第40話 次の授業へ
オクタヴィア公爵夫人の断罪から一月。金冠教育会という巨大な闇を解体し、王都でのすべての事後処理と制度改革が完了した日。
王宮の奥深くにある王太子の執務室で、リディア・グレイス――第二王女エレオノーラは、兄である王太子と静かに向き合っていた。
「よくやってくれた、エレオノーラ。いや……お前のやり方に敬意を表し、今はリディア先生と呼ぶべきか」
王太子は疲れの色が滲む顔に柔らかな笑みを浮かべ、机の上の膨大な報告書を見つめた。
「金冠教育会の解体と、それに伴う被害者の救済。お前がいなければ、王宮の中枢まで腐り落ちていただろう。……もう十分だ。表の身分を取り戻し、王宮へ戻ってきてはくれないか。私には、お前の力が必要だ」
兄からの正式な帰還要請。
それは、王女としての栄誉ある地位と、安全な暮らしへの帰還を意味していた。
だが、リディアは銀縁眼鏡をゆっくりと外し、灰紫の瞳で真っ直ぐに兄を見据えた。
「もったいないお言葉ですが、兄上。……わたくしは、まだ王宮へ戻るわけにはいきません」
「それは、なぜだ?」
「王都での処分は終わりました。ですが、地方の貴族社会には、まだ金冠の残党や古い因習に縛られ、声を上げられずに泣いている者たちが大勢います」
リディアの脳裏に、これまでの旅で出会った令嬢たち、理不尽に扱われていた侍女、首輪を嵌められていた獣人の子供たちの顔が次々と浮かぶ。
「権力者が王宮でいくら立派な法を作っても、それが末端まで届かなければ意味がありません。わたくしは、法が届かない場所で泣いている者たちの声を聞き、その目で真実を確かめるために、これからも『作法教師』として巡察を続けたいのです」
リディアの揺るぎない決意を聞き、王太子は小さく息を吐いた後、苦笑して一枚の羊皮紙を差し出した。
「お前がそう言うと思っていたよ。……持っていくがいい」
それは、王家の正式な公印が押された、期限のない『特別巡察権』の証明書だった。
これまでは極秘の令であったが、今後は王太子お墨付きの正式な任務として、彼女の旅が保証されることになる。
「ありがとうございます、兄上」
リディアは深く一礼し、執務室を後にした。
◇ ◇ ◇
王宮の裏門で待つ地味な作法教師用の馬車に戻ると、そこにはすでに旅の支度をすっかり終えた三人の姿があった。
「先生、遅いですわよ。わたくしたち、もう出発の準備は完璧ですのに」
「あのね、先生! 僕、新しい教本も買ったんだ! 馬車の中で字を覚えるついでに、もっともっと嘘の匂いを嗅ぎ分けられるように特訓するよ!」
セレスティナが少し得意げに胸を張り、ミロが真新しい本を掲げて犬の耳をパタパタと揺らす。
王宮からの手厚い恩賞や、安全な地位を約束されていたにもかかわらず、彼らは迷うことなくリディアとの同行を選んでくれていた。
「二人とも。これからも厳しく指導しますが、覚悟はできていますね?」
「もちろんですわ。わたくしは、自分が裁かれた側だからこそ、まだ救える令嬢たちに手を差し伸べたいのです」
「僕も! 先生の助手は僕しかいないからね!」
頼もしい二人の言葉に、リディアは微かに唇を綻ばせた。
そして、馬車の傍らで静かに手綱を握る、寡黙な近衛騎士へと視線を向ける。
「……レオンハルト。あなたも、よろしいのですか」
リディアが問いかけると、レオンハルトは周囲に人がいないことを確認し、ゆっくりと彼女の前で片膝をついた。
「あの夜の執務室でも申し上げたはずです。……私があなたの側を離れることは、生涯ありません」
あの夜。
『一人の女性として休む時間も必要です。私がお守りしますから』という彼の不器用な優しさに、リディアは王女としての鎧を脱ぎ、初めて自分の本心を言葉にして返した。
(――わたくしは、あなたのその温かさに、どれほど救われてきたか分かりません)と。
リディアは、片膝をつくレオンハルトの大きな手を、黒い手袋越しではなく、素手でそっと包み込んだ。
驚いて顔を上げた彼に向かって、リディアはかつてないほど柔らかく、無防備な微笑みを向ける。
「……あなたが背後にいると、わたくしは前を向けます」
「殿下……」
「ですから、これからも。わたくしの旅に、付き合ってくれますね?」
主従という関係性を超えた、たった一人の女性としての切実な願い。
レオンハルトは彼女の小さな手の温もりを握り返し、真摯な瞳で真っ直ぐに見つめ返した。
「では、これからも。王女としてのあなたにも、一人の女性としてのあなたにも、お仕えします」
その言葉の奥にある、深く、熱い感情。
だが、どこまでも真面目で不器用な彼らしい言い回しに、リディアは少しだけ悪戯っぽく笑った。
「お仕え、だけですか?」
「……っ」
予想外の返しに、レオンハルトは言葉に詰まり、耳まで真っ赤にして俯いてしまった。
戦場や幾多の修羅場では決して動じない最強の騎士が、たった一言で完全に狼狽している。
その様子がおかしくて、リディアは声を立てて笑ってしまった。
「ふふっ。冗談ですよ。……ですが、いつかその先の言葉も、聞かせてくださいね」
「……はい。必ず」
婚約という明確な形をとるには、まだ乗り越えるべき壁がある。
しかし、二人の間で交わされたこのやり取りは、互いの好意を明確に確認し合う、何よりも確かな約束だった。
◇ ◇ ◇
「先生! 出発の前に、王宮の受付から手紙が届いたよ!」
荷物の積み込みを終えたミロが、一通の封筒を持って駆け寄ってきた。
それは、次に巡察を予定していた地方の有力貴族から届いたものだった。
リディアが封を切って中身に目を通すと、そこには酷く傲慢な筆致で、こう記されていた。
『我が領地に作法教師など必要ない。我が家の娘は完璧であり、使用人たちも分を弁えている。無用な巡察はご遠慮願いたい』
「……また、ずいぶんと舐められた手紙ですわね」
横から覗き込んだセレスティナが、呆れたように扇を開く。
『完璧』と自称する家ほど、その裏で誰かを泣かせ、理不尽なルールで弱者を縛り付けている。それが、これまでの旅で得た紛れもない教訓だった。
「どうするんですか、先生。行かなくていいって言われてますけど」
「行くに決まっています。彼らが隠している嘘の匂い、僕が全部暴いてやるんだから!」
セレスティナとミロが、すでに臨戦態勢に入っている。
レオンハルトも静かに立ち上がり、馬車の扉を開けて主をエスコートする姿勢をとった。
リディアは手に持っていた銀縁眼鏡を、ゆっくりと、しかし決意を込めてかけ直した。
灰紫の瞳に、再び作法教師としての知的な光が宿る。
「礼儀とは、弱い者を黙らせるための飾りではありません。強い者が、弱い者を踏まないための鎖です」
リディアは手紙を折りたたみ、馬車へと優雅な足取りで乗り込んだ。
そして、頼もしい三人の仲間たちに向かって、涼やかに宣告する。
「彼らの言う『完璧』が本物かどうか――では、確認に参りましょう」
馬車が軽やかな音を立てて、王宮の門を出発する。
地味な作法教師と仲間たちの、貴族社会を礼儀と王命で叩き直す世直し旅は、まだまだ終わらない。




