表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
34/40

第34話 騎士は剣を抜かない

「その身の程知らずな作法教師を捕らえなさい。王都の神聖な社交の場に、相応しくないゴミが紛れ込んでいるようですわね」


オクタヴィア公爵夫人の冷酷な命令が広間に下ると同時に、大広間を取り囲んでいた完全武装の私兵たちが、一斉に作法教師席のリディア・グレイスへと矛先を向けた。

シャンデリアの光を反射する鈍い刃が、無抵抗に見える黒いドレスの女教師へと迫る。


周囲の貴族や令嬢たちは、悲鳴を上げて壁際へと退避し、冷ややかな、あるいは怯えた視線で事の成り行きを見守っていた。

王都社交界の女王に逆らった者がどうなるか。その見せしめとして、ただの平民教師が物理的に排除されようとしているのだ。


「大人しく立て。抵抗すれば、この場で斬り捨てるぞ」


私兵の隊長が下劣な笑みを浮かべ、リディアの肩を乱暴に掴もうと手を伸ばした。

その直後。


「――これ以上、彼女に触れることは許さん」


極寒の吹雪のような低い声とともに、近衛騎士レオンハルトがリディアの前に立ちはだかった。

彼は腰に帯びた長剣の柄に手をかけ、親指で鍔を押し上げる。

チャキッ、と。

鞘から数寸だけ抜き放たれた刃が、氷のように冷たい殺気を放ち、広間の空気を一瞬にして凍りつかせた。


「ひっ……!」


隊長の男は、レオンハルトから放たれる圧倒的な死の気配に顔を引きつらせ、無様な悲鳴を上げて尻餅をついた。

他の私兵たちも、一歩でも踏み込めば首が飛ぶと本能で理解させられ、武器を構えたまま完全に硬直してしまう。


「レオンハルト」


静寂の中、背後に座ったままのリディアが、静かな声で彼を呼んだ。


「殿下。奴らはあなたを物理的に排除する気だ。ここから先は言葉は通じない。私の剣で、血路を開きます」

「待ちなさい」


リディアはゆっくりと立ち上がり、レオンハルトの逞しい背中にそっと手を触れた。


「剣を抜いてはなりません。まだです」

「しかし……!」

「ここであなたが剣を振るい、力で彼らを制圧してしまえば、我々は彼らの暴力と同じ次元に堕ちてしまう。彼らには、自分の言葉で罪を語ってもらわなければならないのです」


リディアの灰紫の瞳は、周囲の刃の森を前にしても、微塵の揺らぎも見せていなかった。

あくまで法と証拠に基づき、社会的な制裁を下す。それが王命監査であり、王女としての矜持なのだ。


レオンハルトは主の横顔を見つめ、ギリッと奥歯を噛み締めた。

護衛としての本能は、今すぐ剣を抜いて周囲の敵を皆殺しにしてでも彼女を守れと叫んでいる。しかし、彼が仕えているのは、ただ守られるだけのひ弱な姫君ではない。


「……御意に」


レオンハルトは短く応えると、鞘から抜けかけていた剣を、カチンと音を立てて完全に収めた。


「私は守るだけではありません。あなたの信じる裁きを信じます」


剣を抜かずとも、彼はリディアの絶対的な盾としてその場に仁王立ちし続けた。

その姿に、リディアの唇に微かな、しかし確かな信頼の笑みが浮かぶ。


「先生!」


そこへ、広間の裏口からセレスティナとミロが息を切らせて駆け戻ってきた。

二人は私兵たちの隙を縫って、素早くリディアの背後へと滑り込む。


「ミロ、セレスティナ。首尾はどうですか」

「完璧だよ、先生! あの部屋にあった書類の匂いと場所、全部頭の中に叩き込んできた!」


ミロが犬の耳をピンと立てて誇らしげに報告する。

セレスティナもドレスの隠しポケットに触れ、小さく頷いた。


「主要な破滅計画書や偽造原本の要点は、すべて書き写しましたわ。ですが先生……」


セレスティナは周囲を警戒しながら、極めて小さな声でリディアに耳打ちをした。


「オクタヴィア公爵夫人は、先生の正体をご存知です。机の奥に、王女殿下であると断定した調査記録がありましたわ。病気だという王宮の発表も、すべて彼女が仕組んだ罠です!」

