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第4話 破られた青いドレス

床に無惨に放り投げられた青いシルクのドレスは、見事な刺繍の縁から真っ二つに引き裂かれていた。

「まあ。可哀想に、不作法なネズミにでも齧られたのかしらね?」

正妻の娘である華やかな姉たちが扇で口元を隠して嗤う前で、庶子の少女マリナはただ黙って俯いていた。


悲鳴すら上げない。怒りも、悲しみも通り越し、ただ「自分が存在していること自体が罪なのだ」と諦めきった暗い瞳。

ここは王都から馬車で数日の距離にある、とある子爵家の屋敷。

三日後に控えた領主主催の大舞踏会に向け、王宮作法教師として派遣されたリディア・グレイスが案内された部屋で、最初に行われていたのは『授業』ではなく、陰湿な『排除』だった。


「ごきげんよう、作法教師の先生。わざわざ田舎までご苦労様ですわ」


足音もなく部屋に入ってきたリディアたちに気づき、姉令嬢たちはあからさまに見下したような笑みを浮かべた。

彼女たちの視線は、地味な黒いドレスに銀縁眼鏡というリディアの姿を一瞥し、すぐに興味を失ったように逸らされる。


「本日から三日間、舞踏会作法の指導を担当いたします、リディア・グレイスです。……そちらの青いドレスは、どうなさいましたか?」


リディアは感情の欠落した平坦な声で尋ねながら、床に落ちた無惨な布切れを一瞥した。


「ああ、これ? うちの『日陰者』のドレスですのよ。保管の仕方が悪くてネズミに齧られてしまったみたいで。これではとても、三日後の舞踏会には着ていけませんわね」


姉がわざとらしく肩をすくめる。

妹もそれに同調し、クスクスと笑い声を漏らした。


「お父様も困ったものですわ。平民の血が混じった薄汚い庶子など、初めから存在しないものとして扱えばよろしいのに、情けをかけて屋敷に置くからこんな惨めな思いをするのです。ねえ、マリナ?」


名指しされたマリナは、ビクッと肩を震わせ、さらに深く頭を下げる。

その様子を背後から静かに見つめていたセレスティナは、自らの扇を握る手にギリッと力を込めた。


(……あの子たち、昔のわたくしと同じ顔をしていますわ)


セレスティナは内心で自嘲するように毒づいた。

血筋の良さだけを拠り所にし、自分より立場の弱い者を嘲笑うことでしか、己の価値を証明できない浅ましさ。

自分がどれほど醜く歪んだ顔をしているか、気づきもしない傲慢な令嬢の姿。それは、かつてリディアに叩き直される前の、セレスティナ自身の姿そのものだった。


「先生。そのやり方では、あの子が壊れます」


セレスティナはリディアの耳元で囁いた。

イザベラ令嬢の時とは違う。マリナは加害者ではなく、完全に搾取され、心を殺されている被害者だ。


「ええ、分かっています」


リディアは短く応じると、ゆっくりと部屋の中央へ歩み出た。

その後ろでは、近衛騎士レオンハルトが無言で部屋の出入り口に立ち、逃げ道を塞ぐように視線を配っている。

そして、部屋の隅では獣人の少年ミロが、鼻をひくつかせて顔をしかめていた。


「先生、この部屋、キツい香水の匂いが充満してますけど……その下に、刃物の油と、嫌な汗の匂いがします」


ミロの呟きは、姉令嬢たちの耳には届いていない。

リディアは床に落ちた青いドレスの残骸を静かに拾い上げ、指先でその裂け目をなぞった。


「ネズミが齧った、とおっしゃいましたね」


「ええ、そうですわ。この家には不作法なネズミが住み着いているのです」


「……なるほど。随分と器用なネズミですね。真っ直ぐに、刃物で切り裂いたような鋭い跡を残すとは」


リディアが眼鏡の奥の灰紫の瞳で姉たちを見据えると、二人の令嬢は一瞬だけ動揺を見せ、すぐに不快そうに顔を歪めた。


「教師ごときが、何が言いたいの? そもそも、そんな日陰者が舞踏会に出る必要なんてありませんのよ。わたくしたち正妻の娘がいれば、この家の体面は十分に保たれますわ」


「体面、ですか」


リディアは青いドレスを持ったまま、冷徹な声で言い放った。


「王宮舞踏会規定、第七項。『当主の籍にある未婚の子女は、正当な理由なく社交の場を欠席してはならない。故意に家族の存在を隠匿する行為は、家格の詐称および、主催者への重大な侮辱とみなす』」


「なっ……」


「マリナ様が庶子であろうと、この家の籍に入っている以上は貴族の子女です。彼女を存在しない者として扱い、紹介順から外すというのなら、あなた方は主催者である領主、ひいては王宮の定めた社交秩序を根底から侮辱していることになります」


正論と規定という名の鎖で殴りつけられ、姉令嬢たちは絶句した。

作法とは、優雅に踊るためだけの飾りではない。貴族社会において、誰がどの立場にあり、誰と結びつくのかを証明する『法』そのものなのだ。


「そんな……っ、ただの作法教師の分際で、偉そうに! わたくしたちが誰と結びつくか知っての暴言ですの!?」


姉令嬢が顔を真っ赤にして叫ぶ。


「ええ。あなた方のどちらかが、この地方で最も力を持つ伯爵家の御曹司と婚約する予定だということは存じております」


リディアは動じない。

彼女の視線は、手元にある引き裂かれた青いドレスの一点に注がれていた。


「ですが、奇妙ですね」


リディアの細い指先が、ドレスの裂け目に絡みついていた『一本の糸』を摘み上げた。

それは、青いシルクのドレスには不釣り合いな、太く光沢のある金糸だった。

明らかに、ドレスを切り裂いた際、刃物か、あるいは犯人の衣服から引っかかって残されたものだ。


「……先生、その匂い」


ミロが耳をピンと立ててリディアのそばに寄る。


「姉さんたちの香水じゃないです。もっと別の……男の人が使うような、高そうな香の匂いが染み付いてます」


リディアは金糸を光にかざし、静かに目を細めた。


「この特殊な撚り方の金糸……そして、この染料の匂い。王宮の儀礼服にも使われる特注品ですね」


「そ、それがどうしたというの!」


「この金糸は、あなた方の家のものではありません。……そして当然、マリナ様のものでもない」


リディアは姉たちに、そして部屋の隅で震えるマリナに向けて、冷ややかに告げた。


「この糸は、マリナ様が密かに縁談を進められていた『婚約予定家』の紋章を刺繍するための糸と、完全に一致します」


その言葉に、マリナが初めて弾かれたように顔を上げた。

姉令嬢たちの顔から、さっと血の気が引いていく。


ただの姉妹間の嫌がらせではない。

この破られたドレスの裏には、マリナの存在を意図的に抹消し、婚約を横取りしようとする『契約の改竄』の匂いが色濃く漂っていた。

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