第32話 作法教師席
王都社交教育会の大広間。その中心から最も遠く、太い柱の陰にひっそりと追いやられた粗末な円卓。
貴族ではない平民たちをあえて見下すために用意された最下位の『作法教師席』で、リディア・グレイスは静かに銀縁眼鏡を押し上げた。
「……随分と、露骨な嫌がらせですわね」
周囲の令嬢や貴族たちから向けられる侮蔑の視線に、セレスティナが扇で口元を隠して顔をしかめた。
だが、当のリディアは微塵も動じることなく、姿勢を正したまま真っ直ぐに前方を見据えている。
その視線の先。
広間の最上段に設けられた豪奢な特別席には、豪奢な真紅のドレスに身を包んだ一人の貴婦人が腰を下ろしていた。
王都社交界の女王にして、金冠教育会の実質的支配者、オクタヴィア・ローゼンフェルド公爵夫人。
彼女は扇の陰から、柱の隅に座らされたリディアを冷酷な瞳で見下ろしていた。
その視線には、王女であるリディアの権威を完全に否定し、「ここでは私が絶対的な支配者なのだ」という底知れぬ傲慢さが満ちていた。
「……あの女。殿下をあのような席から見下ろすなど、万死に値する無礼だ」
荷物持ちとしてリディアの背後に立つ近衛騎士レオンハルトが、低い声で怒りを滲ませた。
剣の柄を握る彼の手に、ギリッと強い力がこもる。
「怒る必要はありませんよ、レオンハルト」
リディアは静かな声で彼を制止し、微かに唇の端を上げた。
「彼女は、わたくしを最も身分の低い席に座らせることで、精神的に屈服させようとしたのでしょう。……ですが、下に置かれた席からでなければ、見えないものがあります」
「見えないもの、ですか」
「ええ。この会場全体の『席次』です」
リディアの灰紫の瞳が、会場に配置された無数の円卓と、そこに座る貴族たちを冷徹に分析していく。
「本来、王宮規定に準ずる公式な教育会において、席次は王国の定める家格と役職の順位に厳格に従うべきものです。しかし、あの配置を見てください」
リディアの視線の先では、由緒ある歴史を持つ伯爵家が下座に近い位置に追いやられ、逆に新興の成金貴族やオクタヴィアの取り巻きたちが、最前列の特等席を陣取っていた。
令嬢たちの座る位置もまた、家格や礼儀の美しさではなく、金冠教育会への「貢献度」――すなわち、賄賂の額や、どれだけ組織の言いなりになるかという基準で露骨に振り分けられている。
「席次そのものが、オクタヴィア公爵夫人を頂点とする金冠教育会の『支配図』なのです。誰が優遇され、誰が搾取され、誰が怯えながら他人の顔色を窺っているか。……この最下位の席から見上げることで、彼らの歪んだ権力構造が手に取るように分かります」
礼儀や作法を、権力を誇示し弱者を支配するための道具として悪用する。
オクタヴィアのその思想は、リディアが最も嫌悪し、絶対に許すことのできないものだった。
「……先生」
足元で屈み込んでいた獣人の少年ミロが、リディアのドレスの裾を軽く引いた。
彼の犬の耳はピンと張り詰め、鼻先は広間の奥へと向けられている。
「さっきの匂い、やっぱり間違いないです。あのオクタヴィアって女が座ってる特別席の、ちょうど真下あたりから……一番濃くて冷たい、古い紙の匂いがします」
ミロの鋭い嗅覚が、金冠教育会が隠し持つ最大の暗部――令嬢評価簿の原本や、偽造された王宮推薦状、そして数々の違法契約書が眠る『地下記録室』の正確な位置を割り出していた。
「分かりました。あの地下室に、オクタヴィアを完全に失脚させるための決定的な証拠があるはずです」
リディアは立ち上がらずに、周囲に聞こえない声で指示を出した。
「わたくしとレオンハルトは、このままここに残り、公爵夫人の視線を引きつける囮になります。セレスティナ、ミロ。あなたたちは今のうちに裏口から回り込み、その地下への入り口を見つけ出しなさい」
「かしこまりましたわ。ミロ、案内してちょうだい」
「任せてよ! 匂いを辿るのなんて朝飯前だからね」
ミロとセレスティナは、給仕の動きに紛れるようにして、静かに作法教師席を離れた。
二人を見送った後、レオンハルトが一歩だけリディアの背後に近づき、その小さな背中を庇うように立った。
「……殿下。彼らだけに任せて、よろしいのですか」
「彼らを信じなさい、レオンハルト。ミロの嗅覚も、セレスティナの観察眼も、すでに金冠の目を欺くほどに成長しています」
リディアは真っ直ぐに前を――自分を見下ろすオクタヴィア公爵夫人を見据えたまま、静かに答えた。
「それに、ここでわたくしが動けば、警戒した公爵夫人が地下の証拠を先に隠滅しかねません。今はただ、愚かで無力な作法教師として、この屈辱的な席で大人しくしているのが最善です」
「……」
「心配ですか?」
「ええ。あなたの背後を守るのが私の役目ですが……あなたが不当に侮辱されるのを見るのは、どうにも腹の虫が治まりません」
感情をあまり表に出さない寡黙な騎士の、不器用だが率直な怒り。
それは王女としての権威を重んじているからではなく、リディア・グレイスという一人の女性が理不尽に扱われることへの、彼個人の強い感情だった。
リディアは微かに目を伏せ、手袋越しに自らの指先をギュッと握った。
「……ありがとうございます、レオンハルト。あなたがそう言ってくれるだけで、この下座も悪くないと思えます」
◇ ◇ ◇
一方、ミロの案内で大広間の裏側に広がる給仕用の搬入通路へと入り込んだセレスティナは、薄暗い廊下を音を立てずに進んでいた。
「ミロ、本当にこの奥ですの?」
「うん。間違いないよ。厨房の料理の匂いよりも、もっと冷たくてカビ臭いインクの匂いが、この壁の向こうからずっと漂ってきてるんだ」
ミロが立ち止まったのは、行き止まりに見える石造りの壁の前だった。
しかし、彼が鼻をひくつかせながら壁の一部を強く押し込むと、音もなく石の扉が回転し、地下へと続く暗い階段が現れた。
「隠し扉……! さすがですわ、ミロ」
セレスティナが感嘆の声を漏らし、二人は慎重に階段を下りていく。
冷たい空気が肌を刺す地下道の奥に、厳重な鉄の扉が立ち塞がっていた。
「ここだ。この中から、あの評価簿と同じ嫌な匂いがする」
ミロが扉の取っ手に手を伸ばそうとした、その時。
「……待って、ミロ。扉の横を見て」
セレスティナが、松明の灯りに照らされた鉄扉の一部を指差した。
そこには、ただの錠前だけでなく、分厚い蝋でしっかりと封印が施されていた。
そして、その封蝋に刻み込まれた紋章を見た瞬間、セレスティナの顔から一気に血の気が引いた。
「どうして……こんなところに、これが……」
ミロもその紋章を見て、息を呑んで固まった。
それは、偽王女が掲げていたような安物の偽造品ではない。
紛れもない本物の王族の証。
リディアの裁縫箱の底に隠されているものと全く同じ、『白百合の古い封蝋』が、金冠教育会の秘密の扉を堅く閉ざしていたのだ。