「ええ、想定通りです。彼女のあの目を見れば、自分が絶対的な優位に立っていると確信しているのが分かりますから」


リディアは眼鏡を押し上げ、最上段の特別席を見据えた。

オクタヴィアは扇の陰から、忌々しそうにレオンハルトを睨みつけている。


「チッ……無駄に腕の立つ護衛のようね。ですが、力で抗えないと分かったところで、お前たちに何ができるというのかしら」


オクタヴィアは余裕の笑みを取り戻し、優雅に扇を振った。


「作法教師殿。お前は先ほどから法だの罪だのと宣っているが、この王都社交教育会において、わたくしの言葉こそが法であり、絶対の礼儀なのです。……少し、余興を見せて差し上げましょう」


オクタヴィアが指を鳴らすと、広間の奥の扉が開き、十数人の男女が荒々しく引き出されてきた。

彼らは皆、粗末な衣服を着せられ、手首を縄で縛られている。

金冠教育会の評価によって『無価値』と判断され、修道院送りにされる寸前だった令嬢たち。そして、彼らに仕えていた侍女や、不当な契約で縛り付けられていた平民の教師たちだった。


「ひっ……!」

「いや、お許しを……!」


広間の中央に投げ出された被害者たちは、周囲を取り囲む貴族たちの冷酷な視線と私兵の刃に怯え、ガタガタと震えながら身を寄せ合っている。


「ご覧なさい。彼女たちは自らの無能さゆえに家に見捨てられた、哀れなゴミです」


オクタヴィアは冷酷に言い放った。


「作法教師殿。あなたは礼儀を説くそうですが、この無価値な者たちにも礼儀が適応されるとお考えで? わたくしは、彼女たちに『身の程を知る』という真の礼儀を教えて差し上げているのです」


人を物として扱い、尊厳を踏みにじる狂気の思想。

セレスティナが怒りに肩を震わせ、ミロがギリッと犬歯を剥き出しにする。


リディアは静かに一歩進み出し、被害者たちへと真っ直ぐに向き直った。

その瞬間、彼女から放たれる気高い威厳が、広間の澱んだ空気を払うように広がっていく。


「彼女たちはゴミではありません。保護されるべき、王国の民です」

「ふふっ、綺麗事ね。ならば、彼女たち自身に聞いてみましょう。自分たちがどれほど無能で、金冠教育会の寛大な処置に感謝しているかを」


オクタヴィアが扇で被害者たちを指し示し、嘲笑う。

リディアは膝をついて震える令嬢の一人に視線を合わせ、静かに、優しく、しかし毅然とした声で促した。


「泣くのは構いません。ですが、泣いた理由を言葉にしなさい」


リディアの声は、広間の隅々にまで透き通るように響いた。


「あなたたちは、何も悪くありません。不当な点数をつけられ、未来を奪われた。その事実を、あなたたちを苦しめた者の名を、ここで言うのです。声を出せば、わたくしが必ず守ります」


それは、絶望の底にいる者たちへ差し伸べられた、一筋の希望の糸だった。

被害者たちはハッと顔を上げ、すがるような目でリディアを見つめた。


しかし――。


「……っ、あ……」

「だ、だめ……言えない……」


彼女たちの唇は小さく震えるだけで、言葉を紡ぐことはできなかった。

目の前で冷笑するオクタヴィア公爵夫人の絶対的な権力。周囲を取り囲む私兵たちの刃。そして、逆らえば家ごと破滅させられるという、骨の髄まで刷り込まれた恐怖。


被害者たちは集められた。

リディアの言葉は、確かに彼女たちの心に届いたはずだった。

しかし、圧倒的な暴力と権力による支配の前に、誰一人として声を上げることができない。

広間は、絶望的で重苦しい沈黙に支配されていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