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第15話 祈りを眠らせる香

「あの平民上がりの小娘、そろそろ限界でしょう。次の礼拝で失態を演じれば、追放の口実が立ちますな」

「ええ。教会の象徴たる聖女に、泥にまみれた平民の血など不要。高貴な血筋の令嬢を据えねば、我々の面子が保てませんからな」

大聖堂の奥に設けられた豪奢な神官長の執務室で、高位の神官たちが下品な笑い声を響かせていた。


その密談は、ノックもなしに開かれた重厚な扉の音によって断ち切られた。


「……何者だ! ここは神聖なる神官長の——」

「神聖な場に、随分と俗悪な毒草の匂いが満ちていますね」


執務室に足を踏み入れたのは、黒いドレスに銀縁眼鏡の王宮作法教師、リディア・グレイスだった。

彼女の後ろには、静かな怒りを纏う近衛騎士レオンハルト、扇を固く握りしめたセレスティナ、そして獣人の少年ミロが続いている。さらにその後方には、顔面を蒼白にさせた聖女候補のノエルと、彼女を虐めていた貴族令嬢たちの姿もあった。


「な、何の真似だ! たかが作法教師が、神聖なる教会の決定に口出しする気か!」

「口出しではありません。王宮より派遣された教師として、聖女候補生たちの『祈りの作法』における重大な不正を正しに参りました」


リディアは冷徹な灰紫の瞳で神官長を見据え、ミロに目配せをした。

ミロは抱えていた分厚い数冊の帳簿を、神官長のデスクにドンッと置いた。


「先生、言われた通り資料室から匂いを辿って見つけてきたよ。こっちの紙からは、祭壇の香炉と同じ『眠り草』の匂いがする」

「き、貴様ら、教会の資料室に勝手に入りおって……!」

「泥棒ではありませんよ。不当な管理をされていた証拠を保全したまでです」


リディアは帳簿のページをめくり、一枚の羊皮紙を突きつけた。


「一つ。教会の『香料台帳』と『薬草の購入記録』。神聖なお香を購入したと見せかけ、その裏で大量の『眠り草』を裏市場から買い付けていた記録が残っています。

二つ。ノエル様の『祈祷記録』。彼女の神聖力が弱まり、祈りの途中で意識を失うようになった時期は、あなたがこの眠り草を購入し始めた時期と完全に一致しています」


「そ、それは偶然だ! その平民の小娘に、元々聖女の器がなかっただけの話だろう!」


神官長が顔を真っ赤にして喚くが、リディアは動じない。

彼女は最後に、ミロが祭壇の控室から回収した『清めの茶』が入ったカップを取り出した。


「三つ。あなたがノエル様に『神聖力を高める薬』と偽って飲ませていたこのお茶。ここから、強烈な眠り草の成分が検出されました」


決定的な証拠の三点揃い踏みに、神官長は言葉を失い、肥え太った体をソファーに沈ませた。


「あなた方は、平民であるノエル様を排除し、貴族の令嬢を聖女に据えるため、故意に毒を盛り、彼女の力を弱めていた。そして……」


リディアの冷たい視線が、部屋の入り口で呆然としている貴族令嬢たちへと向けられた。


「彼女たちがノエル様を『平民臭い』『無能だ』と見下し、孤立させるように仕向けた。令嬢たちの傲慢さを利用し、ノエル様を精神的にも肉体的にも追い詰めるための盤面を作ったのです」


「……っ!」


自分たちがノエルを虐めていたのは、高貴な身分としての当然の振る舞いだと思い込んでいた令嬢たち。しかし、実際には自分たちが神官たちの都合のいい駒として利用され、犯罪の片棒を担がされていたのだと気づき、彼女たちは扇を取り落として震え上がった。


セレスティナが、その令嬢たちへ向けて静かに告げた。


「あなた方は、大人たちに利用されていた被害者かもしれません。……ですが、自分より弱い立場の者を嘲笑い、踏みつけたその傲慢さは、あなた方自身の罪ですわ。自分の愚かさを、一生恥じて生きなさい」


