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第19話 朱書きの評価簿

静まり返った客室の中、青年の手が、テーブルの中央に置かれた地味な裁縫箱へと伸びる。

あと数寸で、その指先が木箱の蓋に触れようとした、その瞬間だった。

「他人の手荷物に勝手に触れるなど、いかなる作法教本にも載っていない無作法ですね」


窓際のカーテンを直していたはずの作法教師リディア・グレイスが、一切の感情を交えない冷たい声で言い放った。

背を向けたままの指摘。窓ガラスの微かな反射だけで、彼女は背後のロレンツの卑しい動きをすべて見透かしていたのだ。


親切な貴族青年を装っていたロレンツの顔から、爽やかな笑みがスッと抜け落ちた。


「チッ……! ただの教師にしては、やけに隙がない女だ」


舌打ちとともに、ロレンツの懐からギラリと冷たい刃の光が覗いた。

言葉で誤魔化せないと悟るや否や、力尽くで裁縫箱――一行の急所である『巡察章』を奪い取ろうとしたのだ。

彼が短剣を構えてテーブルに身を乗り出した、その直後。


「先生の荷物に触れるな」


部屋の外にいたはずの近衛騎士レオンハルトが、音もなくロレンツの真横に立っていた。

剣は抜いていない。ただ、万力のような力でロレンツの短剣を持った手首を掴み、そのまま一切の抵抗を許さずに床へとねじ伏せた。

「ぐっ……!? 貴様、馬車の手配に下へ行ったはずじゃ……!」

「主の背後を空けたまま、持ち場を離れる騎士がどこにいる」


レオンハルトの氷のような見下ろす視線に、ロレンツは顔を歪めた。

最初から、リディアが作った『隙』は、彼を誘い込み、本性を炙り出すための罠だったのだ。


「先生! やっぱりこいつ、黒です!」


隣の部屋から駆けつけてきた獣人の少年ミロが、床に押さえつけられたロレンツを指差して鼻を鳴らした。


「昨日、宿に投げ込まれた脅迫状のインクと同じ匂いが、この男の服からプンプンしてます! 絶対、懐の中に何か隠し持ってますよ!」


その言葉に、ロレンツの顔に明らかな焦りが浮かんだ。

彼は拘束されたまま不敵な笑みを浮かべ、奥歯を強く噛み締めた。


「……ッ、よく吠える犬だ。だが、これで勝ったと思うなよ!」


直後、ロレンツの口から紫色の煙が勢いよく吹き出した。

「毒煙か! 殿下、お下がりを!」

レオンハルトが咄嗟にリディアを庇って後退する。その一瞬の隙を突き、ロレンツは自らの外套を脱ぎ捨てて拘束から抜け出し、開いていた窓から身を躍らせた。


「追いますか!?」

「いいえ、深追いは無用です。暗殺ではなく情報の持ち帰りが目的の密偵を追えば、罠に嵌まる危険があります」


リディアは静かに煙が晴れるのを待ち、床に残された豪奢な外套を見下ろした。


「それに……一番の『手掛かり』は、彼自身が置いていってくれましたから」


ミロが息を止めて外套に近づき、その裏地の隠しポケットから、革で装丁された分厚い手帳を引っ張り出した。

表紙には、二本の剣と黄金の冠――『金冠教育会』の紋章が深く刻み込まれていた。


「先生、これ……」


ミロから手帳を受け取ったリディアは、銀縁眼鏡を押し上げて静かにページをめくった。

横から覗き込んだセレスティナが、ハッと息を呑む。


「これは……王国全土の貴族令嬢の、名簿……? いいえ、違いますわ。名前の横に、細かな『点数』と『評価』が書き込まれています」


「令嬢評価簿、ですか」


リディアは感情の読めない声で呟き、ページに記された内容を追った。

そこには、一行がこれまでの旅で出会い、そして救ってきた少女たちの名前が、無機質な記録として並んでいた。


『マリナ・地方子爵家庶子……正妻の娘の婚約を優先するため、紹介順抹消による社会的排除を推奨。評価:無価値』

『クララ・伯爵家婚約者……持参金回収の完了を確認次第、修道院送りとする。評価:精神矯正済み』

『ノエル・聖女候補……平民のため不適格。眠り草による神聖力減退後、教会より追放。評価:排除対象』


「ひどい……」

セレスティナが、扇を握る手を小刻みに震わせた。


「彼女たちが流した涙は、ただの家族内の不和や、個人の悪意によるものだけではなかったのですね。金冠教育会が裏から糸を引き、この評価簿に従って、都合の悪い令嬢たちを意図的に排除していた……!」


これはもはや、礼儀作法の問題ではない。

貴族の令嬢を点数化し、家格と利益のために売り買いし、不要となれば社会から抹殺する。王国全体を覆う、巨大な人身売買にも等しいネットワークの証拠だった。


「……先生。ここにも、見覚えのある名前がありますわ」


セレスティナの震える指先が、過去の記録のページを指した。

そこには、はっきりと記されていた。


『セレスティナ・ヴァルモント・侯爵令嬢……素行不良につき矯正不能。破滅計画進行中。評価:失脚対象』


「わたくしが婚約破棄され、すべてを失ったあの事件も……彼らの描いた筋書きの上だったというわけですか」

セレスティナは自嘲するように笑ったが、その瞳には過去から逃げない強い意志の光が宿っていた。


リディアは無言のまま、評価簿の最新のページを開いた。

そこには、他の黒インクとは明らかに異質な、毒々しい真新しい『朱色』のインクで、一人の名前が書き加えられていた。


『リディア・グレイス=要調査』


「……どうやら、わたくしたちも彼らの『評価』の対象に選ばれたようですね」


リディアは自分の名前を見ても動じることなく、ただ冷徹な事実としてそれを受け止めた。

これまでは、リディアたちが腐敗した貴族たちを「裁く側」だった。しかし、金冠教育会という巨大な黒幕が明確に一行を標的と定めた今、立場は反転しつつある。


「殿下」


レオンハルトが、低い声でリディアを呼んだ。


「王都の暗部が、完全に我々を敵と認識しました。ここから先は、見えない刃が四方から襲いかかってくる旅になります」

「ええ、分かっています。相手がどれほど巨大な闇であろうと、わたくしのやることは変わりません。礼儀と法で、彼らを縛るだけです」


リディアが静かな決意を口にした、その時。


「……先生」


窓の外の気配を警戒していたミロが、評価簿の最後尾に挟まれていた、一枚の別紙を見つめたまま固まっていた。

いつもはお調子者の彼の声が、微かに、だが確実に震えている。


「こっちの別の紙に……僕の名前も、あります」


リディアとセレスティナが視線を向ける。

そこには、令嬢たちの評価とは異なる、短い事務的な分類が記されていた。


『ミロ・犬系獣人。分類=回収可能な獣人』

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