#53「知らないはずの名前と、燃え残った黒い汚れ」
白い蒸気がゆっくりと薄れていく。
その向こうに立っていたのは、青い外套をまとった少女だった。
長い髪に混じる、鮮やかな青のメッシュ。片手には剣。
足元には、彼女が放った水で消し止められた炎の跡が広がっている。
少女がこちらを振り向いた。
「大丈夫?ケガはないですか」
その顔を見た瞬間。
胸の奥で、何かが引っかかった。
知っている。
いや、知らない。
会ったことなんて――
「……レナ」
俺の口から、勝手に名前がこぼれた。
「え?」
少女が目を見開く。
右隣で、チャピの長い耳がぴくりと動いた。
左では、ノアの薄ら笑いが深くなる。
「私のこと覚えてるの?」
少女は安堵したように言った。
「召喚された時同じ場所にいたでしょ。私は水城玲奈。確かにレナって呼ばれてるけど――」
「いや、知らない」
「は?」
「まったく覚えてない」
即答すると、レナの顔が固まった。
「じゃあ、なんで私の名前を知ってるのよ!」
「俺が聞きたい!」
思わず声を張り上げる。
チャピが、俺とレナを交互に見た。
「キョーくん……本当に知らないの?」
「知らない。会った記憶もない」
「では、魂で通じ合った仲ということでしょうか」
ノアが口元に手を添え、楽しそうに目を細めた。
「キョウマ様。わたくしがいながら、いつの間にそのような密会を……」
「してない!」
「じゃあ、なんで名前が分かったのよ!」
「だから分からないって言ってるだろ!」
三人の視線が一斉に突き刺さる。
くそ。
何か言わないと……このままでは俺が異世界でこんな子を相手に隠れて何かしていたみたいになる。
「あれだ!顔だ!」
「顔?」
「レナって顔をしてる!」
「どんな顔よ!」
自分でも無茶苦茶だと思う。
だが、本当にそれしか説明できなかった。
名前を口にした瞬間だけ、ずっと前から知っていたような気がした。
今はもう、その感覚すら指の間から抜け落ちている。
「そういえば、私だけ名乗ったままなのも変ね」
レナが俺たちを順番に見た。
「おじさんたちは?」
「俺は白石恭真。白石が名字で、恭真が名前だ」
「恭真ね」
レナが確かめるように繰り返す。
「私はチャルディアノクス・ピュルシエールよ」
「長っ!」
「失礼ね!」
チャピが頬を膨らませた横で、ノアが優雅に胸へ手を当てた。
「ノクターリアです。キョウマ様の従者をしています」
「勝手に従者を名乗るな」
「では、奴隷で」
「もっと駄目だ!」
レナが胡散臭そうにノアを見る。
「……変なのに懐かれてるのね」
「俺もそう思う」
「まあ……立ち話もなんだから、場所を移さない?」
レナが呆れたように息を吐き、剣を鞘へ収めた。
「ここにいると、職員の邪魔になるでしょう」
その言葉を聞いた途端、視線が勝手に通路の奥へ向いた。
あの先を進めば、ロイヤルスイートへ戻る。
そう考えただけで、喉が詰まった。
手のひらに、じっとりと汗がにじむ。
(……戻りたくない)
理由は分からない。
部屋には何もない。
豪華なだけで、危険なものなんて一つもないはずだ。
なのに、足が動かなかった。
「キョーくん?」
チャピの声に、俺は我に返った。
「……いや。まだ戻らない」
「どうして?」
どうしてと言われても困る。
怖いから、とは言えない。
何もない部屋が怖いなんて言ったら、完全に不審者だ。
俺は咳払いをして、横転した魔道具を指差した。
「火を消して終わりじゃない。原因を確認しないで現場を離れたら、また事故になる」
「原因って……船の職員が調べるんじゃないの?」
「俺はこういう仕事をしてたんだよ」
現世でも、設備の異常は見た目だけ直して終わりじゃなかった。
ブレーカーを上げて終わり。
水を拭いて終わり。
警報を止めて終わり。
そんな対応をしたら、あとでもっと面倒なことになる。
「火が出たなら、火が出た理由がある。そこを見つけないと終わってない」
