第33話 地下記録室
「王族だけが持つはずの白百合の封蝋が、なぜ金冠教育会の秘密の扉に……?」
王都社交教育会の大広間の真下。暗く冷たい地下道で、セレスティナは古びた鉄扉に貼られた純白の紋章を見つめ、震える声を漏らした。
それは、金冠教育会が王宮の極めて深い中枢にまで根を張り、かつての王族の権威すらも我が物顔で利用しているという、おぞましい事実の証明だった。
この封蝋がなぜここにあるのか。その出所は、いずれ必ず突き止めねばならない。――だが、それは今ではない。
「……セレスティナお姉ちゃん。この封蝋、すごく古いよ。匂いからして、何年も前に貼られて、そのまま放置されてるみたいだ」
ミロが犬の耳をピンと立てて、扉の隙間に鼻を近づけた。
「扉の鍵自体は、油が切れてるだけで大した作りじゃない。僕の鼻なら、中の引っ掛かりの形が分かるから……ちょっと待ってて」
ミロは懐から細い針金を取り出すと、鍵穴に差し込み、耳と鼻の感覚だけを頼りに慎重に動かし始めた。
カチリ、という微かな音が響き、重い鉄扉がゆっくりと内側へ開く。
「すごいわ、ミロ。先生があなたを頼りにする理由がよく分かりますわ」
「へへっ、これくらい裏市場じゃ基本だよ。さあ、早く入ろう。上の広間で先生たちが囮になってくれてる間に」
二人が足を踏み入れた地下記録室は、カビと古い紙、そして強いインクの匂いが充満する、不気味なほど広大な空間だった。
壁一面を覆い尽くすほどの巨大な木製の棚には、王国中の貴族家から集められたと思われる膨大な量のファイルや帳簿が、隙間なく詰め込まれている。
「ここは……王国中の悪意と絶望の吹き溜まりですわね」
セレスティナは、近くの棚から一つのファイルを引き抜き、松明の灯りに透かした。
「『地方子爵家・修道院送りの偽装記録』。『違法奴隷の移送および売買台帳』。『王宮推薦状・白紙偽造の原本』……。どれもこれも、国家を揺るがす大罪の証拠ばかりです。金冠教育会は、これらを武器にして貴族たちを脅し、支配してきたのですね」
「お姉ちゃん、こっちの棚には、お貴族様たちの名前がいっぱい書いてあるよ」
ミロが別の棚を指差した。そこには、金冠教育会が裏で操っていた『破滅計画』の対象者リストが並んでいた。
セレスティナは息を呑み、自らの家名――『ヴァルモント侯爵家』と記された分厚い背表紙に手を伸ばした。
震える指でページをめくると、そこにはかつての彼女自身の記録が事細かに記されていた。
『対象:セレスティナ・ヴァルモント。性格の傲慢さを利用し、周囲の令嬢たちを煽動して孤立させる。時期を見て婚約破棄を誘発し、社交界から完全に追放。持参金および侯爵家の利権は、金冠教育会の息のかかった別家へ譲渡するよう手配済み』
「……っ!」
セレスティナの目から、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。
自分が犯した罪を正当化するつもりはない。使用人を打ち、他者を見下していたのは、間違いなく過去の自分の愚かさだ。
だが、その愚かさすらも、巨大な組織の盤面の上で踊らされていたに過ぎなかった。更生の機会など最初から用意されておらず、彼女はただ、家の財産を奪うための都合の良い『悪役』として仕立て上げられ、破滅させられる運命だったのだ。
「セレスティナお姉ちゃん……大丈夫?」
「ええ。泣いている場合ではありませんわね」
セレスティナは乱暴に涙を拭い、ドレスの隠しポケットから鉛筆と薄い羊皮紙の束を取り出した。
「わたくしは、かつての愚かなわたくし自身に決別しました。だからこそ、彼女たちのこの悪辣なやり方を、絶対に許すわけにはいきません」
セレスティナは、自らの破滅計画書や、他の重要な偽造書類の核心部分を、驚異的な速度で手元の羊皮紙に書き写し始めた。
原本をすべて持ち出すことは不可能だ。だが、要点と署名の形を写し取っておけば、後で必ず役に立つ。
「ミロ。わたくしが写しを取る間、あなたはこの部屋のどこに、何の書類があるか、その『匂いと配置』を記憶してちょうだい。いざという時、あなたの記憶が最大の武器になりますわ」
「任せてよ! どの棚の何段目に、どんなインクの匂いの紙があるか、僕の鼻と頭に全部刻み込んでやる!」
ミロは部屋中を駆け回り、犬の耳と鼻をフル回転させて、膨大な書類の配置を自らの記憶の海へと焼き付けていった。
これで、万が一この記録室の原本が失われるようなことがあっても、彼らの持ち出した写しとミロの完璧な記憶が、証拠として機能するはずだ。
「よし、主要な記録の写しは取り終えましたわ。そろそろ戻りましょう。先生たちが危険です」
セレスティナが書き写した羊皮紙をドレスの奥深くに隠し、入り口へ向かおうとした時だった。
「待って、お姉ちゃん。一番奥の、あの豪華な机……」
ミロが部屋の最奥、ひときわ立派なマホガニーの机の前で立ち止まった。
「この机、最近まで誰かが使ってた匂いがする。すごくキツくて、偉そうな香水の匂い……上の広間にいる、あのオクタヴィアって女の匂いと同じだ」
「オクタヴィア公爵夫人の、専用の机ですの?」
セレスティナが近づくと、机の引き出しの一つだけが、鍵もかけられずに少しだけ開いていた。
中には、赤いリボンで束ねられた、数枚の特別な調査報告書が入っていた。
「……『リディア・グレイスに関する身元調査記録』」
セレスティナが表紙の文字を読み上げた瞬間、嫌な汗が背中を伝った。
恐る恐るそのリボンを解き、中身を確認する。
そこには、リディアが王宮を離れた時期、地方での足取り、そしてレオンハルトの所属部隊の動きまでが、不気味なほど正確に記されていた。
そして、最後のページ。
『結論。地方を巡回する作法教師リディア・グレイスの正体は、現在病気療養中と発表されている王国第二王女、エレオノーラ殿下本人であると断定する』
「……っ!」
セレスティナとミロは、同時に息を呑んで顔を見合わせた。
「オクタヴィアは……先生の正体を、とっくに知っていたんだ……!」
正体を知った上で、わざと『王女は病気である』という嘘の発表を王宮で流し、リディアを偽物として処断する罠を張っていたのだ。
上の大広間で作法教師席に座らされているリディアは、今、完全にオクタヴィアの手のひらの上で踊らされている。
「急いで先生に知らせなければ……! このままでは、先生が殺されますわ!」
セレスティナは調査記録の束を握りしめ、ミロと共に、暗い地下階段を全速力で駆け上がっていった。




