第39話 自由民証と白い封筒
「修道院へ送られたすべての令嬢の再審査を急がせなさい。同時に、金冠教育会が不当に没収していた侍女たちの未払い給金は、ローゼンフェルド公爵家の資産から全額補填して返還します」
王宮に設けられた臨時執務室。机の上に山のように積まれた書類を前に、リディアは疲労を見せることなく次々と決済のサインを走らせていた。
金冠教育会という巨大な組織が崩壊した後、王都は未曾有の混乱に包まれていた。だが、リディアにとってはここからが本当の『世直し』の始まりだった。
不当に奪われた財産を被害者へ返し、令嬢評価簿によって未来を閉ざされた少女たちには、王室主導で新たな学びの場と進路を提供する。
「完全な勝利ではない」と自覚しているからこそ、彼女は一人でも多くの民を救い上げるため、寝る間も惜しんで法と制度の再構築に奔走していた。
その改革の波は、人間社会の底辺に置かれていた獣人たちにも及んでいた。
「ミロ。あなたの自由民証の更新手続きが完了しましたよ」
リディアが差し出した新しい銀色のプレートを受け取り、ミロは犬の耳をピンと立てて目を輝かせた。
そこには、王国の正式な公印と共に、ミロ自身がたどたどしい文字で書いた『ミロ』という署名がしっかりと刻印されていた。
「これでもう、誰にも偽造だなんて言わせません。……さらに、今回のあなたの働きを王宮が公式に評価したことで、新たな法律が制定されました」
「新しい法律?」
「『証言補助制度』です。獣人の嗅覚や聴覚による証言を、物証や第三者の証言と結びつけることを条件に、正式な証拠として法廷で採用する制度です」
その言葉に、ミロの尻尾がちぎれんばかりに大きく揺れた。
それは、獣人がただの家畜や奴隷ではなく、真実を見極める力を持った『人間と同じ尊厳を持つ存在』として、王国に公式に認められたことを意味していた。
「やった……! やったよ、先生! これで僕たち獣人も、ただ我慢して泣き寝入りしなくてよくなるんだね!」
「ええ。あなたが恐怖に負けず、自らの感覚を信じて戦い抜いた結果です。誇りに思いなさい」
リディアの優しい言葉に、ミロは嬉し泣きをごまかすように、ガシガシと目元を擦った。
一方、別の会議室では、金冠教育会に関与していた貴族たちの責任を問う査問委員会が開かれていた。
重苦しい空気の中、証言台に立ったのはセレスティナ・ヴァルモントだった。
『……ヴァルモント侯爵令嬢。あなたはかつて、周囲の令嬢を不当に虐げ、社交界を混乱させた罪で裁かれた身。そのあなたが、どの口で他者の罪を告発するというのかね』
年配の審査官から向けられた刺々しい言葉。
以前の彼女であれば、屈辱に顔を真っ赤にしていただろう。だが、今のセレスティナは優雅に扇を開き、凛とした態度で審査官たちを見回した。
「ええ、その通りですわ。わたくしはかつて、自らの家柄を笠に着て他者を見下す、愚かな加害者でした」
彼女は逃げ隠れすることなく、自らの過去の罪を公の場で認めた。
「ですが、わたくしはリディア先生に裁かれ、自分の過ちを正面から見つめ直す機会をいただきました。……わたくしは、裁かれた側でした。だからこそ、変われる者と、鎖で止めなければならない者の違いを、誰よりも深く知っています」
セレスティナの澄んだ声が、静まり返った会議室に響き渡る。
「オクタヴィア公爵夫人が築いたシステムは、人が変わる機会すら奪い、ただ消費するだけの悪辣な檻でした。わたくしは、その檻を破壊し、二度とあのような悲劇を繰り返させないために、ここに立っているのですわ」
過去を背負い、それでも前を向いて生きる元悪役令嬢の気高い証言は、居並ぶ貴族たちの偏見を打ち砕き、金冠教育会の残党を追い詰める決定的な一撃となった。
◇ ◇ ◇
その日の深夜。
ほとんどの文官が帰り静まり返った執務室で、リディアは一人、机に積まれた『白い封筒』の山に目を通していた。
それはすべて、今回の事件で救済された被害者たちから届いた手紙だった。
『リディア先生。お陰様で、没収されていた給金が戻り、病気の母に薬を買うことができました。本当にありがとうございます』
『先生の授業のおかげで、私はもう他人の評価に怯えることはありません。新しい学校で、自分のための作法を学んでいます』
たどたどしい字で書かれた侍女からの感謝状や、クララやノエルといった、かつて旅の途中で救った令嬢たちからの便り。
一つひとつの手紙から伝わってくる温かい感情が、リディアの張り詰めていた心を少しずつ溶かしていく。
(……わたくしたちの旅は、無駄ではなかったのですね)
リディアが眼鏡を外し、小さく息を吐き出して目頭を押さえた、その時だった。
「少し、冷えてきましたね」
不意に背後から声が掛かり、リディアの華奢な肩に、温かく分厚い騎士の外套がふわりと掛けられた。
驚いて振り返ると、そこには湯気の立つハーブティーのカップを手にしたレオンハルトが、静かに立っていた。
「……レオンハルト。まだ起きていたのですか」
「あなたの護衛ですから。主が休まない限り、剣を置くわけにはいきません」
レオンハルトはカップを机の端にそっと置くと、リディアの手元にある白い封筒の山に目を向けた。
「多くの方から、感謝の声が届いているようですね」
「ええ。彼女たちの声が、何よりの報酬です。……ですが、まだやらなければならない書類が残っています。王国の隅々まで法を行き渡らせるには、わたくしがここで休むわけには――」
リディアが再び眼鏡をかけ、ペンを執ろうとした瞬間。
レオンハルトの大きな手が、リディアのペンを持つ手を、手袋越しにそっと包み込んで止めた。
「レオン、ハルト……?」
「もう十分です、殿下。あなたはよく戦い、多くの民を救い抜いた。……これ以上、ご自身を削る必要はありません」
いつもは「背後」に控えているはずの彼が、今はリディアの隣に立ち、その真摯な瞳で真っ直ぐに彼女を見つめていた。
「あなたは常に王女としての重圧を背負い、誰よりも厳しくあろうとしてきた。ですが、たまには鎧を下ろしてください」
レオンハルトは、リディアの手を包み込んだまま、ひどく甘く、優しい声で囁いた。
「王女としてではなく、一人の女性として休む時間も必要です。……私が、お守りしますから」
その言葉に、リディアの胸の奥で、今まで必死に抑え込んできた『何か』が静かに弾けた。
王宮作法にも、貴族法にも載っていない、全く未知の感情。
いつもなら「わたくしは王女です」と理詰めで返すはずの彼女の唇が、微かに震える。
(一人の女性として、休む……)
リディアは、自らを包み込むレオンハルトの大きな手の温もりに、少しだけ身を委ねた。
そして、彼女は初めて、王女としての正解ではない、自分自身の心からの言葉を返そうと唇を開いた。




