第2話 泣いた匂いの厨房
分厚い帳簿のページをめくるたび、カビと古いインクの匂いが舞い上がった。
そこには、華やかな侯爵家の裏側――使用人たちから搾取された『罰金』の記録がびっしりと並んでいる。
豪奢な茶会室の真下で、彼女たちは日々のパンすら奪われていたのだ。
「……『茶托に水滴を残した罪、銅貨三枚』。『客人と目を合わせた罪、銅貨五枚』。そして、『礼法指導という名目の無給労働』」
薄暗い厨房の片隅で、王宮作法教師リディア・グレイスは感情の読めない声で文字を追った。
銀縁眼鏡の奥の灰紫の瞳が、帳簿に記された理不尽な数字の羅列を正確に記録していく。
「先生、こっちの鍋も空っぽです。あるのは野菜の切れ端を煮ただけの、薄いスープだけ」
獣人の少年ミロが、厨房の大きな竃の蓋を開けて鼻をひくつかせた。
彼の犬の耳が、不満げにパタパタと動く。
「上の階のお貴族様たちは、あんなに甘くて高いお菓子を食べてたのに。これじゃあ、腹の音が鳴って当然です」
「……ええ。お茶会の茶葉は最高級品でしたが、使用人たちの食事は削られていたようですね」
「腹が減ってる人間は、嘘が下手になります。だから、あの侍女のお姉さんも限界だったんです。……先生、あの家の厨房、我慢して泣いた匂いが染み付いてます」
ミロの言葉に、リディアは静かに帳簿を閉じた。
貴族の権力は、絶対的な力を持って下の者を支配する。だが、どれほど書類で取り繕おうとも、飢えと痛みの匂いまでは隠しきれない。ミロの鋭い嗅覚は、人間社会が隠蔽した真実を暴くための重要な鍵だった。
「ご苦労様でした、ミロ。この帳簿は重要な証拠になります。客室へ戻りましょう」
◇ ◇ ◇
リディアたちが割り当てられた客室では、元侯爵令嬢のセレスティナが、茶会で火傷を負わされた侍女の手当てを続けていた。
「痛みますか? 水ぶくれにはなっていませんから、薬を塗って冷やせば跡には残らないはずですわ」
セレスティナの手つきは、かつて高慢な令嬢として周囲を傅かせていたとは思えないほど優しく、丁寧だった。
しかし、侍女は小刻みに震えながら、怯えた目で周囲を見回している。
「あ、ありがとうございます……。でも、奥様に知られたら、私……。罰金を払えずに、追い出されてしまいます。田舎には、小さな弟たちがいるのに……」
侍女の瞳から、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。
セレスティナは静かに手当てを終えると、持っていた扇をゆっくりと閉じた。
「……あの子、昔のわたくしと同じ顔をしていますわ」
部屋に戻ってきたリディアに向けて、セレスティナはポツリと呟いた。
彼女が指しているのは、先ほど茶会で侍女に紅茶を浴びせたイザベラ令嬢のことだ。
「イザベラ様は、侍女を苛めることでしか、自分の価値を保てないのです。彼女の瞳の奥にあったのは、傲慢さではありません。絶対的な恐怖ですわ」
セレスティナは、かつて己が犯した罪の重さを噛み締めるように、伏し目がちに語った。
「母親である侯爵夫人からの重圧。完璧な令嬢であれという抑圧。それに押し潰されそうになっているからこそ、自分より弱い者を踏みつけて、『自分は上の立場の人間だ』と安心しようとしている。……先生。あのやり方では、他人に謝る前に、彼女自身の心が壊れますわ」
「変われる者と、止めなければならない者は違います」
リディアは冷徹な事実として言葉を返した。
「イザベラ令嬢が怯えていようと、被害者がいる事実に変わりはありません。ですが、あなたの見立ては監査の助けになります、セレスティナ」
その時、音もなく客室の扉が開き、近衛騎士レオンハルトが入ってきた。
荷物持ちを装っている彼は、屋敷の周囲を警戒に出向いていた。
「殿下、報告が」
レオンハルトは周囲に誰もいないことを確認し、声を潜めた。
「裏口と、我々の客室の窓の下に、不審な男が配置されました。暗殺者ではありません。おそらく、我々が王宮の誰と繋がっているのか、あるいは逃げ出さないかを監視する『目』です」
「侯爵夫人の手回しですね。王宮の査定を恐れているのなら、賄賂を持ってきてもおかしくないはずですが……監視ですか」
リディアは顎に手を当てた。
単なる礼儀作法の減点程度で、王宮の査定官を露骨に監視するなど異常だ。裏を返せば、絶対に知られてはならない『何か』をこの屋敷が隠しているということになる。
リディアは振り返り、震える侍女の前に静かに歩み寄った。
そして、その目線に合わせるように膝を折る。
「泣くのは構いません」
リディアの声は、どこまでも平坦で、冷たくすら聞こえた。
「ですが、泣いた理由を言葉にしなさい。あなたが声を上げなければ、わたくしはあなたを救うための行動を起こせません」
「先生……」
セレスティナが止めに入ろうとしたが、リディアは片手でそれを制した。
王命監査の発動には、証拠と同時に、被害者自身の意思確認が必要なのだ。それが白百合巡察令の絶対の規則である。
侍女はリディアの真っ直ぐな瞳に見つめられ、やがて、震える唇を開いた。
「……お茶会の礼法なんて、誰も習っていません。私たちはただ、お嬢様が苛立ちをぶつけるための的でした。少しでも目を逸らせば罰金を取られ、給金はほとんど残っていません。逆らえば、もっとひどい家に売り飛ばすと、奥様に脅されていて……」
「立派な証言です。よく言葉にしましたね」
リディアは立ち上がり、侍女に背を向けた。
一つ。使用人への私刑(茶会での紅茶事件)。
二つ。教育記録の虚偽(隠された罰金帳簿と未払い給金)。
「証拠は、あと一つです」
リディアは自らの荷物の中から、一枚の豪奢な羊皮紙を取り出した。
それは王宮を出る前、この地方侯爵家から提出されていた『王宮推薦状』の書類だった。
「レオンハルト。先ほど厨房で見つけた、この罰金帳簿の文字を見てください」
リディアが隠し扉から持ち出した帳簿の端切れと、王宮推薦状を机の上に並べる。
「帳簿の筆跡と……こちらの推薦状の署名」
レオンハルトが鋭い視線を落とし、ミロもテーブルの端から身を乗り出した。
セレスティナが息を呑む。
「……先生。これ、筆跡が……」
リディアは眼鏡の位置を中指で直し、静かに告げた。
「ええ。偽造された教育報告書と罰金帳簿の署名が、王宮に提出された推薦状の筆跡と、完全に一致しています」
それは単なる礼法違反ではない。王宮を欺き、金で権威を買おうとした明確な『国賊行為』の証明だった。




