第37話 白百合の王女
「さあ、私兵たち! その偽物の紋章を奪い取り、罪人どもを地下牢へ引き摺り下ろしなさい!」
オクタヴィア公爵夫人のヒステリックな号令が下ると同時に、完全武装の私兵たちが一斉にリディアたちへと殺到した。
「本物の王女は病床にある」という公式発表を盾にされ、王命監査の権威は地に落ちた。周囲の貴族たちも、リディアを大逆罪を犯した偽物と信じ込み、冷酷な視線を向けている。
「殿下!」
レオンハルトが鋭く叫び、リディアの前に立ちはだかって剣の柄を強く握りしめた。
だが、鞘から刃を抜くことはしない。彼もまた、主が剣による暴力の解決を望んでいないことを理解していたからだ。彼は自らの巨躯と覇気だけで、四方から迫る刃の壁を受け止めようとする。
「下がりなさい」
その時、レオンハルトの背後から、一切の焦りを含まない静かで透き通った声が響いた。
リディア・グレイスが、ゆっくりと前へ歩み出たのだ。
彼女は迫り来る刃の森を前にしても微塵も動じず、ただ静かに、両手を胸の前で交差させた。
そして、右足を優雅に引き、頭を深く垂れる。
それは、一般的な貴族のカーテシー(挨拶)ではなかった。
流れるような腕の軌道。首の角度。ドレスの裾が描く完璧な弧。
一つひとつの所作に、何百年もの歴史を持つアストレア王家の気高さと、民の命を背負う者のみが放つことのできる神々しいまでの威厳が宿っていた。
「……あ、あれは」
迫っていた私兵たちの一人が、魅入られたように足を止め、無意識に剣を下げた。
周囲を取り囲んでいた年配の高位貴族たちが、ハッと息を呑んで目を剥く。
「ま、まさか……建国祭の折にのみ、王族が神と民に対して行う『神聖なる白百合の礼』……!?」
門外不出。教本には決して載ることのない、王家の血を引く者だけが幼少期から叩き込まれる究極の式典礼。
どれほど優れた平民の作法教師であろうと、絶対に真似することのできない『本物の証明』だった。
その圧倒的な美しさと覇気を前に、私兵たちは次々と武器を落とし、本能のままに床に膝をつき始めた。
「な、何をひれ伏しているの! 立て! そいつはただの偽物よ!」
特別席からオクタヴィアが金切り声を上げる。
「いくら作法を真似たところで、証拠にはなりませんわ! 本物の殿下は病床にあるのだから!」
「では、あなたがご自身で調べ上げたこの記録も、ただの幻だというのですか?」
リディアの傍らに進み出たセレスティナが、扇のように広げた数枚の書類を、オクタヴィアに向かって突きつけた。
「……っ!?」
オクタヴィアの顔から、一瞬にして血の気が引いた。
「地下記録室の奥、あなたの専用の机に保管されていた身元調査記録ですわ」
セレスティナは、広間に響き渡る声でその結びの一文を読み上げた。
「『結論。地方を巡回する作法教師リディア・グレイスの正体は、現在病気療養中と発表されている王国第二王女、エレオノーラ殿下本人であると断定する』。……ご丁寧にも、オクタヴィア公爵夫人、あなたご自身の署名と裏印まで入っていますわね」
広間が、爆発したようなざわめきに包まれた。
「公爵夫人自身が、本物だと知っていた……?」
「では、病床にあるという発表こそが、王女殿下を罠に嵌めるための嘘だったのか!」
オクタヴィアの足元が揺らぐ。
自分の手で握り潰すために保管しておいた極秘の調査記録を、いつの間にか地下から持ち出されていたのだ。
「で、でっち上げよ……! そんな紙切れ、どうとでも偽造できるわ!」
なりふり構わず足掻こうとするオクタヴィア。
だが、彼女の命運を完全に絶つ最後の一撃は、大広間の重厚な扉の向こうからもたらされた。
「――でっち上げとは、聞き捨てなりませんな」
重い扉が開け放たれ、王国近衛騎士団の精鋭たちを引き連れた一人の初老の男が、厳かな足取りで広間へと入ってきた。
その顔を見た貴族たちが、次々と青ざめて道を空ける。
「あ、あれは……王太子殿下の筆頭側近、宰相閣下……!?」
王宮の奥深くにまで根を張っていたはずの金冠教育会の監視網を潜り抜け、兄王太子の密使が、ついにこの場へと到着したのだ。
宰相はオクタヴィアを一瞥すらせず、真っ直ぐにリディアの前へと進み出て、恭しく片膝をついた。
そして、黄金の筒から一葉の親書を取り出し、広間全体に響き渡る声で読み上げた。
「『王太子名において布告する。作法教師リディア・グレイスが所持する白百合の巡察章は、間違いなく真正なものである。彼女の行使する権限は、王室の総意であると心得よ』――以上でございます」
絶対的な、王太子の裏書き。
もはや、反論の余地はどこにも残されていなかった。
リディアは静かに息を吐き、結い上げていた銀灰色の髪を少しだけ解いた。
そして、地味な作法教師の象徴であった銀縁眼鏡に手をかけ、ゆっくりと外す。
眼鏡の下から現れたのは、優しくも厳しい、王女としての気高く美しい素顔だった。
「……授業は、終わりです」
リディア――第二王女エレオノーラ・ルクレティア・アストレアの静かな声が、水を打ったように静まり返った広間に響いた。
彼女は、純白の封蝋章を改めて高く掲げる。
「第二王女エレオノーラ・ルクレティア・アストレアの名において、オクタヴィア・ローゼンフェルド公爵夫人、ならびに金冠教育会を、正式に王命監査下に置きます」
「殿下、万歳!」
宰相の言葉を皮切りに、近衛騎士たちと周囲の貴族たちが一斉にその場に平伏した。
虐げられていた被害者の令嬢や獣人たちも、涙を流しながら、真の救済者である彼女に向かって深く頭を垂れた。
完全なる敗北。
自分が築き上げた絶対の支配が、たった一人の王女の「礼儀と法」の前に完全に崩れ去った瞬間だった。
「あ……ああ……っ」
特別席にへたり込んだオクタヴィアは、信じられないものを見るように頭を抱え、ギリギリと歯を食いしばった。
「認めない……わたくしは、こんな屈辱は絶対に認めない……!」
彼女の瞳に、狂気の光が宿る。
「そうだわ! 監査が発動しようと、証拠の原本さえなくなれば、私を法的に裁くことは誰にもできない!」
オクタヴィアは立ち上がり、残された側近たちに向かって絶叫した。
「地下だ! 地下記録室に火を放ちなさい! 令嬢たちの評価簿も、奴隷の移送記録も、偽造の推薦状も、何もかもすべて燃やし尽くすのよ!!」
なりふり構わぬ、証拠隠滅の暴挙。
もし地下の膨大な原本が灰になれば、金冠教育会のこれまでの悪事を完璧に立証することは極めて困難になる。
周囲の貴族たちが「なんということを!」と顔を青ざめさせる中、オクタヴィアは狂ったように哄笑した。
だが――。
王女の背後に控えるセレスティナとミロは、その絶叫を聞いても、微塵も慌てる様子を見せなかった。
それどころか、ミロは自慢の犬の耳をピンと立てて、ニヤリと得意げに笑っていた。




