第18話 先生、あの人は嘘の匂いがします
「申し訳ありませんが、よそ者はお断りです」
バタン、と。
木製の重い扉が、リディアたちの目の前で無情に閉ざされた。
ここは王都へと続く街道の中継地である、活気ある宿場町。
しかし、一行が足を踏み入れてからというもの、どの宿の扉を叩いても、主人は顔を青ざめさせて首を横に振るばかりだった。
昨日、金冠教育会の息がかかった者たちから受けた『報復』の余波が、この町にも確実に及んでいるのだ。
「……これで五軒目ですわね。見事にどこも同じ反応ですわ」
セレスティナが、閉ざされた扉を見つめて静かに扇を揺らした。
町を行き交う人々も、黒いドレスの作法教師と獣人の少年を含む一行を、まるで厄介者でも見るかのように遠巻きにしてヒソヒソと囁き合っている。
「どうやら、金冠教育会の手は、我々が想像している以上に広く深く根を張っているようですね」
リディア・グレイスは銀縁眼鏡の奥で灰紫の瞳を静かに細め、町の大通りを見渡した。
物理的な刺客を放つのではなく、周囲の人間を脅し、社会的に孤立させる。真綿で首を絞めるようなその陰湿な手口は、いかにも権力者らしいやり方だった。
「殿下。このままでは野営を余儀なくされます。私が町の外れで安全な場所を確保してまいりましょうか」
荷物持ちを装う近衛騎士レオンハルトが、周囲への警戒を解かないまま低い声で進言した。
彼の手は剣の柄から離れているが、その全身からはいつでも抜刀できる張り詰めた空気が漂っている。
「ありがとう、レオンハルト。ですが、もう少し様子を見ましょう。敵が『こちらを孤立させて、どうしたいのか』を見極める必要があります」
リディアがそう答えた、その時だった。
「おや。ひょっとして、お困りですか?」
人垣を割って、一人の青年が爽やかな笑顔を浮かべて近づいてきた。
金糸を編み込んだ上質な外套を羽織り、身なりからして裕福な貴族の青年だと分かる。
周囲の町民たちが金冠教育会の圧力を恐れて一行を避けている中、彼は全く臆する様子もなく、親しげに声をかけてきたのだ。
「私はロレンツと申します。この町の地理には明るくてね。よろしければ、私が力になりましょう」
ロレンツと名乗った青年は、優雅に胸に手を当てて一礼した。
その顔には、困っている旅人を助けようとする純粋な善意が浮かんでいるように見えた。
「ご親切にありがとうございます。ですが、我々は……」
リディアが社交辞令で躱そうとした瞬間、横にいたミロが、リディアの黒いドレスの袖をギュッと強く引いた。
「……先生」
ミロは犬の耳を頭にぴったりと張り付かせ、ロレンツを睨みつけるようにして低い声で囁いた。
「先生、あの人は『嘘の匂い』がします」
「嘘の匂い、ですか?」
「はい。本当に親切な人は、もっと温かくて、パンみたいな安心する匂いがするんです。でもあの人は、笑ってるのに……冷たい、刃物に塗る油みたいな匂いがします。心の中は全然笑ってないです」
ミロの獣人特有の鋭い嗅覚は、香水の甘い香りの下にある、計算された冷酷な感情を正確に嗅ぎ分けていた。
さらに、セレスティナも静かに扇を口元に当て、リディアにだけ聞こえる声で告げた。
「先生。ミロの言う通りですわ。あの殿方……歩き方や礼の角度は貴族として完璧ですが、視線が『困っている平民』に向けるものではありません」
「と、言いますと?」
「彼が先ほどから観察しているのは、私たちの困窮ぶりではなく、レオンハルトの足運びの隙や、ミロの耳の動き、そして先生の荷物の量ですわ。あれは、敵の戦力を値踏みする者の目線です」
かつて社交界の中心で、権力闘争と腹の探り合いの中で生きてきたセレスティナだからこそ見抜ける、洗練された偽りの社交辞令。
ミロの嗅覚と、セレスティナの観察眼。
頼もしい仲間たちの報告を受け、リディアは眼鏡の奥で微かに満足げな光を宿した。
「……よく気づきましたね、二人とも。素晴らしい成長です」
リディアは二人を短く褒めると、再びロレンツへと向き直った。
「ロレンツ様。実を言いますと、どの宿からも宿泊を断られてしまい、途方に暮れていたところなのです。お力添えいただけるのでしたら、これほど心強いことはありません」
リディアはあえて安堵したような笑みを浮かべ、彼の提案に飛びついたふりをした。
レオンハルトが微かに眉を動かしたが、リディアの意図を察し、無言で背後に控える。
敵が用意した罠であるなら、あえてその罠に足を踏み入れ、内側から食い破る。それがリディアの選んだ道だった。
「それは災難でしたね。さあ、私についてきてください。知人が経営している、特別に居心地の良い宿を手配しましょう」
ロレンツは満足そうに微笑み、一行を案内し始めた。
◇ ◇ ◇
ロレンツに案内されたのは、町の大通りから少し外れた場所にある、瀟洒な造りの宿だった。
通された客室は不自然なほど広く、調度品も高級なものばかりが揃えられている。
「さあ、ゆっくりと旅の疲れを癒してください。お茶の準備をさせましょう」
ロレンツは甲斐甲斐しく世話を焼きながら、さりげなく会話を投げかけてきた。
「それにしても、美しい先生だ。作法教師と伺いましたが、ずいぶんと物々しい護衛をお連れですね。王都へ向かわれる途中ですか?」
「ええ。地方での仕事を終え、王都へ戻るところです。護衛は、物騒な世の中ですから」
リディアはのらりくらりと核心を躱し続ける。
ロレンツの目は、会話をしながらも常に部屋の中に置かれた一行の荷物を探るように動いていた。
(……やはり、目的は私たちの身辺調査と、証拠の探索ですか)
リディアは内心で冷たく判断を下すと、ふと立ち上がった。
「セレスティナ、ミロ。隣の部屋の荷物整理をお願いできますか。レオンハルトは、馬車の手配の確認を」
リディアが指示を出すと、三人は短く頷き、それぞれの持ち場へと散っていった。
広い客室には、リディアとロレンツの二人だけが残される。
「おや、先生も休まれないのですか?」
「ええ。少し、裁縫箱の整理をしておこうと思いまして」
リディアは自分の手荷物の中から、使い込まれた地味な木の『裁縫箱』を取り出し、客室の中央にある大きなテーブルの上にコトリと置いた。
「では、私はお茶の様子を見てきましょう。すぐに戻りますよ」
ロレンツが愛想よく微笑み、部屋の入り口へと向かう。
リディアもまた、「よろしくお願いします」と背を向け、窓際のカーテンを直すふりをして彼から視線を外した。
完全な無防備。
警戒心の強い作法教師が、ふと見せた絶好の隙。
リディアが背を向けている間。
入り口へ向かっていたはずのロレンツの足音が、ピタリと止まった。
音もなく、まるで滑るようにして、彼がテーブルへと引き返してくる気配がする。
そして、その手が、リディアがわざと置いた『裁縫箱』へと真っ直ぐに伸びた。
その箱の底には。
一行の真の正体を示す、絶対の権威――『白百合の巡察章』が隠されている。