かつて他者を見下していたセレスティナだからこそ言える、重く、厳しい言葉だった。令嬢たちは顔を覆い、その場に泣き崩れた。


「ええい、黙れ! 教会の権威を愚弄する気か! おい、こいつらを捕らえろ!」


神官長が自暴自棄になって叫び、教会の私兵たちが剣を抜いて執務室へなだれ込もうとした。

だが、その進路を塞ぐように、レオンハルトが無言で立ちはだかった。

彼は剣を抜いていない。ただ柄に手をかけ、鋭い眼光で私兵たちを睨みつけただけで、その圧倒的な死線に触れた男たちは一歩も動けなくなった。


「殿下、ここから先は危険です」


レオンハルトの低い声に、リディアは静かに頷く。そんな彼女に、レオンハルトはなおも続けた。


「あなたはいつも、剣より先に言葉で斬る。……では私は、あなたの背後に立ちます」


レオンハルトの絶対的な守護を受け、リディアは裁縫箱の中から純白の封蝋章を取り出した。

王族のみが持つ、白百合の巡察章。


「跪きなさい」


先ほどまでの教師の声ではない。王国を統べる者の血を引く、絶対的な支配者の響きが、執務室の空気を凍りつかせた。


「授業は終わりです。白百合巡察令により、この教会を王命監査下に置きます」


白百合の紋章を目にした神官長は、絶望に目を見開き、そのまま床へと崩れ落ちた。

私兵たちも武器を捨てて平伏する。

神聖なる名を騙り、少女の尊厳を踏みにじった腐敗した大人たちは、こうして王命という絶対の鎖によって縛り上げられた。


「ノエル様。もう、無理に起きていようとしなくてよいのです。ゆっくりお休みなさい」


リディアが振り返り、優しく声をかけると、ノエルはその場にへたり込み、大粒の涙をこぼした。

毒のせいではなく、自分の力が失われていなかったこと、そして自分を救い出してくれた者がいたことへの、深い安堵の涙だった。



◇ ◇ ◇



監査の事後処理が始まり、神官長たちが王都の警備隊に引き渡される中、リディアたちは押収した書類の確認を行っていた。


「先生、これを見てください」


セレスティナが、神官長のデスクの隠し引き出しから見つけた書類の束をリディアに差し出した。

それは、今年度の『聖女候補推薦名簿』だった。


「ノエル様を排除した後、神官長が繰り上がりで聖女に推挙しようとしていた貴族令嬢たちのリストです。ですが……この推薦状の発行元、教会ではありませんわ」


リディアが名簿を受け取り、その右下に押された紋章を確認する。

二本の剣が交差し、その上に黄金の冠が描かれた紋章。


「……金冠教育会」


リディアの灰紫の瞳が、剣呑な光を帯びて細められた。


ただの貴族の令嬢教育団体であるはずの金冠教育会が、なぜ教会の聖女選定にまで関与し、多額の賄賂とともに候補者をねじ込もうとしているのか。

彼らは社交界の婚約市場だけでなく、教会の権威すらも裏から操り、王国全土の令嬢たちを自分たちの都合の良いように配置しようとしている。


「……どうやら、わたくしたちの旅は、彼らにとって相当に『目障り』なようですね」


その時だった。

窓際で外の空気を嗅いでいたミロが、ハッと耳を立てて大聖堂の礼拝堂の方向を睨みつけた。


「先生! 気をつけて!」


ミロの緊迫した声に、レオンハルトが瞬時にリディアを背後へ庇う。


「さっきから、ずっと嫌な匂いがしてたんです。お香の匂いに紛れて、こっちの様子を窺う、血と鉄の匂い……!」


ミロが指差した先。

誰もいないはずの薄暗い礼拝堂の太い柱の陰で、黒い外套を深く被った何者かの影が、静かに身を翻して闇の中へと溶けていくのが見えた。


「金冠の密偵か……!」


レオンハルトが鋭く声を上げる。

これまでの地方貴族の腐敗とは違う。組織化された巨大な闇が、明確な悪意を持って『白百合』の動向を監視し始めていた。

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