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第6話 裏口の首輪痕

「獣人は裏口をお使いなさい。その泥と獣臭い足で、我が家の絨毯を汚すおつもり?」


鉱山主の娘である令嬢カテリーナは、鼻をハンカチで覆いながら露骨に顔をしかめた。

玄関ホールに敷き詰められた豪奢な赤絨毯。その手前で、荷物持ちとして同行していた獣人の少年ミロはピタリと足を止め、犬の耳をシュンと伏せた。


「……申し訳ありません。僕、裏に回ります」

「お待ち遊ばせ、ミロ」


踵を返そうとしたミロを、黒いドレスの作法教師リディア・グレイスが静かな声で引き留めた。


ここは王都から離れた活気ある鉱山町。

表向き、この国において獣人の奴隷制度は制限されつつあり、この町でも「獣人はすべて正当な対価を払って雇用している自由民である」と王宮へ報告されていた。


リディアは銀縁眼鏡の奥の灰紫の瞳で、フリルを過剰にあしらったドレスを着るカテリーナを見据えた。


「カテリーナ様。彼はわたくしの正当な助手であり、自由民証を持つ立派な王国臣民です。客人の随行員を裏口へ追いやる行為は、客人への明確な侮辱にあたりますが」

「侮辱だなんて、大袈裟な! うちはお金を払って作法教師を『雇ってあげた』のですわ。家畜同然の獣人を正面から入れるなんて、鉱山主であるお父様に叱られてしまいます」


カテリーナは悪びれる様子もなく、ふんぞり返った。

その背後で、荷物を持った近衛騎士レオンハルトが無言のまま冷ややかな視線を向け、元侯爵令嬢のセレスティナが静かに扇を広げる。


(……救いようのない方。自分がどれほど無知で恥ずかしい振る舞いをしているか、理解すらしていませんわ)


