第38話 授業は終わりです
「燃やせ! すべて灰にしてしまえば、証拠などどこにも残らないわ!」
オクタヴィア公爵夫人の狂気に満ちた絶叫に応じ、私兵たちが地下記録室へと続く隠し扉の奥へ次々と松明を投げ込んだ。
たちまちのうちに、古い紙とカビ、そして大量のインクが焦げるひどい悪臭が広間にまで立ち上り始める。金冠教育会が長年にわたって蓄積してきた膨大な不正の原本が、燃え盛る炎に呑み込まれていく音だった。
「アハハハハ! 見たか、小娘! いくら王命監査を発動しようと、立証する証拠がなければ法廷は動かせない! これですべての記録は失われた。わたくしを裁くことなど、誰にもできないのよ!」
炎の照り返しを受けて顔を赤く染めたオクタヴィアが、勝ち誇ったように哄笑する。
しかし、その狂騒を冷ややかに断ち切ったのは、王女エレオノーラとしての正体を明かしたリディア・グレイスの、どこまでも静かな声だった。
「……随分と、短絡的な手段に出ましたね。原本が燃えれば、真実まで灰になるとでもお思いですか」
リディアが視線を送ると、背後に控えていたセレスティナが静かに一歩前へ進み出た。
彼女はドレスの隠しポケットから、自らの手で書き写した羊皮紙の束を取り出し、オクタヴィアの目の前でバサッと広げてみせた。
「な、それは……!?」
「地下記録室に保管されていた、主要な破滅計画書や偽造原本の『写し』ですわ。わたくしが、最も重要な署名の形や契約の要点を正確に書き取っておきましたの」
セレスティナは扇を閉じ、かつて自分を陥れた黒幕を真っ直ぐに見据えた。
「あなたがたが隠していた悪意の数々は、すでにわたくしの手の中にあります。燃やしたところで無駄ですわ」
「ふ、ふざけるな! そんな手書きの写しなど、法廷で完全な証拠能力を持つはずがない! 『原本がない以上、でっち上げだ』と主張すればそれまでよ!」
オクタヴィアが唾を飛ばして反論するが、今度はミロが犬の耳をピンと立てて鼻で笑った。
「その『原本があった』ってことは、僕が証明するよ。どの棚の何段目に、どんなインクの匂いがする書類があったか、僕の鼻と頭に全部完璧に刻み込んである。お姉ちゃんの写しの内容と僕の記憶を合わせれば、でっち上げなんて言わせない!」
「獣人の記憶など、何の価値もないわ!」
「ええ、それだけではまだ『完全な証拠』とは言えないかもしれませんね。……だからこそ、わたくしは『白百合巡察令』の規則に忠実に従ったのです」
リディアは冷徹な灰紫の瞳で、うろたえるオクタヴィアを射抜いた。
「白百合巡察令、第三項。王命監査発動後は、証拠・証言・処分記録をすべて王都へ送る義務がある。……わたくしが地方を巡回しながら集めた、令嬢評価簿の矛盾、違法奴隷取引の痕跡、婚約改竄の物的証拠。それらは随時、安全な経路を通って王都の兄上――王太子殿下の元へ送付済みです」
リディアの言葉を裏付けるように、先ほど到着した宰相が重々しく頷いた。
「左様。王太子殿下は、すでにすべての証拠を保全されておられる。公爵夫人、あなたが今燃やしたものは、自らの『証拠隠滅の罪』を新たに追加するだけの、ただの紙切れに過ぎん」
「あ……あ、あ……」
オクタヴィアの扇が、手から滑り落ちて大理石の床に乾いた音を立てた。
王宮推薦状偽造、婚約契約改竄、違法奴隷取引、修道院送り偽装、令嬢評価簿による人身売買まがいの斡旋、自由民証の不正回収、そして王女病床発表の偽装工作。
すべてが完全に裏付けられ、逃げ道は永遠に塞がれたのだ。
「オクタヴィア・ローゼンフェルド公爵夫人。そして金冠教育会に連なる者たち。あなた方の悪辣な支配は、これですべて終わりです。……授業は終了しました」
リディアの静かな宣告が、広間に響き渡る。
「連行しなさい」
宰相の命により、近衛騎士たちが一斉に踏み込み、腰を抜かしたオクタヴィアと側近たちを次々と捕縛していった。
広間を包んでいた狂気と恐怖は消え去り、被害者たちの間から、ついに堪えきれない安堵の嗚咽が漏れ始めた。
長きにわたり王国の令嬢たちを苦しめてきた金冠教育会という巨大な闇の組織は、こうして完全に解体されたのである。
◇ ◇ ◇
しかし、王女としてのリディアの『授業』は、単に巨悪を断罪して終わるものではない。
後日。
王宮内に設けられた臨時の執務室で、リディアは金冠教育会に関与していた多数の令嬢たちの名簿に目を通していた。
机の前には、セレスティナとレオンハルト、そしてミロが静かに控えている。
「殿下。金冠教育会に所属し、他者を虐げていた令嬢たちの処分はどうなさいますか。一律に社交界追放、あるいは修道院送りとするのが妥当かと思われますが」
レオンハルトが淡々と尋ねるが、リディアは首を横に振った。
「いいえ。彼女たちを一律に罰することはしません。加害者として振る舞っていた者の中にも、親や教育会に脅迫され、そうするしかなかった『無知と恐怖の被害者』が混ざっています」
リディアはペンを執り、名簿の分類を自らの手で細かく書き分け始めた。
「真の加害者には相応の罰を。親に強いられていた者には再教育と保護を。そして脅迫されていた被害者には、確かな救済を。……法と礼儀は、人間を十把一絡げに処理するためのものではありません。一人ひとりの声を聞き、事情を切り分けて裁くことこそが、上に立つ者の義務です」
「……先生」
セレスティナが、リディアの厳しくも公平な横顔を見つめ、尊敬の念を込めて深く頭を下げた。かつて一律に悪役として断罪されかけた自分だからこそ、その細やかな裁きの温かさが痛いほど理解できたのだ。
だが、すべての書類の仕分けを終えようとした時。
リディアのペンが、ある一枚の処分記録の上でピタリと止まった。
それは、ミロの嗅覚によって暴かれた『地下水路への移送記録』の束だった。
「……先生、どうしたの?」
ミロが不思議そうに覗き込むが、リディアは無言のまま、その紙面をきつく睨みつけていた。
銀縁眼鏡の奥の瞳に、深い悔恨の影が落ちる。
そこには、金冠教育会の手によって闇に葬られ、近衛の徹底的な捜索をもってしても『すでに行方不明(生存絶望)』と報告された、数名の令嬢や獣人たちの名前が連なっていた。
勝った。巨悪は倒した。
しかし、彼女の王命監査が届く前に、すでに失われてしまった命がある。
「……わたくしたちの勝利は、決して完全なものではありませんね」
リディアの震える呟きが、静かな執務室に重く、冷たく響き渡った。




