第25話 獣人は証人になれない
「獣人の嗅覚など、神聖なる法廷ではただの感覚にすぎない! そのような曖昧なもので我々を断罪できると思うな!」
煙幕が晴れた広間で、逃走した主幹評価官の代わりに残された金冠教育会の補佐官が、脂汗を流しながらも血走った目で喚き立てた。
王命監査の発動により床に這いつくばっていたヴァルデン伯爵も、その言葉にすがるように顔を上げる。
「そ、そうだ! 字も満足に読めぬ獣人の戯言など、誰が信用するというのだ! 『書類から地下水路の匂いがした』などと、法廷で主張したところで一笑に付されるだけだぞ!」
彼らの言う通り、アストレア王国の司法において、獣人の感覚器官による証言は「主観的であり、客観的証拠には当たらない」とされる判例が少なくなかった。
階級社会の偏見は根深く、権力者たちは常にそれを盾にして自らの罪を隠蔽してきたのだ。
広間の隅で震えている令嬢たちの間にも、「確かに、獣人の匂いだけでは……」と不安の波が広がる。
せっかく見えた希望の光が、貴族社会の理不尽なルールの前に再び閉ざされようとしていた。
「……先生」
ミロは不安げに犬の耳を伏せ、自分の嗅覚が否定された悔しさに唇を噛み締めた。
どれほど真実を嗅ぎ取っても、人間社会はそれを認めてくれない。奴隷だった頃から、ずっとそうだった。
だが、リディア・グレイスは銀縁眼鏡の奥で、一切の動揺を見せずに静かに告げた。
「ミロ。わたくしはあなたに、どう教えましたか?」
その透き通るような平坦な声に、ミロはハッと顔を上げた。
リディアの灰紫の瞳は、ミロの能力を微塵も疑っていない。ただ、彼自身が持つ「武器の使い道」を促していた。
『匂いだけでは証拠になりません。場所、時刻、誰がいたか。三つ揃えなさい』
リディアに叩き込まれたその教えが、ミロの脳裏に鮮明に蘇る。
ミロはギュッと拳を握り締め、犬の耳をピンと立てて補佐官と伯爵を真っ直ぐに睨み据えた。
「僕の鼻は、証拠を見つけるための『鍵』だ。匂いだけでお前たちを捕まえるなんて、一言も言ってない!」
ミロは自分の鞄の中から、保管庫から持ち出していた別の書類の束を乱暴に取り出し、大理石の床にバサッと広げた。
「あの保管庫の中で、修道院に送られたはずの十二人のお嬢様たちの名簿から、暗くて湿った地下水路の匂いがした。だから僕は、その匂いと同じインクが使われている『別の書類』を保管庫の奥から探し出したんだ!」
ミロが指差した書類を、セレスティナが素早く拾い上げ、その内容に目を通した。
「これは……ヴァルデン伯爵家が手配した、馬車の運行記録と警備のシフト表ですわ」
「その通りです」
リディアが静かに引き継ぐ。
「名簿に記された『修道院への移送日』。その同じ時刻に、伯爵家から『王都の地下水路の視察・清掃』という名目で、厳重に覆われた大型の荷馬車が出発している記録が残っています。通常の修道院への移送ルートとは、全くの別方向です」
補佐官の顔色が、サッと青ざめた。
ミロはさらに、胸を張って第三の証言を突きつける。
「それだけじゃない! 今日の夕方、厨房の裏口で休んでた馬丁のおじさんたちの足音と汗の匂いを辿って、話を聞いてきたんだ! 『あの日、視察用の馬車の中から、女の子の泣き声が聞こえた。でも、見なかったことにしろと金冠の役人に脅された』って、確かに言ってた!」
場所、時刻、物証、そして第三者証言。
ミロの鋭い嗅覚は「証拠そのもの」として使われたのではない。膨大な記録と人間の隠し事の中から、ピンポイントで「客観的な証拠を引きずり出すための圧倒的な探索能力」として機能したのだ。
「馬車の運行記録という物証。それに伴う使用人の証言。ミロの報告は感覚などではありません。これらはすべて、法廷で完全に認められる客観的証拠です」
リディアの声が、広間に重く響き渡る。
「これで、三点が揃いました」
逃げ道を完全に塞がれ、補佐官とヴァルデン伯爵は糸の切れた操り人形のようにその場へ崩れ落ちた。
令嬢たちの中から、抑えきれない安堵の嗚咽が漏れる。
「見事です、ミロ。あなたの能力が、彼女たちの真実を証明しました」
リディアが微かに唇を綻ばせて褒めると、ミロは照れくさそうに鼻の頭を擦った。
獣人である彼が、人間貴族の定めた理不尽なルールの内側で、彼ら自身の残した記録を使って完全に勝利した瞬間だった。
レオンハルトが剣の柄から手を離し、静かに息を吐く。
「これで言い逃れは不可能だな。大人しく縛につけ」
騎士の冷酷な宣告を受け、地方警備隊の兵士たちが補佐官と伯爵を拘束しようと歩み寄る。
だが、その時だった。
「――待て! まだだ、まだ終わっていない!」
拘束されかけた補佐官が、最後の悪あがきとばかりに血走った目でミロを指差し、狂ったように叫んだ。
「その獣人! そいつの持っている『自由民証』を確認しろ!」
広間の空気が、再び凍りつく。
ミロはビクッと肩を跳ねさせ、自らの首元にある銀札を無意識に強く握りしめた。
「そいつは王国が発行した正当な自由民ではない! 我が金冠教育会が管理する奴隷台帳によれば、そいつは逃亡した不法な奴隷だ! 奴隷に証言権などない!」
補佐官は口角から泡を飛ばしながら、執念深い笑みを浮かべた。
「その獣人の自由民証そのものが、偽造ではありませんか!?」
王国の身分制度という最大の壁。
金冠教育会は、ミロのアイデンティティそのものを否定することで、すべての証拠を根底から覆そうと牙を剥いたのだった。




