第11話 偽りの花嫁修業
分厚い作法教本に落ちたインクの染みは、極度の睡眠不足に耐えきれず、クララが手からペンを滑らせた痕だった。
「また居眠りですか。我が伯爵家の妻となる者が、その程度の集中力でどうするのです」
冷ややかな叱責の声に、若い令嬢クララは弾かれたように顔を上げ、フラフラと立ち上がって深く頭を下げた。
「も、申し訳ございません……! わたくしが至らないばかりに……すぐに、次の項目を暗記いたします……!」
王都に近い伯爵家の書斎。
豪奢なソファーに腰掛け、冷たい紅茶をすすっているのは、クララの婚約者である伯爵家の青年だ。その向かいには、昨日の茶会でセレスティナを嘲笑っていた伯爵夫人が、扇の陰で冷酷な笑みを浮かべている。
二人の前で、クララは青ざめた顔に濃い隈を作りながら、必死に教本を読み上げていた。
「『食事の席において、妻は夫の食事の進み具合を常に把握し、自らの食事は二の次とするべし』……っ、ふぅ、ふぅ……」
「声が震えていますよ、クララ。それに姿勢も悪い。これでは昨日の失敗の分を取り戻せませんね。今日の夕食も、反省のために抜くべきかしら」
伯爵夫人のねっとりとした言葉に、クララは恐怖に目を見開きながらも、力なく頷いた。
「はい、お義母様……。わたくしのような愚かな娘には、当然の罰ですわ。お義母様のおっしゃる通り、もっと、もっと厳しく指導していただかなければ……」
その光景を、半開きになった書斎の扉の隙間から、リディアとセレスティナは静かに見つめていた。
(……あの子、昔のわたくしより、ずっと危ない顔ですわ)
セレスティナは、自らのドレスの裾を強く握りしめた。
昨日の茶会で、クララは侍女に対してヒステリックに怒鳴り散らし、手を上げようとしていた。一見すれば、彼女はかつてのセレスティナと同じ、家柄を笠に着た傲慢な加害者に見える。
しかし、真実は違った。
「先生。あの令嬢は、自分が壊されていることにすら気づいていませんわ」
セレスティナは、リディアの耳元で震える声を絞り出した。
「わたくしは昔、自分の高慢さを自覚した上で他者を見下していました。ですが、あの子は違います。義母と婚約者からの虐待を『自分のための正しい教育』だと思い込まされている。だから、どれだけ理不尽な罰を与えられても、反抗するどころか、自分から罰を受け入れようとしてしまう……」
絶対的な支配と、隔離された空間での洗脳。
それが、伯爵家がクララに強いている『偽りの花嫁修業』の正体だった。
クララが侍女に当たり散らしていたのも、極限状態に追い詰められた精神が、無意識に捌け口を求めた結果に過ぎない。
リディアは銀縁眼鏡を静かに押し上げ、灰紫の瞳を細めた。
「ええ。加害者に見える者もまた、別の誰かの被害者である。……貴族社会の最も腐敗した構造ですね」
その時、廊下の奥から足音を消して、獣人の少年ミロが小走りで戻ってきた。
彼は周囲に誰もいないことを鼻で確認すると、リディアたちを見上げて犬の耳をピンと立てた。
「先生。使用人部屋と厨房の匂いを嗅いできました」
「ご苦労様でした、ミロ。クララ様の食事について、何が分かりましたか?」
「ひどいもんです。お貴族様たちは肉や甘いお菓子を食べてるのに、クララ様の分として厨房から運ばれていくのは、塩も入ってない薄いスープと、硬いパンの欠片だけです。しかも……」
ミロは悔しそうに顔をしかめ、犬歯をギリッと鳴らした。
「クララ様、その粗末な食事すら、まともに口にできてません。使用人部屋で、お腹を空かせた侍女たちが同じものを食べてました。クララ様の食事が、罰としてそのまま侍女たちに回されてるんです」
「食事制限に、睡眠制限……そして、精神の支配ですか」
背後に立つ近衛騎士レオンハルトが、微かに眉根を寄せた。
「殿下。このままでは、彼女が完全に壊れるのは時間の問題です」
「分かっています、レオンハルト。ですが、監査を発動するためには、被害者本人の意思確認が必要です。今のクララ様は、自らが被害者であると認識できていない。ただ処分を下すだけでは、彼女の心は救われません」
リディアの言葉に、セレスティナがハッと息を呑む。
そうだ。物理的に環境から引き離すだけでは意味がない。クララ自身が、「自分は不当に扱われていたのだ」と認識し、声を上げなければ、彼女は一生、自分を責め続けることになる。
罰金帳簿も、修道院送りの準備書類も、証拠はすでに揃っている。
だが、クララ自身が「自分は不当に扱われていた」と認め、声を上げない限り、白百合巡察令は彼女に届かない。
これまで裁いてきたどの貴族よりも厄介な、心の檻だった。
「……ミロ。あの子の心に踏み込みます。あなたの力が要りますよ」
「うん、先生。あの子の檻、必ずこじ開けてみせる」
ミロが犬の耳をピンと立てて頷いた。
腐った契約と洗脳に縛られた令嬢を救い出す、本当の戦いは、ここからだった。