セレスティナは内心で毒づいた。

財力だけで成り上がった地方の鉱山主。その富を傘に着て、自分より弱い立場の者を「家畜」と呼んで見下すことでしか、自らの価値を見出せない哀れな令嬢。

かつての自分を見ているようで、セレスティナは奥歯を噛み締めた。


「……よろしい。では、早速ですが『王族の前でも恥をかかないための礼儀作法』の授業を始めましょう」


リディアは一切の感情を交えず、淡々と告げた。

その隙に、リディアの視線による合図を受け取ったミロは、スッと気配を消して屋敷の奥へと姿を消した。



◇ ◇ ◇



応接室に通されたリディアは、カテリーナの日常的な振る舞いを評価するための茶会指導を行っていた。

部屋の隅には、給仕のために二人の獣人の少女が控えている。猫の耳を持つ彼女たちは、粗末な木綿の服を着て、怯えたように肩を縮めていた。


「おい、そこの猫。お茶のおかわりを注ぎなさい。こぼしたら承知しないわよ」


カテリーナが顎でしゃくると、獣人の少女は「ひっ」と短い悲鳴を漏らし、震える手でティーポットを持ち上げた。

カチャリ、とリディアがティーカップをソーサーに置く音が響く。


「カテリーナ様。一つ、王宮給仕規定への違反です」

「はあ? 何がですの? わたくしは優雅に紅茶を飲んでいるだけですわ」

「あなたは今、給仕の者を名前で呼ばず、『そこの猫』と種族名で呼び捨てにしました」


リディアの指摘に、カテリーナはきょとんとした顔をした後、鼻で笑った。


「作法教師ともあろう者が、おかしなことを言いますのね。家畜に名前など必要ありませんわ。馬や牛をいちいち名前で呼びますか?」

「ここは王宮の作法を学ぶ場です。王宮において、使用人を名で呼ばず道具のように扱う者は、自らの統治能力の欠如を露呈する『無能』とみなされます」


リディアの声は怒鳴ってはいない。だが、確かな冷たさを持ってカテリーナの傲慢さを切り捨てた。


「上に立つ者としての器は、下位の者をどう扱うかで決まります。彼女たちを家畜と呼ぶのであれば、あなたの家格もまた、家畜小屋の主と同等にまで落ちるということです」

「な、生意気な……! お父様に言いつけてやりますわ!」

「どうぞご勝手に。ですが、現在のあなたの評価は『落第』です」


カテリーナが顔を真っ赤にして憤慨している間、リディアは眼鏡の奥で静かに思考を巡らせていた。

この令嬢は、真の悪人というより、親の歪んだ教育をそのまま受け継いだだけの無知な子供だ。

真の問題は、この屋敷に染み付いた『制度』そのものにある。



◇ ◇ ◇



同じ頃。

ミロは持ち前の身軽さを活かし、屋敷の裏手、地下倉庫へと続く階段を音もなく下りていた。

湿った冷たい空気が肌を撫でる。


(……嫌な匂いがする)


ミロの犬の耳が、警戒を示すようにピンと立った。

カビや埃の匂いではない。それは、ミロ自身がかつて嫌というほど嗅がされ、そして今でも悪夢に見る匂い。


錆びた鉄の匂い。

血と汗がこびりついた、冷たい金属の匂い。

――『奴隷輪』の匂いだ。


「この町には、奴隷はいないはずなのに……」


ミロは壁伝いに歩き、地下倉庫の奥にある木箱の陰を覗き込んだ。

そこには、ボロボロの麻袋を被り、膝を抱えて震えている犬系の獣人の少女がいた。

年齢はミロより少し下、十四、五歳だろうか。彼女はミロの気配に気づくと、怯えた獣のように壁際へ後ずさり、必死に自分の首元を両手で隠した。


「……来ないでっ、私、ちゃんとお仕事しますから、叩かないで……!」

「大丈夫。僕は敵じゃないよ。ほら、君と同じだ」


ミロはゆっくりとしゃがみ込み、自分の頭の犬耳を指差した。

そして、かつてリディアから与えられた、首輪のない自分の首元を見せる。


「君、名前は? なんでこんな暗いところに隠れてるの?」


少女はミロの耳を見て、少しだけ警戒を解いた。

だが、依然として首元を隠す手は離さない。


「わ、私は……ただの『犬』です。お嬢様のお茶会には、綺麗な子しか出ちゃ駄目だって……傷がある子は、ここにいなさいって、旦那様に……」

「傷?」


ミロが優しく問いかけると、少女は恐る恐る、首元を覆っていた両手を離した。

そこには、生々しい擦過傷があった。

重く冷たい鉄の輪を、長期間にわたって無理やりはめられていたことによってできる、皮膚の爛れ。ミロ自身の首にも、うっすらと残っている『奴隷の証』だった。


ミロは少女の傷を見て、怒りで全身の毛を逆立てそうになった。

だが、リディアの「匂いだけでは証拠になりません」という教えを思い出し、グッと堪える。

ミロは鼻をひくつかせ、少女の首の傷から漂う匂いを慎重に嗅ぎ取った。


そして、ミロの瞳が驚きに見開かれる。



◇ ◇ ◇



「先生」


応接室から離れ、廊下の隅で待機していたリディアのもとへ、ミロが足早に戻ってきた。

その表情は、いつものお調子者のそれではなく、真剣そのものだった。


「地下倉庫に、女の子が隠されてました。首に、僕と同じ奴隷輪の傷がありました」

「……やはり、違法な奴隷使役が行われていましたか」


リディアが静かに頷く。だが、ミロは首を横に振った。


「違います、先生。ただの古い傷じゃありません。あの首輪痕には……最近外されたばかりの、強い薬草の匂いが残ってました」


その言葉に、背後に立つレオンハルトの目が鋭く細められた。


「つまり、誰かが意図的に外した、と?」

「はい。僕たち『王宮の作法教師』がこの屋敷に来る直前に、慌てて首輪を外し、薬で傷を隠そうとしたんだと思います。……この屋敷、裏で何かとんでもないことをやってます」


王宮の目をごまかすための、巧妙な隠蔽工作。

リディアは銀縁眼鏡の奥で、灰紫の瞳を静かに冷たく光らせた。

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