第28話 本物の礼
「ひれ伏しなさい! この『白百合の巡察章』が目に入らないの!」
迎賓館の豪奢なシャンデリアの下、偽王女が狂喜に満ちた声で掲げた純白の封蝋章。
その場にいた地方貴族たちは、王族直々の特権を示す伝説の紋章を前にして、次々と青ざめた顔で床に膝をついていく。
だが、黒いドレスの作法教師リディア・グレイスと、その一行だけは、微動だにせず静かに立ち尽くしていた。
「な、なぜ跪かないの! 王女の代理であるこのわたくしへの反逆は、王家への反逆と同義ですわよ!」
偽王女が扇を振り乱してヒステリックに叫ぶ。
リディアは銀縁眼鏡の奥の灰紫の瞳で、突きつけられた紋章を冷ややかに一瞥した。
「……先生。あのハンコ、変な匂いがします」
リディアの背後から、獣人の少年ミロが犬の耳をピンと立てて小声で報告した。
「王宮のお城で嗅いだ特別な蝋の匂いじゃなくて、もっと安い、裏市場で売ってるような獣脂の匂いが混ざってます。あれ、絶対に偽物ですよ」
ミロの鋭い嗅覚が、金冠教育会が用意した巧妙な偽造品の正体をあっさりと暴き出していた。
だが、リディアが問題視しているのは、封蝋の材質だけではない。
「ええ、偽物ですね。……ですが、蝋の質以前の問題です」
リディアは静かに一歩、前へ踏み出した。
「王族だけが持つことを許された『白百合巡察令』。それは、権力を持つ貴族が弱い領民や使用人を虐げていないか、不正を監査するための秘密令です。……給仕の紅茶がぬるいからとメイドを打ち据え、自らの不機嫌を晴らすために掲げるような、安っぽい権力の道具ではありません」
「なっ……! 平民の作法教師が、王家の秘密令を語る気!?」
「ええ、語ります。わたくしは王宮の作法を教える者ですから」
リディアの声音はどこまでも平坦で、しかし広間の隅々にまで響き渡る絶対的な重さを持っていた。
「あなたは先ほど、自らを高貴な者だと名乗りました。ですが、あなたの振る舞いのすべてが、王族の礼法から懸け離れている」
リディアは偽王女の足元、そして扇を持つ手を順番に指し示した。
「王族は、自らの権威を誇示するために声を荒らげたりはしません。また、恐怖で他者をひれ伏させることもありません。なぜなら、王族の持つ『礼』とは、民を支配するためのものではないからです」
偽王女が、リディアから放たれる目に見えない重圧に押され、ジリッと一歩後ずさった。
周囲でひれ伏していた貴族たちも、ただの作法教師であるはずの彼女から立ち上る、底知れぬ気高さに息を呑んで顔を上げる。
「王族の礼とは、権威を振りかざすためのものではない。民の前で、国家の責任を背負い立つための覚悟の表れです。上に立つ者が自らを律し、弱い者を踏みにじらないと証明するための、気高い『鎖』なのです」
作品の根底に流れるその信念を、リディアは真っ直ぐに偽王女へと叩きつけた。
「その覚悟も鎖も持たず、ただ装飾と偽の紋章で着飾っただけのあなたに、王族の礼を語る資格はありません。……あなたが掲げているその紋章は、王家への最大の侮辱です」
広間は、水を打ったような静寂に包まれた。
誰もが、リディアの言葉の中に「真の王族の姿」の幻影を見ていた。
偽王女のけばけばしいドレスと、リディアの質素な黒いドレス。どちらが真に高貴であるかは、誰の目にも明らかだった。
(……ああ。やはり、この方こそが)
その時、リディアの背後に控えていた近衛騎士レオンハルトの体が、微かに動いた。
彼は主から放たれる絶対的な王者の覇気にあてられ、騎士としての本能が忠誠を叫び、無意識のうちに片膝をつきかけたのだ。
だが、レオンハルトは床に膝が触れる寸前で、グッと堪えて動きを止めた。
まだだ。ここで自分が臣下の礼をとれば、彼女の正体が露見してしまう。
しかし、その中途半端に沈み込んだ騎士の所作と、彼がリディアに向ける狂信的なまでの敬意の眼差しは、周囲の者たちに「この作法教師は、ただ者ではない」という強烈な事実を匂わせるには十分すぎた。
「ひっ……!」
完全に気圧され、大勢の貴族たちの前で恥をかかされた偽王女は、顔を醜く歪めて後ずさった。
自分が纏っていた薄っぺらな権威が、言葉だけで見事に剥ぎ取られてしまったのだ。
「き、貴様……っ! よくも、よくもわたくしを!」
偽王女は握りしめていた偽の封蝋章をドレスの胸元に押し込み、血走った目でリディアを睨みつけた。
論理でも作法でも勝てないと悟った金冠教育会の手先は、ついに用意されていた『最大の切り札』を口にした。
「騙されるな、お前たち! この女こそ、王宮の権威を騙る大悪党の偽物よ!」
偽王女の金切り声が、迎賓館の広間に響き渡る。
「王女の代理を名乗るわたくしに逆らうなんて、正気の沙汰ではないわ! だいたい、お前のような正体不明の女が、王女殿下の真の作法を知っているはずがないでしょう!」
偽王女は狂ったような笑みを浮かべ、決定的な一言を言い放った。
「本物の第二王女エレオノーラ殿下は、現在、王宮の奥深くで重い病に伏せっていると、すでに王都で公式に発表されているのよ!」
その言葉に、セレスティナとレオンハルトの顔色が変わった。
金冠教育会は、地方でのリディアたちの活動を封じるため、ついに王宮そのものを動かしたのだ。
『本物は病気で王宮にいる』という事実をでっち上げることで、外を歩き回るリディアの存在を、根底から『偽物』へと貶めるために。




