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第16話 腹ぺこ獣人、聖堂を走る

「くそっ、見失ったか……! 随分と足の速い密偵だな」


大聖堂の入り口で、近衛騎士レオンハルトが忌々しそうに舌打ちをした。

礼拝堂の陰に潜んでいた黒い外套の影は、こちらが動くより早く、蜘蛛の子を散らすように夜の町へと消えてしまった。

その洗練された逃走の手口は、単なるごろつきの類ではない。明らかに専門の訓練を受けた、組織的な『密偵』の動きだった。


「深追いは無用です、レオンハルト。相手の目的は監視と情報収集。今、彼らを刺激して王都へ逃げ帰られれば、金冠教育会の本丸にこちらの存在と動向が知られてしまいます」


リディア・グレイスは銀縁眼鏡の奥で静かに目を細め、夜の闇に沈む町を見据えた。

修道院送りの偽装、違法奴隷の仲介、そして今回の聖女候補への毒の提供。王国の暗部という暗部に、金冠教育会の根が張り巡らされている。


「それにしても、ミロの姿が見えませんね。どこへ行ったのでしょうか」


セレスティナが周囲を見回して首を傾げた。

先ほどまでリディアたちの傍で「血と鉄の匂いがする」と警告を発していた獣人の少年は、いつの間にかその姿を消していた。


「……嫌な予感がします。あの子、まさか一人で密偵を追ったのでは……」

「いえ、それはないでしょう。ミロの鼻は、密偵の逃げた方向とは逆の『地下』へ向かっていましたから」


リディアは静かに聖堂の奥を指差した。


「彼はおそらく、密偵の匂いとは別の……もう一つの『血と鉄の匂い』の発生源を探しに行ったのでしょう」



◇ ◇ ◇



その頃、ミロは大聖堂の地下深くへと続く、暗く冷たい石段を一人で下りていた。


(絶対に変だ。お香の匂いで誤魔化してるけど、この下から、たくさんの汗と泥……それに、古い鉄の匂いがする)


最初は、祭壇に供えられていた焼き立てのパンの甘い匂いにつられて、厨房の裏口を探していただけだった。

しかし、地下へと続く扉の隙間から漏れ出すその匂いを嗅ぎ取った瞬間、ミロの犬の耳はピンと張り詰め、腹の虫の音もピタリと止んだ。


「……鉱山町の地下倉庫と、同じ匂い」


ミロは音を立てずに石段を下りきり、重い鉄扉の隙間から中を覗き込んだ。

そこには、神聖な大聖堂の地下とは思えない光景が広がっていた。


薄暗い空間に、いくつもの鉄の檻が並べられている。

そしてその中には、ボロボロの衣服を纏い、首に重い奴隷輪を嵌められた獣人の子供たちが、身を寄せ合うようにして震えていた。

年齢は皆、十歳にも満たない幼い子供ばかりだ。


「……おい、お前ら。明日の夜には王都の『買い手』のところへ出荷だからな。泣きわめいて傷を作ったら、値打ちが下がるぞ」


見張りの男が、檻の鉄格子を警棒でガンッと叩いた。

子供たちはビクッと肩を跳ねさせ、小さな悲鳴を上げて檻の隅へと逃げ惑う。


(教会が、獣人の子供を奴隷として売ってる……?)


