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第13話 その婚約、礼儀違反です

「早くその同意書に署名しなさい。お前のような出来損ない、修道院がお似合いよ」


朝の光が冷たく差し込む客間で、伯爵夫人は忌々しそうに扇を鳴らし、冷酷に言い放った。

徹夜で涙を枯らした令嬢クララは、絶望に震える手でインクの付いた羽ペンを握りしめていた。


テーブルの上に置かれているのは、『修道院への自発的な入見同意書』。

一度署名してしまえば、貴族としての身分も、未来も、すべてを奪われ、高い壁の向こうで一生を終えることになる。


「ぐずぐずするな。さっさと書け」


腕組みをした婚約者の青年が、苛立たしげにテーブルを蹴り飛ばした。

ビクッと体を震わせたクララは、ぽたりと涙を落としながら、震えるペン先を羊皮紙へと近づけた。

もはや彼女に抵抗する気力は残されていない。すべてを諦め、自分の名前を記そうとした、その時だった。


「その署名、無効です」


客間の扉が静かに開き、透き通るような冷たい声が響いた。

黒いドレスに銀縁眼鏡の王宮作法教師、リディア・グレイス。彼女の背後には、無言で圧倒的な威圧感を放つ近衛騎士レオンハルトと、鋭い視線を向けるセレスティナ、そして獣人の少年ミロが続いている。


「な、何の真似だ! ここは伯爵家の私室だぞ!」


婚約者が怒鳴り声を上げるが、レオンハルトが一歩踏み出しただけで、その声は惨めに裏返った。


リディアは真っ直ぐにテーブルへ歩み寄ると、クララの手から羽ペンを静かに取り上げた。


「リディア、先生……」

「クララ様。王宮貴族法において、心身が正常な判断を下せない状態での契約署名は、法的に無効とされています。……あなたはもう、彼らの言葉に従う必要はありません」


リディアはクララを背後に庇うように立つと、伯爵夫人と婚約者を冷徹な灰紫の瞳で見据えた。


「作法教師の分際で、我が家の決定に口出しする気!? この娘は自ら修道院へ行くことを望んだのですわ!」

「自発的、ですか。持参金を搾取し尽くした挙句、精神を壊して厄介払いしようとしているだけではありませんか」


リディアは鞄の中から、昨日ミロが回収した分厚い『家政帳簿』と、婚約契約書の写しを取り出した。


「一つ。婚約契約における不当条項。無償奉仕の強要、失敗時の持参金減額、ならびに第三者への証言権の放棄。これらはすべて、貴族間の対等な婚姻を著しく侮辱する奴隷契約です」

