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第10話 扇を閉じる音

「元悪役令嬢が、今はしがない作法教師の腰巾着ですって? 世も末ですわね」


豪奢な調度品に囲まれた伯爵家の客間に、下品な嘲笑が響き渡った。

上座のソファーで優雅に扇を揺らすのは、この屋敷の女主人である伯爵夫人。そしてその隣でニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべているのは、次期当主である彼女の息子――セレスティナの『元婚約者』だった。


「本当に惨めなものだ。かつては侯爵家の令嬢として我々を見下していたお前が、今や平民の教師の後ろに控えるただの小間使いとはな。お前を捨てて正解だったよ」

「お黙りなさいな。今のこの家に相応しい花嫁は、そこにいるクララさんなのですから。ねえ、クララ?」


話を振られ、部屋の隅で硬直していた若い令嬢クララが、ビクッと肩を震わせた。

彼女の顔色は悪く、目の下にはうっすらと隈ができている。だが、伯爵夫人の鋭い視線に急き立てられるように、無理やり引きつった笑みを作った。


「え、ええ、お義母様。その通りですわ。わたくしが、この家に相応しい……完璧な花嫁ですの」


セレスティナは、元婚約者親子からのあからさまな侮辱を浴びても、表情一つ変えなかった。

背筋を伸ばし、両手を前で組んだまま、静かに伏し目がちに立っている。

ただ、その胸の奥では、かつて自分が同じように他者を嘲笑い、家柄という権力で他人の尊厳を踏みにじっていた過去の罪が、鋭い棘となって突き刺さっていた。


(ええ、わたくしは愚かでした。だからこそ、今のわたくしには、あなた方の醜さが痛いほどよく分かりますわ)


セレスティナが黙って耐えている間、黒いドレスの作法教師リディア・グレイスは、銀縁眼鏡の奥の灰紫の瞳で静かに事態を観察していた。

彼女はセレスティナが自分で乗り越えるべき壁だと分かっているからこそ、あえて助け舟を出さず、予定されていた『花嫁修業の確認』という名目で茶会の席に座り続けていた。


「さあ、クララ。王宮からいらした厳しい先生に、あなたの完璧な給仕をお見せなさい」


伯爵夫人の言葉は、クララを試すような、ねっとりとした重圧を含んでいた。

クララは青ざめた顔で立ち上がり、控えていた侍女からティーポットを受け取ろうとした。

しかし、極度の緊張と睡眠不足からか、クララの手がわずかに震え、侍女の手とぶつかってしまった。


ガチャン!

