第30話 公爵夫人の招待状
「『作法教師リディア・グレイス殿。貴殿を、王都社交教育会へ特別に招待いたします』。……随分と、不作法な宛名の招待状ですね」
王都へと続く街道の宿屋。卓上に置かれた最高級の羊皮紙を見下ろし、リディア・グレイスは銀縁眼鏡の奥で灰紫の瞳を細めた。
使者から手渡されたその封筒からは、圧倒的な権力と底知れぬ悪意の匂いが漂っていた。
「王都社交教育会……。金冠教育会の本拠地で開かれる、令嬢教育の祭典ですわ。ですが、実態は令嬢たちを値踏みし、派閥の力関係を誇示するための最大の市場……」
セレスティナが青ざめた顔で呟く。
「それを主催しているのは、王都社交界の女王にして、金冠教育会の実質的支配者」
「オクタヴィア・ローゼンフェルド公爵夫人、ですね」
リディアは静かに招待状を広げた。
王宮からの召還命令が偽造されたものであり、それが失敗に終わった直後のこの招待状。それは明確な『挑戦状』だった。敵の陣地である王都社交教育会へ、わざわざ呼びつけようというのだ。
「先生。その手紙……すごく嫌な匂いがします」
窓際のミロが、鼻をひくつかせて顔をしかめた。
「香水の匂いの下に、鉄と、血の匂いが隠されてます。僕たちを試してるみたいな、嫌な匂い」
「ええ。単なる招待状ではありません。同封物がありますね」
リディアが封筒の奥から数枚の書類を引き出すと、それを見たセレスティナがハッと息を呑み、血の気を失った。
「これ、は……っ」
「セレスティナの過去の記録。それも、金冠教育会が裏で糸を引いていた『破滅計画書』の一部ですね」
そこには、セレスティナをいかにして孤立させ、悪役令嬢として仕立て上げ、最終的に修道院へ送るかという綿密な筋書きが記されていた。
「それだけではありません。ミロ」
リディアはもう一枚の書類を、ミロの前に静かに置いた。
「僕の、自由民証の調査書……?」
『対象の獣人ミロが所持する自由民証は、偽造の疑いが極めて強い。速やかに身柄を拘束し、再審査を行うよう各機関へ通達済み』
そこには、ミロの身分を法的に剥奪し、再び奴隷の首輪を嵌めようとする金冠側の執念が赤々と記されていた。
オクタヴィア公爵夫人は、リディアたちの『弱点』を正確に把握している。
助手の過去の罪を暴き、護衛の獣人を不法奴隷として捕縛する。それが嫌なら、一人で王都の教育会へ出頭しろという露骨な脅迫だった。
「……汚いやり方ですわ」
セレスティナは震える手で自らのドレスを握りしめ、ギリッと奥歯を噛んだ。
「わたくしの過去を人質にして、先生を罠に嵌めようとするなんて。……先生、わたくしのことは気になさらないでください。わたくしはもう、過去から逃げないと決めましたから」
「僕だって平気です! こんな紙切れより、先生の言葉の方がずっと強いんだから!」
ミロも犬の耳を立てて、必死に強がってみせる。
「二人とも、ありがとう。ですが、彼らは手札を見せてきたに過ぎません。……この挑戦、受けて立ちましょう」
リディアが静かな決意を口にした瞬間。
「一人では行かせません」
部屋の入り口で警戒に当たっていた近衛騎士レオンハルトが、低い声で鋭く言った。
彼は剣の柄から手を離さず、真っ直ぐにリディアを見据えている。
「王都社交教育会は、金冠教育会の完全なテリトリーです。相手はあなたが罠だと承知の上で来ることを前提に、幾重にも網を張っているはず。いくら作法で理論武装しようと、物理的に逃げ道を塞がれれば……」
「危険なことは百も承知です、レオンハルト」
リディアは彼の案じる視線を受け止め、決して揺るがない瞳で返した。
「彼らが用意した舞台に立たなければ、これ以上、黒幕の懐に踏み込むことはできません。これは、王女として避けられない戦いです」
「……」
「それに、わたくしは一人ではありません」
リディアは僅かに唇を綻ばせ、レオンハルトに向かって静かに首を傾けた。
「では、背後をお願いします。……わたくしの騎士」
その言葉に、レオンハルトの険しかった表情が微かに緩んだ。
主従の枠を超え、互いの命と矜持を預け合う絶対的な信頼。
「……御意に。あなたの背後には、必ず私が立ちます」
レオンハルトが短く、しかし何よりも重い誓いを口にした。
「頼もしいですね。これで、何の憂いもなく王都へ乗り込めます」
リディアは再び表情を引き締め、招待状の文末に視線を落とした。
「……ですが、敵は想像以上に底意地が悪いようです。この招待状の最後の一文を見てください」
リディアが指差した先。
そこには、流麗な筆記体で、まるで世間話でもするかのように恐るべき一文が添えられていた。
『――なお、王女殿下の病状は、いまだ公表通りでございます』
「これは……」
セレスティナが息を呑む。
オクタヴィア公爵夫人は、リディアの正体が『第二王女エレオノーラ』であることを完全に知っているのだ。
知った上で、王都では「本物の王女は病気で寝込んでいる」という嘘を既成事実として固め、目の前にいるリディアを『王女の名を騙る偽物の作法教師』として処断する準備を整えている。
正体開示という最大の武器が、初めから無効化される最悪の盤面。
逃げ場のない檻の中へ、一行は自ら足を踏み入れようとしていた。