「い、言いがかりよ! それは両家が合意した――」

「二つ。罰金帳簿と、それに伴う侍女たちへの給金天引き、および劣悪な食事制限。これは明確な雇用契約違反であり、王宮給仕規定への反逆です」


リディアの声は怒鳴ってはいない。

しかし、その一言一言が重い鉄の鎖となり、親子の逃げ道を確実に塞いでいく。


「そして三つ。クララ様の判断能力を奪い、同意書への署名を強制した『証言封じ』の罪」


リディアは、テーブルの上の同意書を指差した。


「これら三点の証拠と、被害者たちの状況をもって、わたくしは最終的な判断を下します」


リディアはいつもの地味な裁縫箱を開け、その底から純白の封蝋章を取り出した。

それは、王族のみが持つことを許された『白百合の巡察章』。


「な、何だ、それは……!」


婚約者が息を呑む。

伯爵夫人はその紋章の意味を理解し、顔面を蒼白にさせてソファーからずり落ちた。


「跪きなさい」


リディアの声は、底知れぬ威厳と重圧を伴って客間を支配した。


「授業は終わりです。白百合巡察令により、この屋敷を王命監査下に置きます」


圧倒的な権威の前に、伯爵夫人も婚約者も声を発することすらできず、床に這いつくばるしかなかった。


「クララ様」


リディアは振り返り、呆然としているクララへと言葉を紡いだ。


「王族の権限において、この不当な婚約契約は、あなた側からの『破棄』として正式に受理します」

「わたくし、から……?」

「ええ。あなたは捨てられたのではありません。自らの意思で、この腐った家を切り捨てたのです」


その言葉に、クララは両手で顔を覆い、子供のように声を上げて泣き崩れた。

セレスティナがそっと寄り添い、その震える背中を優しく撫でる。

彼女の背後では、一時保護された侍女たちも抱き合いながら安堵の涙を流していた。


「伯爵夫人。搾取した持参金と侍女たちの未払い給金は、すべてこの家の資産から回収させていただきます。……その後の処遇については、王都の裁きを待ちなさい」



◇ ◇ ◇



監査の事後処理が終わり、騒動が落ち着きを取り戻した午後。

リディアは屋敷の庭園に出て、静かに深呼吸をした。


法と証拠で悪を裁き、弱い者を救う。

しかし、そのために被害者に『声』を上げさせる過程は、リディア自身にとっても心をすり減らす作業だった。クララのように、洗脳され、声を出すことすら恐れていた少女を直視するのは、王女の心にも確かな痛みを残す。


「……お怪我はありませんでしたか、殿下」


静かな庭園に、低く落ち着いた声が響いた。

振り返ると、近衛騎士レオンハルトが数歩離れた位置で足を止めていた。


「ええ。あなたが常に退路を塞ぎ、彼らの暴挙を牽制してくれていたおかげです」

「それが、私の役目ですから」


レオンハルトは真っ直ぐにリディアを見つめ、不意に、いつもより少しだけ柔らかい声で言った。


「……あなたは厳しいが、残酷ではない」

「え……?」

「ただ悪を裁くのではなく、彼女が『自ら切り捨てた』という形を残した。彼女の尊厳を守るために。……あなたにしかできない、厳しいからこその救済です」


レオンハルトの言葉に、リディアは思わず息を呑んだ。

王女としての冷徹な仮面の奥にある、不器用な優しさと痛みを、この寡黙な騎士だけは正確に理解してくれている。


リディアは上手い言葉を返すことができなかった。

だが、その真っ直ぐな言葉を否定することもできず、ただ、銀縁眼鏡の奥で微かに瞳を伏せた。


「……ありがとうございます」


風が吹き抜け、木々の葉が優しく擦れ合う。

二人の間に流れる静かな時間は、主従という立場を超えた、確かな信頼と温かさを孕んでいた。



◇ ◇ ◇



「先生……」


夕暮れ時。

王都の保護施設へ出発する準備を整えたクララが、リディアのもとへやってきた。

その顔にはまだ疲労が残っているが、かつての異常な怯えは消え、自分の足でしっかりと立っている。


「本当に、ありがとうございました。わたくし、修道院ではなく、実家へ戻って一からやり直します。侍女たちも、実家で正当な給金を払って雇い直すことにいたしました」

「良い判断です。あなたなら、きっとやり直せます」


リディアの言葉に、クララは微かに微笑んだ。

だが、すぐにその表情を曇らせ、周囲を気にするように声を潜めた。


「あの……先生。一つだけ、お伝えしておかなければならないことが」

「何でしょう?」


クララは震える両手を強く握り締め、恐怖に耐えるように言った。


「昨日、お話しした『金冠教育会』のことです。わたくし、義母様が持っていた書類を見てしまったんです」

「書類、ですか」

「はい。金冠教育会が発行している、『評価簿』です。王国の令嬢たちを点数づけして、婚約の価値を決めるリスト……。そこに、わたしの名前が載っているのを見ました」


クララの瞳に、深い恐怖の色が浮かぶ。


「義母様は言っていました。あの評価簿で『低評価』の烙印を押されたら、単なる婚約破棄では済まない。……修道院送りか、それすら許されず、家から完全に『消される』のだと」


その言葉に、リディアの背後で聞いていたミロとセレスティナが息を呑む。

令嬢を点数化し、不要な者を社会から抹殺するシステム。


金冠教育会の巨大な闇が、いよいよその恐ろしい実態を現し始めていた。

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