俺はルミナスを握り直し、魔道具へ近づいた。
背後で、レナが小さく呟く。
「……おじさん、本当に清掃員なの?」
「正真正銘、ただの清掃員だ」
胸を張って答える。
なぜかレナは余計に分からないという顔になった。
横転した魔道具の周りでは職員たちが濡れた木箱や樽を片づけていた。
「危険ですので、下がってください!」
「見るだけだ。邪魔はしない」
「私が一緒にいます。少しだけ見せてあげて」
レナがそう言うと職員は渋々と道を開けた。
俺は魔道具の前にしゃがみ込む。
木と金属で組まれた荷台。
底には、青白く光る石がいくつも埋め込まれている。
浮かせて運ぶための魔石だろう。
だが……変だ。
派手に横転したわりに、荷台の側面にはほとんど傷がない。
床にも、滑った跡が残っていない。
まるで――その場で誰かにひっくり返されたみたいだ。
「ルミナス。少し浮かせられるか?」
ルミナスが柄を前後に振る。
房が荷台の隙間へ入り込み、そのままぐいっと持ち上げた。
「うおっ、力持ちだな!」
褒めると、ルミナスは嬉しそうに房をぼふっと膨らませる。
持ち上がった荷台の下へ顔を近づけた。
焦げた木。
割れた樽。
水に濡れた床。
その奥に――黒い染みがあった。
「……なんだ、これ」
煤にしては黒すぎる。
油にしては光を反さない。
指先ほどの細い染みが魔石の周囲をなぞるように伸びていた。
ルミナスの房がぶるりと震える。
「お前も気になるのか?」
柄が小さく前後に動く。
俺はルミナスを黒い染みへ押し当てた。
瞬間。
房から黄金色の光があふれた。
「うわっ!」
黒い染みがびくりと動く。
生き物のように細く伸び、ルミナスから逃げるように床を走った。
「汚れが逃げた!?」
俺が叫んだ直後。
胸の奥を冷たいものが貫いた。
音はまだない。
光もない。
それでも身体だけが、次に起きることを知っていた。
「――伏せろ!!」
考えるより先に近くにいたレナの肩を掴んだ。
「えっ!?」
そのまま床へ倒れ込み、チャピとノアも同時に身を低くする。
次の瞬間。
バァン――!
さっきまでレナが立っていた場所で壁を走る魔力管が破裂した。
青白い光が弾け金属片が頭上を飛び越える。
悲鳴が上がった。
俺は床に伏せたまま息を止めていた。
心臓が痛いほど脈打っている。
(……分かってた)
まただ。
何が起きるかなんて、知らなかった。
なのに、爆発する直前だけは確かに分かった。
「ちょっと……いつまで乗ってるのよ」
下から声がした。
見ると俺の真下でレナが顔を赤くしている。
「わ、悪い!」
慌てて飛び退く。
今度はチャピとノアの視線が、さっきより鋭く突き刺さっていた。
「キョーくん……ずいぶん素早かったね」
「キョウマ様。やはり魂で通じ合っているのですか?」
「爆発しただろ!今はそっちを気にしろ!」
俺が怒鳴ると、二人は不満そうに口を閉じた。
レナは立ち上がり、破裂した魔力管を見上げる。
「でも……どうして分かったの?」
「それは……」
俺にも分からない。
ただ、二度も続けば一つの可能性が浮かぶ。
危険を直前に察知する、未知の能力。
つまり――
「……俺、未来予知に目覚めたかもしれない」
「絶対違うと思う」
チャピに即答された。
なぜだ。
可能性はあるだろ。
「いずれにせよ……この場で喜ぶには早いようですね」
ノアの低い声に俺たちは床へ視線を落とした。
さっきの黒い染みが細い筋となって通路の奥へ伸びている。
その先でルミナスが激しく房を震わせていた。
「そっちは何があるんだ?」
俺が職員へ尋ねる。
青ざめた職員は、黒い筋の消えた先を見つめたまま答えた。
「この船の……主魔力炉です」
床の下から、低い振動が伝わってきた。
一度。
そして、二度。
巨大な何かが脈打つように、船全体が軋む。
直後。
船の奥底から、先ほどよりも重い轟音が響いた。




