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第1話 作法教師ごときが

「作法教師など、使用人と同じでしょう?」


侯爵令嬢イザベラはそう笑って、紅茶の入ったカップを侍女の手に傾けた。


熱い茶が、白い指にかかる。


侍女は悲鳴を上げなかった。

悲鳴を上げることさえ、許されていない顔をしていた。


華やかに飾り付けられた侯爵家の茶会室。

最高級の茶葉の香りが漂う中で、取り巻きの令嬢たちは扇の陰でクスクスと笑い声を上げた。

イザベラの隣に座る婚約者の青年は、気まずそうに目を逸らし、見ていないふりをした。

上座に座る侯爵夫人は、娘の優位を示す振る舞いに満足げに目を細めている。


「少し粗相をしたくらいで、ひどく怯えた顔をして。我が家がどれだけ給金を払っていると思っているの? 躾け直してあげているのだから、感謝しなさい」


イザベラが冷たい声で言い放ち、再び侍女を見下した時だった。


部屋の隅で、黒いドレスの女教師が扇を閉じた。


パチン、と。

乾いた音が、茶会室に落ちる。


「一つ。給仕中の侍女への私刑」


女教師――リディア・グレイスは、感情の読めない静かな声で言った。


「二つ。王宮式茶会規定への違反」


銀縁眼鏡の奥で、灰紫の瞳がイザベラを真っ直ぐに見据えた。


「三つ。あなたの家が提出した教育報告書の、虚偽」


イザベラの笑みが、ピタリと止まる。

彼女は不快げに顔を歪め、リディアを睨みつけた。


「……は? 何を言っているの、あなた。ただの雇われ教師の分際で、侯爵家次期当主のこの私に指図するつもり?」


侯爵夫人もまた、不快そうに扇をパタパタと鳴らした。


「ええ、指導いたします。わたくしは王宮より派遣された作法教師。正しい礼法を指導し、評価する権限を与えられています」


リディアは一歩進み出た。

その声は決して荒げられることはない。だが、その場にいる全員を縛り付けるような重さがあった。


「一つ目。先ほどの行為は、あなたから故意に腕をぶつけて紅茶をこぼさせた上、火傷を負わせるものでした。これは指導ではなく、明確な『私刑』にあたります」


「私刑? 大袈裟な。これは我が家の教育の一環よ」


「いいえ。王宮式茶会規定、第十二項。『公の場における使用人への罰は、主人の品位を著しく損なうものとし、これを禁ずる』。二つ目について、あなたは今、自らの手で侯爵家の品位を地に落としました」


イザベラの顔が、みるみるうちに赤く染まる。


「そして三つ目。当家から王宮へ提出された教育報告書には、『使用人への寛大で慈悲深い指導』が為されていると記されていました。しかし現実はご覧の通り。報告書は虚偽であったと判断せざるを得ません」


「な、生意気な……! たかが作法教師ごときが!」


イザベラが激高して立ち上がる。


「よろしい。授業を始めましょう」


リディアが静かに告げると、その背後で動く影があった。


元侯爵令嬢セレスティナが、流れるような足取りで震える侍女に寄り添った。

彼女は手早く冷水に浸した清潔な布を取り出し、侍女の火傷した手にそっと当てた。


「……痛かったでしょう。もう大丈夫ですわ」


セレスティナは優しく囁くが、その瞳はイザベラを冷ややかに見据えていた。

彼女は扇を閉じる音に、かつての己の過ちを重ねているようだった。


扉の横では、荷物持ちに見える騎士レオンハルトが、いつのまにか退路を塞ぐように立っていた。

剣には手をかけていない。

だが、その場を支配する圧倒的な威圧感に、取り巻きの令嬢たちは息を呑み、椅子から動けなくなった。


そして窓際では、犬の耳と尾を持つ獣人の少年ミロが、鼻をひくつかせて呟いた。


「先生。この屋敷、茶葉より嘘の匂いが濃いです」


ミロの言葉に、侯爵夫人が立ち上がった。


「獣人風情をこの由緒ある茶会室に入れるだけでも我慢ならないというのに! 無礼な! つまみ出しなさい!」


リディアは夫人に向き直り、淡々と告げた。


「彼らはわたくしの助手であり、護衛です。彼らを追い出すということは、王宮の査定を拒否したとみなします」


侯爵夫人は唇を噛み、黙り込んだ。

ここで王宮からの推薦状を失えば、イザベラの王太子妃候補への道は完全に絶たれる。それだけは避けなければならない。


「本日の茶会は、王宮基準を満たしておりません」


リディアは冷徹に言い放った。


「三日後、茶会作法の再試験を行います。それに合格できなければ、王宮への推薦状は白紙とさせていただきます」


「なんですって……!」


「それまで、この侍女はわたくしたちが一時保護します。治療と、事の経緯についての聞き取りが必要です。よろしいですね?」


反論を許さないリディアの態度に、イザベラも侯爵夫人も、声を上げることすらできなかった。



◇ ◇ ◇



茶会が終わり、リディアたちは一時貸し与えられた客室へと向かっていた。


セレスティナは侍女に付き添い、レオンハルトは無言で周囲の気配を探りながら歩いている。

そんな中、ミロだけが一人、屋敷の裏側――厨房の勝手口へ向かって鼻を動かしていた。


「ミロ、何か見つけましたか?」


リディアが声をかけると、ミロは耳を伏せて振り返った。


「先生、この厨房、泣いた匂いがします」


ミロの鋭い嗅覚は、華やかな香水や高級な茶葉の匂いの下にある、屋敷の隠された真実を嗅ぎ分ける。


「案内しなさい」


昼下がりで人気のない厨房に入ると、ミロは迷わず部屋の隅にある大きな食器棚を指差した。


「この奥です。古い紙と、インクの匂いがします。それと……たくさんの人が我慢して流した涙の匂い」


レオンハルトが無言で前に進み出た。

彼が軽々と巨大な食器棚を動かすと、その裏の壁には巧妙に隠された小さな扉があった。


リディアが扉を開けると、中から出てきたのは数冊の分厚い帳簿だった。

表紙には何も書かれていないが、ページを開いたリディアの灰紫の瞳が、静かに細められる。


「これは……」


そこには、行われていない授業の記録簿と、使用人たちの給金から「失敗の罰金」として不当に天引きされた詳細な計算式がびっしりと記されていた。


「嘘と搾取の記録、ですね」


リディアの声は冷たく、そして静かな怒りを帯びていた。

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