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第12話 罰金帳簿

「第十二項。修業において生じた一切の損害は、令嬢の持参金より補填する。ならびに第三十項。本契約に関する一切の不服申し立て、及び第三者への証言権を放棄する」


豪奢な書斎に、王宮作法教師リディア・グレイスの感情の読めない冷たい声が響いた。

彼女の手にあるのは、クララの実家とこの伯爵家との間で結ばれた分厚い『婚約契約書』だ。そこに並んでいたのは、およそ貴族間の婚姻とは思えない、奴隷契約と見紛うばかりの不当条項の数々だった。


「……随分と念入りに、クララ様の逃げ道を塞いでおいでですね、伯爵夫人」


リディアは銀縁眼鏡の奥から、ソファーに座る伯爵夫人と、その息子である婚約者の青年を静かに見据えた。

二人は一瞬だけ顔をしかめたが、すぐに鼻で笑って余裕の態度を取り繕った。


「失礼な言い方ですわね、先生。これは両家の当主が合意し、正式に署名を交わした契約書ですわ。あの子の実家も、少しばかりの持参金で出来の悪い娘を押し付けられて、せいぜい安堵していることでしょうよ」

「その通りだ。出来損ないを完璧な花嫁に教育してやっているんだから、これくらいの手間賃や規則は当然だろう? 第三者に文句を言われる筋合いはない」


悪びれもせず言い放つ親子の醜悪さに、セレスティナは扇を握る手を小刻みに震わせた。

家のために売り飛ばされ、洗脳され、持参金だけを搾取される道具として扱われる令嬢。かつての自分とは違うベクトルで、貴族社会の闇に押し潰されているクララの姿が痛ましかった。


「クララ様」


リディアは、部屋の隅で力なく俯いているクララに静かに語りかけた。


「彼らはあなたを教育しているのではなく、あなたの持参金を奪うために、意図的に『失敗』を作り出しているのです。不当な食事制限や睡眠不足もすべて、あなたから思考力と気力を奪い、この契約書に縛り付けるための手口です」

「あ……っ、ちが、違います……っ」


クララは怯えたように後ずさり、首を激しく横に振った。


「わ、わたくしが至らないからです……! お義母様や旦那様は、わたくしのために……っ。わたくしが、悪い娘だから……罰を受けなければ……!」


完全に洗脳状態にあるクララの悲痛な声。

リディアは静かに目を伏せた。

白百合巡察令の発動には、被害者本人の明確な意思確認が必要だ。自分が被害者であると認識できていない状態のクララを無理やり保護しても、彼女の心は一生「自分は罰から逃げた悪い人間だ」という罪悪感に苛まれ続けることになる。


(今はまだ、王命監査は下せませんね。……ならば)


リディアは視線を上げ、クララの背後に控えていた若い侍女を見た。

昨日の茶会でクララに理不尽に怒鳴られ、平手打ちをされそうになっていたあの侍女だ。

彼女は極度の栄養失調で痩せ細り、今にも倒れそうなほど顔色が悪かった。


「……ミロ」

「はい、先生」


リディアの短い合図に、獣人の少年ミロが進み出た。


「あのね、クララ様」


ミロはクララを怖がらせないよう、できるだけ優しい声で話しかけた。


「さっき使用人部屋を見てきたんだけど、クララ様の分として運ばれてた塩も入ってないスープと硬いパン、そこの侍女さんたちが食べてました。お腹が空きすぎて、泣きながら食べてましたよ」

「え……?」


クララがハッと息を呑む。

ミロはさらに、リディアの持っている罰金帳簿を指差した。


「クララ様が『失敗』するたびに、クララ様の持参金から罰金が引かれてるって思ってたでしょ? でも、それだけじゃないんです。連帯責任ってことで、侍女さんたちのお給料からも同じだけ罰金が引かれて、ごはんも減らされてるんです」

「そ、んな……」


クララは信じられないものを見るように、背後の侍女を振り返った。

侍女はビクッと肩を跳ねさせ、涙目で深く頭を下げた。


「も、申し訳ございません……っ。わたくしどもが至らないばかりに……」

「違う……わたくしの、わたくしのせいで、あなたが……!?」


自分が罰を受けるのは仕方ないと思い込んでいたクララ。しかし、自分に仕えてくれる無実の侍女までが巻き添えにされ、飢えに苦しんでいたという事実は、彼女の洗脳に小さな、しかし確実なヒビを入れた。


「伯爵夫人。そして婚約者殿」


リディアの氷のような声が、書斎の空気を支配した。


「クララ様の処遇については、婚約契約という建前がある以上、直ちに王宮の権限で覆すことは難しいでしょう。……ですが、そちらの侍女への扱いは別です」

「な、何ですって?」

「王宮給仕規定違反。雇用主の不当な理由による減給、ならびに適切な食事を与えない虐待行為。わたくしは王宮作法教師の権限において、この侍女ひとりを、直ちに一時保護下に置きます」


リディアが宣言すると同時に、レオンハルトが無言で進み出た。

彼は一切の感情を交えず、ただ圧倒的な威圧感を持って侍女の隣に立ち、伯爵家の私兵たちが手出しできないように退路を確保した。


「なっ……! たかが小間使い一人に、大袈裟な!」

「他家の使用人を勝手に連れ出すなど、窃盗も同然だぞ!」

「これは規定に基づいた正当な保護です。不服があるなら、王宮へ申し立てていただきましょう」


リディアは喚く親子の言葉を完全に無視し、怯えるクララに向き直った。

クララは、自分が傷つけてしまったと思っていた侍女が、リディアたちによって守られようとしているのを見て、呆然としていた。


「先生……どうして、わたくしの侍女を……?」

「礼儀とは、強い者が弱い者を踏まないための鎖だからです」


リディアはクララの目を真っ直ぐに見つめ、静かに告げた。


「彼女は、あなたの身代わりとなって踏みつけられていました。だから、わたくしが鎖となって守ります。……あなたも、本当は誰にも踏みつけられてはならない尊い人間なのです、クララ様」


その言葉に、クララの瞳からポロリと大粒の涙がこぼれ落ちた。

彼女は初めて、リディアという存在に対して、すがるような『信じる隙』を見せた。



◇ ◇ ◇



その夜。

冷たい石造りのクララの自室に、乱暴な足音とともに扉が開け放たれた。


「クララ。入るぞ」


現れたのは、婚約者の青年だった。

彼は怯えて縮こまるクララを一瞥し、一枚の書類を乱暴にテーブルに叩きつけた。


「あの作法教師ども、余計な嗅ぎ回りをしやがって。これ以上邪魔をされる前に、予定を早めることにした」

「予定、ですか……?」

「明日の朝までに、この『修道院への自発的な入見同意書』にサインしろ。お前の持参金は十分に回収した。もうお前は用済みだ」


クララは血の気を失い、書類と婚約者の顔を交互に見つめた。


「そ、んな……わたくしは、あなたに相応しい花嫁になるために、こんなに……!」

「相応しい花嫁? 馬鹿を言うな。金冠教育会には、次の『教育の行き届いた素直な娘』を手配してあるんだ。お前のような出来損ないは、修道院で一生祈っていろ」


冷酷に言い放つと、婚約者は扉を乱暴に閉めて去っていった。

残されたクララは、暗い部屋の中で一人、震える手で同意書を見つめていた。

署名の期限は、明日の朝。

彼女に残された時間は、もうわずかしか残されていなかった。

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