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第20話 狩る者から狩られる者へ

「金冠は王宮内部にも根を張った。戻れば握り潰される。だが進めば、お前は孤立する」


蝋燭の頼りない灯りに照らされた羊皮紙には、見慣れた兄王太子の筆跡で、そう冷酷な事実が記されていた。

それは、地方の腐敗貴族を裁いてきた作法教師一行が、ついに『狩られる側』へと完全に反転したことを告げる密書だった。


夜深く、人目を忍んで立ち寄った小さな宿場町の客室。

先ほど、王都からの極秘の連絡網を通じてレオンハルトが受け取ってきたその手紙を前に、部屋の空気は重く凍りついていた。


「先生……その紙、血の匂いはしません。でも、すごく冷たくて、底なし沼みたいに暗い匂いがします」


窓際で外の気配を警戒していたミロが、犬の耳をペタンと頭に張り付かせて震える声で言った。

彼の言う通り、これは物理的な刃よりもはるかに恐ろしい、国家という巨大なシステムそのものが放つ殺意だった。


「王宮内部にまで、金冠教育会の息がかかっていると……? それでは、彼らはただの令嬢たちの互助組織などではない、国の中枢を食い破る毒虫の巣ではありませんか」


セレスティナが青ざめた顔で口元を覆う。

かつて社交界の頂点に近い場所にいた彼女だからこそ、その事実がどれほど絶望的か、痛いほど理解できた。


「ええ。わたくしが身分を隠し、作法教師として巡察の旅に出たのは、地方から王都へ届く教育報告書が『すべて完璧に偽装されていた』からです」


リディア・グレイスは、手元の密書からゆっくりと視線を上げ、銀縁眼鏡の奥の灰紫の瞳を細めた。


「しかし、その偽造を見抜けなかったのではなく、王宮の中枢にいる者たちが『故意に承認し、隠蔽に加担していた』のだとすれば、話は根底から変わってきます」


リディアは自らの裁縫箱の底に隠された、純白の封蝋章――『白百合の巡察章』にそっと指先を這わせた。


王女が身分を隠して地方を監査する『白百合巡察令』には、絶対の規則がある。

王命監査を発動した後は、証拠・証言・処分記録をすべて王都へ送る義務があるということだ。

もし、その報告を受け取る王都の機関そのものが金冠教育会に支配されているとしたら、リディアたちが集めた証拠は途中で握り潰され、闇に葬られることになる。


「……前回の町で、令嬢評価簿の朱書きを見ましたね。彼らはすでに、わたくしを『要調査』とし、ミロを『回収可能な獣人』として標的に定めています。これまでは、わたくしたちが一方的に彼らの末端を裁いてきました。しかしこれからは、四方八方から見えない刃が飛んでくることになります」


リディアの静かな声に、部屋に重苦しい沈黙が降りた。


「裁くということは、その者の人生に責任を持つということです。もし、わたくしの権限が王都によって否定されれば……今まで救い出してきたクララ様も、ノエル様も、名もなき獣人の子供たちも、すべて元の地獄へ引き戻される」


リディアは静かに立ち上がり、窓の外の暗闇を見つめた。


「わたくしは王女です。王族として、決して彼らを見捨てるわけにはいきません。ですが……」


その言葉の尻すぼみには、彼女が普段決して見せない、一人の人間としての『孤立への恐怖』が微かに滲んでいた。

どれほど礼法と証拠で武装しようと、彼女の武器は「王国の制度」そのものが正常に機能しているという前提の上に成り立っている。その土台を丸ごとひっくり返されようとしている今、彼女が背負う重圧は想像を絶するものだった。


「殿下」


その時、ずっと無言で控えていた近衛騎士レオンハルトが、静かな足取りでリディアの背後に進み出た。


「王太子殿下は、戻れば握り潰されると仰った。ならば、進むしかありません」

「レオンハルト……。ですが、進めば孤立します。わたくしがこれ以上踏み込めば、あなたたちまで金冠の標的として完全に巻き込むことになります」


リディアが振り返ると、そこにはいつものように、抜身の剣のような鋭さと、大木のような静かな温かさを併せ持つ騎士の姿があった。


「私は近衛騎士です。危険を承知で、あなたの護衛についた」

「それでも……わたくしが王女としての権威を失い、ただの作法教師、あるいは罪人として追われる身になったとしても、ですか?」


自嘲するように微かに目を伏せたリディアに対し、レオンハルトは一切の迷いなく、低く響く声で告げた。


「あなたが王女でなくとも、私は同じ場所に立ちます」


その真っ直ぐすぎる言葉に、リディアはハッと息を呑み、目を見開いた。


「レオンハルト……」


どんな貴族の嫌味にも、どんな脅迫状にも動じたことのない、完璧な王宮作法教師。

その彼女が、初めて言葉を失い、ただ目の前の不器用な騎士を静かに見つめ返していた。

身分や権威といった『鎖』ではなく、ただリディアという一人の女性の在り方を信じ、背後を守り続けるという誓い。それは、孤独な戦いを強いられる彼女にとって、何よりも得難い救いだった。


「……先生、顔が少し赤いですわよ」


セレスティナが扇の陰で小さく微笑み、わざとらしく咳払いをした。

ミロも犬の耳をピンと立てて、「レオンさん、かっこいい匂いがする!」とはしゃいでいる。


「っ……からかわないでちょうだい、二人とも」


リディアは慌てて眼鏡の位置を直し、コホンと一つ咳払いをして平常心を取り繕った。

だが、その声はいつもの氷のような冷たさを失い、微かに温かい熱を帯びていた。


「……ありがとうございます、レオンハルト。あなたたちの意思は確かに受け取りました。ならば、このまま王都へ向けて進みます。彼らがどう動こうと、わたくしたちは証拠を集め、法で縛る。それだけです」


再び気丈な王女の顔に戻ったリディアは、机の上の密書に視線を戻した。


「それにしても、兄上の手紙には続きがありますね。……一番下に、小さく」


リディアの指先が、羊皮紙の最下段に記された、走り書きのような一文をなぞる。

それを読み上げた瞬間、彼女の顔色から再び血の気が引いた。


『王宮内に、お前を偽物にする準備が進んでいる』


王都の玉座のすぐ傍で、本物の第二王女の存在そのものを社会から抹消し、偽物をすり替えようとする最悪の陰謀。

本当の戦いが、静かに幕を開けようとしていた。

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