ミロはギリッと犬歯を噛み締めた。

平民の聖女候補に毒を盛り、その裏で獣人の子供たちを商品として売り捌く。それが、神の慈悲を説く者たちの真の姿だった。


見張りの男が欠伸をしながら別の部屋へ移動したのを見計らい、ミロは素早く檻の前に歩み寄った。


「しーっ。大丈夫、僕は敵じゃないよ」


怯える子供たちを安心させるように、ミロは自分の犬の耳をパタパタと動かして見せた。

檻の中にいた一人の小さな男の子が、恐る恐るミロの首元を見つめた。


「お兄ちゃん……首輪、ないの?」

「うん。僕には、もう首輪はないんだ。ほら」


ミロは懐から、一枚の銀色のプレートを取り出した。

それは、リディアから与えられた『自由民証』の銀札。


「これがあれば、首輪がなくても、誰にも縛られずに生きていいんだ。僕の『先生』が、そう教えてくれた」


ミロは真っ直ぐな瞳で子供たちを見つめた。


「だから、君たちも大丈夫。僕の先生が、絶対に君たちを助けてくれるから」

「……ほんと?」

「本当だよ。先生は、悪い奴らをやっつける時は、すっごく怖いからね」


その言葉に、子供たちの目にわずかな希望の光が宿った。

しかし、一人の子供が、ミロの持つ銀札をじっと見つめながら、ポツリと呟いた。


「でも……銀札を、取り上げる大人がいるよ」

「え?」

「前にここを通りかかった大人が言ってた。『こいつらの自由民証は、すべて無効化して回収したから、売り払っても問題ない』って……」


子供の言葉に、ミロの背筋が冷たく凍りついた。

自由民証は、王国が正式に発行する身分証明だ。それを一存で無効化し、回収するなど、地方の教会や貴族にできる芸当ではない。


「その大人って……どんな奴か、覚えてる?」


ミロが問い詰めると、子供は小さく頷いた。


「胸に……剣と、ピカピカの冠のバッジをつけてた。『金冠』の人だって、言ってた……」


ミロは、ゴクリと生唾を飲み込んだ。

金冠教育会。

あの鉱山町で違法奴隷の取引を仲介していた組織が、子供たちの自由民証を不正に回収し、彼らを再び奴隷の身分へと叩き落としていたのだ。


「……ミロ。見つけましたか」


背後から、静かな声が響いた。

振り返ると、そこには黒いドレスの作法教師、リディアの姿があった。

レオンハルトとセレスティナも、そのすぐ後ろに続いている。


「先生……! ここに、子供たちが……!」

「ええ。分かっています。よく見つけましたね」


リディアは檻の中の子供たちへ向けて、静かに、だが確かな優しさを含んだ声で告げた。


「泣くのは構いません。ですが、これからは、その涙の理由を言葉にして伝えることができるようになります。……授業は終わりです。ここからは、王命監査です」


リディアが白百合の封蝋章を掲げると、背後のレオンハルトが静かに剣を抜き、見張りの男たちが潜む部屋へと足を踏み入れた。

数分後、悲鳴と鈍い打撃音が響き、教会の地下に巣食っていた悪党たちは、一人残らず床に転がされていた。



◇ ◇ ◇



翌日。

教会の不正は白日の下に晒され、ノエルへの毒物投与、ならびに違法な奴隷取引に関与した神官たちはすべて捕縛された。

地下に囚われていた子供たちは無事に保護され、彼らの首から重い鉄の輪が外された。


「先生……わたくし、もう一度、自分の祈りを取り戻せそうです」


ノエルは、顔色もすっかり良くなり、晴れやかな笑顔でリディアたちを見送りに来ていた。

彼女の純粋な神聖力は、これからの教会を正しく導く光となるだろう。


「ミロお兄ちゃん、ありがとう!」


保護された獣人の子供たちも、ミロの周りに集まって尻尾を振っていた。

ミロは照れくさそうに頭を掻きながら、彼らに向かって力強く頷いた。


「もう大丈夫だ。先生が、君たちを必ず自由にしてくれる。胸を張って、自分の足で歩けばいいんだからな!」


それは、かつて奴隷だったミロが、リディアに救われて掴んだ確信だった。

子供たちは元気よく返事をし、新しい保護施設へと向かう馬車に乗り込んでいった。


「……立派なことを言いますね、ミロ」

「へへっ。先生の受け売りですけどね」


一行の馬車が教会領を出発し、王都へと続く街道を走り始めた時。

リディアは手元の書類――押収した金冠教育会の関連資料を見つめながら、静かに呟いた。


「彼らは、獣人の自由民証を不正に回収する権限を持っている。……それはつまり、王宮の戸籍管理の中枢にまで、彼らの息がかかっているということです」


ガタゴトと揺れる馬車の中で、リディアの灰紫の瞳が、剣呑な光を帯びて細められた。


「……王都へ向かう前に、一度、体制を立て直す必要がありますね」


その時だった。

リディアの言葉を遮るように、前方で馬車を御していたレオンハルトが、鋭い声で馬の手綱を引いた。


「殿下、おつかまりください!」


急ブレーキに馬車が大きく揺れる。

前方から土煙を上げて近づいてくるのは、王都の近衛騎士団の紋章を掲げた、一団の騎馬隊だった。


「……王都の騎士団が、なぜこんな地方の街道に?」


セレスティナが不安そうに窓の外を覗き込む。

騎馬隊の先頭に立つ男は、リディアたちの馬車を取り囲むように馬を止めると、一枚の羊皮紙を高く掲げて冷酷に言い放った。


「王宮作法教師、リディア・グレイスだな。貴様に、王宮よりの『召還命令』が出ている。直ちに王都へ同行してもらう」

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