第26話 自由民の銀札
「その獣人の自由民証そのものが、偽造ではありませんか!?」
金冠教育会の補佐官が血走った目で叫んだ言葉は、大広間に凍りつくような沈黙をもたらした。
ミロの犬の耳が、ビクッと跳ねて頭に張り付く。彼は無意識のうちに、自分の首元から下がる銀色のプレート――自由民証をギュッと握りしめていた。
(……まただ。また、あの時と同じだ)
ミロの脳裏に、奴隷として鎖に繋がれていた頃の暗い記憶がフラッシュバックする。
『獣人は賢くない』『言葉など教えるだけ無駄だ』『ただ匂いを嗅いで、這いつくばって命令を聞いていればいい』。
人間たちは皆、ミロを言葉の通じる人間としてではなく、ただの便利な道具として扱った。そのたびにミロは、自分が本当に価値のない、文字すら理解できない愚かな生き物なのだと思い込まされてきた。
「見ろ! その怯えた顔を! 字も満足に読み書きできぬ獣人が、正規の自由民登録などできるはずがない! どこかの悪党に作らせた偽造証に決まっている!」
補佐官は勝ち誇ったように哄笑した。
「偽造証を持つ罪人の証言など、法廷では無効だ! これで貴様らの集めた証拠もすべて白紙になる!」
ミロは唇を強く噛み締めた。
確かに、自分は難しい教本を読むことはできないし、古典語もさっぱりだ。けれど、この銀札だけは違う。これだけは、絶対に偽物なんかじゃない。
「……違、う」
「何が違うというのだ、この薄汚い――」
「彼が持っているそれは、王国戸籍管理局から正式に発行された、本物の自由民証です」
ミロの震える声を遮るように、静かで、しかし絶対的な重さを持った声が響いた。
黒いドレスの作法教師、リディア・グレイスが、ミロの前に庇うように進み出たのだ。
「馬鹿な! 獣人が正規の手続きを踏めるわけがない!」
「ええ、彼一人の力では難しかったでしょう。……ですから、わたくしが手続きを行いました」
リディアは銀縁眼鏡の奥で、灰紫の瞳を冷たく光らせた。
ミロは、リディアの背中を見上げながら、あの日を思い出していた。
奴隷市場から彼を助け出したリディアは、彼にこの銀札を手渡した。
そして、文字も書けず、ただお辞儀をすることしか知らなかった彼に、一本のペンを握らせたのだ。
『あなたはもう、誰の所有物でもありません。自分の名前くらいは、自分で書けるようになりなさい』
何度も何度もインクで手を汚しながら、リディアは根気よく文字を教えてくれた。
そして、彼が初めて下手くそな字で「ミロ」と自分の名前を書けた時、リディアは普段決して見せない、とても優しい顔で「よくできました」と褒めてくれたのだ。
「彼は自分の名前を、自らの手で正確に証明書へ書き込みました。偽造などではありません」
リディアは純白の封蝋章――『白百合の巡察章』を高く掲げ、広間に響き渡る声で宣告した。
「第二王女エレオノーラ・ルクレティア・アストレアの名において、この獣人ミロの自由民証が正当なものであることを、ここに保証します」
王族による直接の身分保証。
それ以上の絶対的な証明は、この王国内には存在しない。
「お、王女殿下が……たかが獣人の身分を、直々に……っ」
補佐官はついに言葉を失い、膝から崩れ落ちた。
ミロのアイデンティティを否定し、証拠を根底から覆そうとした金冠教育会の悪あがきは、王女の揺るぎない覚悟の前に完全に粉砕されたのだ。
◇ ◇ ◇
翌朝。
ヴァルデン伯爵家から救出された令嬢たちと、地下で保護された獣人の子供たちが、王都の安全な施設へと出発するための馬車に乗り込んでいた。
「ミロお兄ちゃん!」
出発の直前、一人の幼い獣人の少年が、ミロの元へと駆け寄ってきた。
彼はミロの首元で光る銀札を見つめ、少しだけ羨ましそうに目を細めた。
「あのね、僕も昨日、保護してくれた人に新しい名前の札をもらったんだ。でも……僕、字が読めないから、本当に自分の名前が書いてあるのか分からなくて」
少年が不安そうに握りしめている木の札を見て、ミロは優しくしゃがみ込んだ。
そして、少年の頭の犬耳を撫でながら、かつて自分がリディアから掛けられた言葉を、自分なりの言葉に変えて伝えた。
「大丈夫だよ。今は読めなくても、これから勉強すればいいんだから」
ミロは、自分の銀札の裏に刻まれた、少しだけ不格好な文字を指差した。
「字は遅くてもいい。でも、名前は自分で書けた方がいい。自分の名前を自分で書ければ、もう誰にも、君が君だってことを奪えなくなるからさ」
「……うん! 僕、頑張って字を覚える!」
少年が力強く頷き、笑顔で馬車へと駆けていく。
その光景を少し離れた場所から見守っていたリディアとセレスティナは、静かに目を細めていた。
「……あの子、すっかり先生のような顔をしていましたわね」
「ふふ。言葉遣いはともかく、本質はしっかりと理解しているようです」
セレスティナの微笑ましそうな言葉に、リディアも微かに唇を綻ばせた。
ミロは馬鹿ではない。人間貴族の評価軸に合わないだけで、彼自身の価値は、誰よりも彼自身が一番よく分かっている。
「殿下」
だが、そんな穏やかな空気を断ち切るように、荷物の確認を終えたレオンハルトが、周囲を警戒しながらリディアに近づいた。
彼の顔は、いつも以上に険しかった。
「今回の処分記録と合わせて、ミロの自由民証をあなたが直接保証した記録も、規定によりすべて王都へ送られます」
「……ええ、分かっています」
リディアは表情を引き締め、銀縁眼鏡を押し上げた。
王族が身分を隠して監査を行う『白百合巡察令』において、すべての記録の王都への送付は絶対の義務だ。
しかし、その王宮内部にまで、すでに金冠教育会の手が伸びている。
「王女の権限をもって、平民以下の獣人の身分を直接保証した。……金冠の息がかかった王都の貴族たちは、これを『王女の越権行為』として、間違いなくあなたの権威を失墜させるための攻撃材料にしてきます」
レオンハルトの低い声が、静かな朝の空気に重く響いた。
敵は、王女であるリディアの正体をすでに掴んでいる。
証拠を握り潰すだけでなく、彼女自身の王女としての正当性を削り、社会的に抹殺する準備を着々と進めているのだ。
「それでも、わたくしは彼を見捨てて証拠を消させるわけにはいきませんでした。王女である前に、わたくしは彼に教えた教師ですから」
リディアは自らの手袋に包まれた両手を固く握りしめた。
狩る側から、狩られる側へ。
王都での最大の決戦が、もう目の前まで迫っていた。




