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第9話 元婚約者の屋敷へ

「どうしてこんな簡単なこともできないの! この刺繍、指定した色と全然違うじゃない!」


王都に近い、とある伯爵家の広間。

高い天井にヒステリックな少女の声が反響し、床に投げつけられたハンカチが力なく落ちた。


「も、申し訳ございません、クララ様……! すぐにやり直しますので……!」


床に這いつくばるようにして謝罪する侍女に対し、若い令嬢クララは容赦なく厳しい言葉を浴びせかけていた。

その様子を、エントランスホールに到着したばかりのリディア一行は静かに見つめていた。


「私の『花嫁修業』に泥を塗る気!? あなたのような無能な侍女のせいで、私が義母様から叱責を受けたらどう責任を取るつもりなの!」


クララの声は怒りに震えているようにも聞こえるが、どこか甲高く、余裕のない切羽詰まった響きを含んでいた。


「……」


その光景を背後から見つめるセレスティナの横顔は、いつになく蒼白で、硬く強張っていた。

彼女の視線の先にあるのは、見知らぬ令嬢クララだけではない。この豪奢な調度品に彩られた伯爵家の屋敷そのものが、セレスティナにとって重い鎖のような場所だった。


ここは、セレスティナの『元婚約者』の家。

かつて高慢な悪役令嬢として振る舞い、リディアにその罪を暴かれて婚約破棄に至った、セレスティナ自身の過去の清算の場所でもある。

今回の作法指導の依頼先がこの伯爵家だと知った時、セレスティナは明らかに沈み込んだ。だが、逃げることはしなかった。


リディアは、隣で扇を握りしめるセレスティナの震える指先を一瞥したが、理由を問い詰めることはしなかった。


「話せる時に話しなさい」


馬車を降りる前、リディアが静かにかけたその一言に、セレスティナはどれほど救われただろうか。


「失礼いたします。王宮より派遣されました作法教師、リディア・グレイスです。本日から三日間、クララ様の花嫁修業における礼法指導を担当いたします」


リディアが進み出ると、クララはビクッと肩を跳ねさせ、慌てて侍女から距離を取って澄ました顔を作った。


「よ、よく来てくださいましたわね。わたくしがこの家の新たな婚約者、クララですわ。……あら?」


クララの視線がリディアの後ろに立つセレスティナを捉え、その目に明らかな動揺と、そして微かな優越感が入り混じった光が浮かんだ。

だが、クララが口を開くより早く、リディアが静かに、しかし冷徹な声で告げた。


「クララ様。授業の前に、一つ指導しておきましょう」


リディアは床に落ちたハンカチを拾い上げ、クララの前に差し出した。


「王宮作法において、使用人を感情的に大声で叱責することは、自制心の欠如とみなされます。いかなる不手際があろうとも、上に立つ者は常に冷静でなければなりません」

「なっ……! わたくしはただ、この者が怠慢を働いたから……!」

「言い訳は不要です。指導を行うことと、感情をぶつけることは異なります。……そこの侍女は、頭を冷やすためにも一度下がらせなさい。冷静な空間を作らなければ、正しい作法の授業は始められません」


リディアの反論を許さない静かな圧力に押され、クララは唇を噛み締めながら侍女に退室を命じた。

侍女はリディアにすがるような目を向けた後、逃げるようにその場を去っていく。小さな介入だが、これで一旦、侍女を理不尽な叱責から保護することができた。


「……それでは、お部屋へご案内しますわ」


クララは忌々しそうに背を向け、廊下を進み始めた。

その背中を追いながら、セレスティナがリディアの耳元に顔を寄せ、極めて小さな声で囁いた。


「……先生」

「何ですか、セレスティナ」

「あのクララという令嬢。一見すると、かつてのわたくしと同じ、使用人を虐げる高慢な加害者に見えますわ」


セレスティナの令嬢心理を読む目は、誰よりも正確だ。

自分がかつて同じ過ちを犯したからこそ、相手の心の歪みが手に取るように分かる。


「ですが、違います。あの子の顔には、傲慢さよりも『怯え』が色濃く出ていますわ。侍女を叱りつけながらも、常に奥の部屋……おそらく、姑である伯爵夫人の目を気にしている。あれは、自分が壊されないために、必死に他人に噛みついている顔です」

「……なるほど。被害者でもある加害者、ということですか」


リディアは銀縁眼鏡の奥で、静かに目を細めた。

屋敷の空気は、華やかさとは裏腹に、息が詰まるほどの緊張感に満ちている。


案内された客室に入ると、そこにはクララのこれからの三日間の予定が記された分厚い書類が置かれていた。

荷物を下ろしたミロが、すぐにその書類に鼻を近づける。


「先生。この屋敷、なんだか変な匂いがします。高級な香水の匂いで誤魔化してますけど、ずっと誰かが我慢して、胃を痛くしてるような、ピリピリした匂い」


ミロの犬の耳が、不快そうにパタパタと動いた。

彼はそのまま机の上の書類をパラパラとめくり、あるページでピタリと動きを止めた。


「あれ? 先生、これ……」


ミロが指差した書類を、リディアとレオンハルトが覗き込む。

それは『花嫁修業予定表』と題された、クララの分刻みのスケジュールだった。異常なまでの食事制限や、睡眠時間を削っての礼法暗記が組み込まれた、到底人間らしい生活とは言えない内容。


だが、リディアの視線を釘付けにしたのは、その過酷な内容ではなかった。

予定表の右下。

その書類を監修し、承認したとされる組織の印が、赤々と押されていたのだ。


二本の剣が交差し、その上に黄金の冠が描かれた紋章。


「……金冠教育会」


リディアの口から、冷たい声が漏れた。

前の鉱山町で、獣人奴隷の違法取引を仲介していた巨大な闇の組織。その名が、王都に近いこの由緒ある伯爵家において、一人の令嬢を縛り付ける『花嫁修業』の予定表に堂々と刻まれている。


「どうやら、ただの厳しい花嫁修業というわけではなさそうですね」


リディアは予定表を静かに閉じ、窓の外の薄暗い空を見つめた。

腐った貴族の悪意は、確実に一つの線で繋がろうとしていた。

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