルミナスを杖代わりに立ち上がる。
俺は黒い筋の先を見る。
一本だけ。
逃げるように炉の奥へ伸びている。
「行くぞ」
「……無茶するわね」
「知ってる」
黒い筋を追う。
やがて、巨大な主魔力炉の側面に丸い点検口が見えた。
筋はその隙間へ吸い込まれるように消えている。
「ここだ」
ルミナスの柄を握り直す。
「たぶん、この中に大本がある」
点検口へ手を伸ばす。
熱い。
水の膜越しでも、指先に熱が伝わってくる。
「レナ。冷やせるか?」
「やってみる」
剣先から水が伸びる。
点検口を包んだ瞬間。
ジュウッ――!
白い蒸気が噴き上がった。
「もう少し!」
「分かった!」
赤く熱を持っていた金属が、少しずつ色を戻していく。
俺は取っ手を握った。
「開けるぞ」
「うん!」
力を込める。
ギギッ――。
「くそっ……重い」
さっき力を吸われたせいか。
腕に力が入らない。
「私もやる!」
レナが隣から取っ手を掴んだ。
「せーの!」
二人で引く。
ガコンッ!
点検口が開いた。
黒い煙が一気に噴き出す。
「うわっ!」
レナの水が俺たちの前へ広がり、煙を押し返した。
その奥。
巨大な魔石があった。
青白く輝いている。
いや。
輝こうとしている。
表面の半分以上を黒い汚れが覆い、光が不規則に明滅していた。
「……こいつか」
ルミナスの房が激しく震える。
「相棒」
柄を握り直す。
「最後だ」
ルミナスが力強く房を膨らませた。
俺は黒く染まった魔石へ房を押し当てる。
瞬間。
黄金色の光が爆発した。
「うおっ!」
炉室中の黒い筋が一斉にうねった。
床。
壁。
配管。
そこら中から黒い汚れが炉心へ集まってくる。
ルミナスを押しつける。
黒い汚れが次々と剥がれていく。
だが。
腕に黒い筋が絡んだ。
「ぐっ!」
まただ。
身体から力が抜けていく。
「離して!」
レナが水を叩きつける。
黒い筋が弾けた。
だが別の一本が、今度は足へ絡みつく。
「また――!」
膝が落ちる。
ルミナスの房が魔石から離れかけた。
「キョウマ!」
「まだ……!」
柄を握り直す。
ここで離したら。
また最初からだ。
「レナ……黒いのを頼む……」
「分かった!」
水が俺の周囲を走る。
近づいてくる黒い筋を次々と弾き飛ばす。
「今!」
俺は残った力を腕へ込めた。
ルミナスを押し当てる。
黄金色の光がさらに強くなる。
黒い汚れが激しくうねった。
青白い光が広がる。
黒い部分が消えていく。
腕が重い。
息が苦しい。
立っているだけで精一杯だ。
それでも。
「いい加減に……きれいになれ!」
最後の黒い塊が逃げるようにうねった。
レナの水が、その進路を塞ぐ。
「今よ!」
「おおっ!」
ルミナスを押し込む。
黄金色の光が、炉心全体を包んだ。
そして。
最後の黒い染みが消えた。
次の瞬間。
ゴウン――。
巨大な魔石から、青白い光があふれ出した。
止まりかけていた配管へ光が走る。
一つ。
また一つ。
炉室の魔石灯が点灯していく。
船体を揺らしていた振動が、少しずつ弱くなった。
傾いていた床も、ゆっくりと水平へ戻っていく。
「……戻った?」
レナが呟いた。
「ああ……」
たぶん。
そう答えようとした瞬間。
膝から力が抜けた。
「キョウマ!」
身体が傾く。
床へ倒れる前に、レナが受け止めた。
「ちょっと!しっかりして!」
声が遠い。
もう指一本動かしたくない。
ぼやけた視界の中に、レナの青い髪が見えた。
レナだ。
傷もない。
ちゃんと、ここにいる。
なぜだろう。
それを見ただけで、胸の奥に引っかかっていた何かが、少しだけほどけた。
「……よかった」
「何が?」
俺にも分からない。
なのに。
口が勝手に動いた。
「今度は……間に合った……」
「……キョウマ?」
その声を最後に、俺の意識は暗闇へ落ちた。