ティーポットが傾き、熱い紅茶がテーブルにこぼれ、クララのドレスの裾をわずかに汚した。


「あっ……!」


部屋の空気が、一瞬にして凍りついた。

伯爵夫人の目が、スッと細められる。


「……何をしているの、クララ。そんな無様な真似、我が伯爵家の名折れですわよ」

「ち、違います! わたくしのせいではありません!」


クララは恐怖に顔を歪め、すぐさま隣で青ざめている侍女を激しく睨みつけた。


「この愚図! あなたが余計な動きをするから、わたくしのドレスが汚れたじゃないの!」

「も、申し訳ございません、クララ様……!」

「謝って済む問題ではないわ! わたくしの花嫁修業を邪魔する気!? 許さない、この無能……っ!」


クララがヒステリックに叫び、平手打ちを食らわせようと右手を高く振り上げた。

侍女がギュッと目を閉じ、身をすくめた。

誰もが、その理不尽な暴力が振り下ろされると思った、その瞬間。


パチン、と。


乾いた音が、客間に響き渡った。


「そこまでになさいませ」


いつの間にか、クララと侍女の間に、一人の女性が立っていた。

閉じた扇を、クララの振り下ろそうとした腕の前にスッと差し出し、その動きを完全に制止している。

元侯爵令嬢、セレスティナだった。


「なっ……! ただの助手が、わたくしに指図する気!?」

「ええ。止めますわ」


セレスティナは、クララの怯えと怒りが入り混じった顔を、真っ直ぐに見据えた。


「その理不尽な怒り方。自分の弱さを隠すために、自分より弱い者を力で押さえつけようとするその打ち方。……昔のわたくしですわ」

「な、何を……」

「だから止めます。その手を振り下ろせば、あなたは謝る前に、自分自身の心を決定的に壊してしまう。わたくしのように、取り返しのつかない罪を背負うことになりますわよ」


セレスティナの静かで、しかし凄まじい気迫に押され、クララは弾かれたように数歩後ずさった。

そこにあるのは、かつての高慢な悪役令嬢としての顔ではない。罪を自覚し、それを背負って前に進むことを決めた、気高い一人の女性としての強さだった。


「……素晴らしい制止です、セレスティナ」


ずっと沈黙を守っていたリディアが、静かに立ち上がった。

彼女の背後では、荷物持ちの近衛騎士レオンハルトが無言で扉の前に立ち、退路を塞いでいる。

窓際には、獣人の少年ミロが鼻をひくつかせて待機していた。


「作法教師の分際で、偉そうに! 我が家の花嫁修業に口出しするなど――」

「花嫁修業の監査こそが、わたくしの仕事です。伯爵夫人」


喚き立てようとする伯爵夫人を、リディアは一瞥すら交えずに冷たく遮った。


「クララ様は極度の疲労状態にあります。まともな判断能力を失っている者に、正しい礼法など身につくはずがありません。……ミロ」

「はい、先生。言われた通り、旦那様の書斎から持ってきたよ。……すごい嫌なインクの匂いがした」


ミロが素早く駆け寄り、リディアの前に数冊の分厚い帳簿をドンッと置いた。


「なっ、それは我が家の家政帳簿……! いつの間に!」

「先ほど、あなた方がセレスティナを嘲笑することに夢中になっている間に、助手に回収させました」


リディアは銀縁眼鏡を押し上げ、冷徹な手つきで帳簿のページをめくっていく。


「花嫁修業において、家政の把握は必須項目。監査対象としては当然の書類です。……なるほど。表向きの帳簿には記載されていない、奇妙な支出がありますね」

「返せ! それは他所様に見せるようなものではない!」

「ええ。絶対に見せられないでしょうね。毎月、王都の『金冠教育会』へ、莫大な額の定期送金が行われているのですから」


伯爵夫人と元婚約者の顔から、一気に血の気が引いた。


「金冠教育会……やはり、あなた方はあの組織と繋がっていたのですね」


リディアの灰紫の瞳が、剣呑な光を帯びる。

だが、問題はそれだけではなかった。帳簿の間に挟まれていた、別紙の束。

リディアがそれを引き抜くと、そこにはおぞましい事実が記載されていた。


「……『花嫁修業罰金表』」


リディアの低い声に、クララがビクッと肩を震わせた。


「お茶の温度が低い罪、銀貨一枚。刺繍の糸を間違えた罪、銀貨三枚。……そしてこれらの罰金は、クララ様の『持参金』から引かれている。さらに、罰金を払いきれなかった場合の連帯責任として、侍女の給金からも天引きされている」

「や、やめて……っ」

「クララ様、あなたは加害者であると同時に、完全に搾取される被害者だった。睡眠を削られ、過酷な罰金で精神を追い詰められ、他人に当たり散らすように仕向けられていたのですね」


クララはその場にへたり込み、両手で顔を覆って泣き崩れた。

自分が壊されていることにすら気づかず、必死に完璧な花嫁を演じようとしていた少女の、痛ましい末路だった。


「さらに、興味深い書類がもう一枚見つかりました」


リディアが最後に取り出したのは、伯爵夫人の署名が入った一枚の羊皮紙だった。


「クララ様を修道院へ送るための、準備書類。……伯爵夫人。あなた方は最初から、クララ様を持参金だけ奪い取り、精神を壊して修道院へ厄介払いするつもりだったのですね」


証拠は揃いつつあった。

リディアの冷たい視線が、凍りついた伯爵家の一同を射抜く。

扇を閉じる音から始まった小さな波紋は、腐った貴族の悪意を暴き出す決定的な濁流へと変わろうとしていた。

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