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第23話 先生は怒鳴らない

王宮推薦状の偽造原本の束の下から、黒い革表紙の分厚い綴りが見つかった。

無機質な文字が並ぶページには、一人ひとりの名前の横に「処理済み」という無慈悲な朱印が押されている。

それは、金冠教育会の点数評価によって『商品価値なし』と見なされ、家から修道院へ送られた令嬢たちの一覧表だった。


「先生。この紙から……すごく悲しい匂いがします」


埃っぽい地下保管庫の中で、獣人の少年ミロが耳を伏せて震える声を出した。


「今まで嗅いだどんな匂いよりも冷たい……血と、諦めた匂いです」


ミロの鋭い嗅覚は、この書類が作られた背景にある無数の少女たちの絶望を正確に嗅ぎ取っていた。

作法教師リディア・グレイスは無言のまま、銀縁眼鏡の奥の瞳でその名簿のページをめくっていく。


『マリアンヌ・地方男爵家……点数不足。修道院へ移送。処理済み』

『クロエ・子爵家……反抗的な態度の改善見込めず。持参金没収の上、修道院へ。処理済み』

『ソフィア……』


次々と現れる名前と、その末路。

彼女たちがどうして点数を落としたのか、本当に悪い令嬢だったのか、あるいは家のために理不尽に搾取されていたのか、今となっては分からない。

ただ一つ確かなのは、金冠教育会という巨大な組織が、彼女たちを人間としてではなく「不要な在庫」として機械的に処理したという事実だ。


「これではまるで、不良品を廃棄した記録ですわ……」


背後から覗き込んだセレスティナが、扇を握る手を白くなるほど強く握りしめた。

彼女自身も、この組織の筋書きによって『破滅』させられ、排除される予定だった一人だ。このリストに自分の名前が載っていたかもしれないという恐怖と、少女たちの尊厳を踏みにじる悪辣さに、セレスティナの肩は怒りで小刻みに震えていた。


「…………」


リディアは何も言わなかった。

しかし、名簿を握る彼女の黒い手袋越しに、ギリッ、と紙が軋む音が響いた。


リディアは今まで、目の前で泣いている被害者を、礼儀と法という鎖を使って救い出してきた。

だが、このリストに載っている少女たちは違う。彼女たちはすでに『処理』され、声を上げる機会すら奪われ、社会の闇へと葬り去られてしまった後なのだ。


理不尽な搾取に対する激しい怒り。

王族として、民を守れなかったことへの深い悔恨。

そして何より、人間をただの道具として消費する金冠教育会の思想そのものへの、耐え難い嫌悪感。


「……彼女たちの人生を、なんと心得るか」


リディアの口から漏れたのは、低く、凍てつくような声だった。

普段、どれほど悪辣な貴族を前にしても決して声を荒らげることのなかった彼女の全身から、凄まじいまでの冷たい怒気と気迫が立ち上る。

保管庫の空気が、ぴんと張り詰めて凍りつく。

彼女は怒鳴らない。しかし、その静かな怒りは、物理的な暴力を振るうよりも遥かに恐ろしく、周囲の空気を圧殺するほどの重さを持っていた。


(このままでは、彼女が怒りに呑まれる)


そう直感したミロとセレスティナが息を呑んだ、その瞬間だった。


「殿下」


背後に控えていた近衛騎士レオンハルトが、音もなくリディアの前に進み出た。

彼は一切の躊躇なく、怒りに震えるリディアの手に、自らの分厚く温かい手を重ねた。


「……レオンハルト」


リディアはハッと息を呑み、彼を見上げた。

レオンハルトは、リディアの放つ冷たい怒気の中にあっても微塵も動じず、ただ真っ直ぐに、静かな瞳で彼女を捉えていた。


「あなたは、怒りで裁く方ではない」


低く、落ち着いた声が、保管庫の冷え切った空気を溶かすように響く。


「怒りに任せて剣を振るえば、彼らと同じになってしまう。あなたは、声を出せない者のために事実を記録し、法と礼儀という鎖で彼らを縛る方のはずだ」


それは、護衛としての言葉ではない。

リディアがどのような王女であるべきか、そして彼女自身がどれほど己に厳しく、法による公正な裁きを重んじているかを誰よりも理解している男の、魂からの呼びかけだった。


レオンハルトの手に包まれた手から、スッと力が抜けていく。

リディアの周囲に張り詰めていた冷たい気配が和らぎ、保管庫の空気は元の静けさを取り戻した。


「……ええ。その通りですね」


リディアは深く息を吐き、静かに眼鏡の位置を直した。


「王女であるがゆえに、私怨や怒りだけで裁きを下すことは許されない。わたくしたちの武器は、あくまで揺るぎない証拠と法です」


彼女はレオンハルトを見上げ、微かに唇を綻ばせた。


「ありがとう、レオンハルト。少し、感情が乱れてしまいました。あなたの言葉がなければ、わたくしは王女としての矜持を見失うところでした」

「……いいえ。あなたの剣であり盾である者として、当然のことを言ったまでです」


レオンハルトは短く応え、ゆっくりと彼女の手から離れた。

ミロとセレスティナが、ホッと胸を撫で下ろす。

怒りを沈めたリディアは、改めて手元の『処理済み』の令嬢たちの一覧表に向き直った。


「セレスティナ、ミロ。この名簿に載っている人数と、詳細な行き先を確認します」

「はい、先生」


セレスティナが名簿のページをめくり、ミロが匂いを嗅ぎ分けながら、記載された情報の裏付けを行っていく。

しかし、ページを進めるごとに、セレスティナの顔色はさらに蒼白になっていった。


「先生……これ、数が多すぎますわ。この一年間で修道院へ送られた令嬢の数、なんと五十七名にのぼります」


「五十七名……。一つの教育会が関与する数としては、異常な規模です」


リディアが眉をひそめた。だが、真の異常さはその数だけではなかった。


「……先生、変です」


名簿の匂いを嗅いでいたミロが、顔を上げて怯えたように言った。


「修道院に送られたって書いてあるのに、途中のページから、修道院のお香の匂いがしなくなってます。代わりに、もっと暗くて、ジメジメした……王都の地下水路みたいな匂いがします」


「どういうことですか、ミロ?」


セレスティナが急いでミロの指差したページを確認する。

そこに記された名前の横には、『処理済み』の朱印とともに、ごく小さな文字で特殊な暗号が添えられていた。


「……先生。この十二名。修道院へ向かったという記録はありますが、受け入れ先の修道院の受領印がありません。どこにも到着していないのです」


セレスティナの震える声が、保管庫に響いた。

五十七名の被害者のうち、十二名。

彼女たちは修道院に送られたのではなく、途中で『行方不明』になっていたのだ。

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