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第52話 歴史に埋もれるプライド

 東プロイセンの深い森の奥深く。 

 鬱蒼とした木々に隠された総統大本営 ヴォルフスシャンツェの作戦会議室には、耐え難いほどの重苦しい空気が澱んでいた。

 換気装置の低い唸り音だけが響く密室の中で、将官たちは息を殺し、巨大なマホガニーの机に広げられた東部戦線の巨大な地図を見つめている。

 前線から届いたばかりの報告書を読み上げた参謀総長フランツ・ハルダーの声は、明らかな緊張に震えていた。


「……以上が、A軍集団からの報告です。我が軍はついにコーカサスの要衝、マイコープ油田地帯の占領に成功いたしました。しかし……」

 ハルダーはそこで一度言葉を切り、机の上座で神経質に鉛筆を弄っている『総統』――その実態は、本物とすり替わった影武者のパトリック――の顔色を恐る恐る窺った。

「しかし、撤退するソ連軍による徹底的な焦土作戦により、製油施設は跡形もなく爆破され、すべての油井には大量のコンクリートが流し込まれて完全に塞がれておりました。期待された原油の確保は……現状、絶望的です」


 その瞬間、パトリックの顔が醜く歪み、手にしていた鉛筆をへし折って地図の上に叩きつけた。

「無能どもめッ!!」

 金切り声のようなヒステリックな怒声が、コンクリートの壁に反響する。

「なぜもっと早く進撃できなかった! 貴様ら将軍どもがぐずぐずしているから、ボリシェヴィキの鼠どもに破壊する時間を与えたのだ! いいか、マイコープとグロズヌイの石油を手に入れなければ……そもそも、石油が欲しいのはお前らでは無かったのか!」


 唾を飛ばしながら喚き散らすパトリックの言葉に、参謀総長をはじめとする将軍たちは、暗澹たる思いで視線を伏せた。

 補給線が限界を超えて伸び切っている中での無理な進撃を命じたのは、他でもない彼自身である。

 それをすべて前線の指揮官の責任に転嫁する姿は、もはや見慣れた絶望の光景となっていた。

 

 だが、その直後にパトリックの口から飛び出した言葉は、巨大な作戦会議室に居並ぶすべての将官……とりわけ技術将校たちに、鼓膜と正気を同時に疑わせるものだった。


「コンクリートで塞がれたから何だと言うのだ。なぁ? 少しは頭を使え、バカども。ワインの瓶のコルクを抜くように……巨大なコルク抜きのような機械を作って、そのコンクリートの栓を引っこ抜けばいいではないか!」

 彼は本気で、苛立ちに顔を歪めながらそう言い放ったのである。

 直後、会議室は水を打ったような完全な静寂に包まれた。誰かの軍靴の踵が床を擦る微かな音さえ、不気味なほど大きく響く。

 そんな凍りついた沈黙の中、ヘルマン・ゲーリング国家元帥だけが、ポン、ポンと肉厚な両手を叩きながら満面の笑みで声を上げた。

「さすがは総統閣下ですなぁ。天才は思いつくところが違うのです。その深謀遠慮、我々には到底及びません!」

 彼一人だけが、白々しい拍手と共に、その狂気の妄言を仰々しく讃えていた。


 技術将校たちは、自らの耳が幻聴を捉えたのかと互いの顔を見合わせた。

 彼らの顔からは血の気が引き、蒼白になっている。

 数千メートルもの地下深く、大地の底へと続く鋼管の井戸である。

 そこに流し込まれ、岩脈のように完全に硬化した数百トンのセメントを「巨大なコルク抜きで引き抜く」などと。

 

 それは物理学的にも工学的にも狂気の沙汰であり、幼稚園児が砂場で語る空想のような妄言であった。

 摩擦係数や質量の概念すら欠落している。


(……一体、どういうことだ?)

 参謀総長フランツ・ハルダーは、胃の腑に冷たい鉛の塊を飲み込んだかのような、重く鈍い吐き気を感じていた。

 軍服の襟足を、じわりと冷や汗が伝い落ちる。

 かつての『総統』は、断じてこのような無知で愚鈍な男ではなかった。

 

 すべての軍事事象、新兵器の口径から装甲の厚さ、果てはセメントの硬化時間や土木工法に至るまで、専門家であるはずの技術将官たちすら舌を巻くほど、病的なまでに数字と知識を知り尽くしていたはずだ。

 かつて、総統は若き日に建築家を夢見ていた男である。

 建築や土木に関するその異常な執着と造詣の深さは、党内でも語り草であった。

 独学で建築書や都市計画の専門書を文字通り読み漁り、古典建築やローマ建築に関して大学教授にも劣らぬ深い知識を身につけていたヒトラー総統。

 お抱えの天才建築家であるアルベルト・シュペーアを相手に、巨大な新首都の設計図を広げては深夜から夜明けまで熱弁を振るうことなど日常茶飯事だった。


 一九四〇年、陥落させたパリの街を視察した際のエピソードは殊に有名だ。

 総統は現地のフランス人案内人を差し置き、オペラ座をはじめとするパリ市内のあらゆる建築物の設計者の名や建築年代、構造の細部に至るまでを完璧に暗記しており、まるで自らが設計したかのように流暢に語って見せたのだ。


 それほどの並外れた記憶力と工学的知識を持っていたはずの男が、今、目の前で「コルク抜きでコンクリートを引き抜け」などという荒唐無稽な寝言を真面目に喚いている。

 ハルダーの眼に映るヒトラーの姿が、得体の知れない怪物のようにブレて見えた。

 この会議室にいる将軍たちは、目の前で唾を飛ばしている男が本物の総統とすり替わった『偽物』であることには気づいていない。


 だからこそ、天才的な頭脳を持っていたはずの主君の異常な変貌を前に、彼らの行き着く論理的帰結はただ一つしかなかった。

(総統は、狂い始めたのだ……極度の重圧により、完全に精神の均衡を崩されたのだ)

 ハルダーだけではない。

 息を殺して俯く将軍たちの間に、その決定的な定説が、絶望という名の冷たい感染症のように、確かな手触りをもって広がり始めていた。

 ドイツの運命を握る絶対権力者の脳髄が、今まさに腐り落ちようとしている。

 その静かな恐怖は、前線から届くどんな敗報よりも恐ろしい事実として、将軍たちの心を重く黒く塗り潰していった。


 大本営での狂態とは裏腹に、国内の宣伝省は湧き返っていた。

 宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルスの手によって、華々しいニュースがラジオと映画館のニュース映画を通じて全ドイツ国民に届けられていたのだ。

『大ドイツの雄姿を見よ! 我が誇り高き山岳猟兵部隊が、ヨーロッパ最高峰、標高五六四二メートルのエルブルス山の頂に、輝かしきハーケンクロイツ(鉤十字)の軍旗を打ち立てました!』


 それは、コーカサス山脈を進撃する山岳師団の兵士たちが成し遂げた、文字通りの『頂点』だった。

 彼らは登山の専門家集団であり、猛吹雪と極寒という過酷な自然環境を克服してヨーロッパの頂を征服することは、部隊の技術的・精神的な達成を証明し、大ドイツ帝国の優位性を視覚的に世界に示す最高のアピールであった。


 国民がその偉業に熱狂し、前線の士気も高揚するはずだった。

 しかし、そのニュース映画を見たパトリックは、執務室で顔を真っ赤にして激怒していた。

「馬鹿馬鹿しい! 兵士がのんきに山登りなどしている場合か! 私は石油と都市を獲れと命じたのだ! 誰がアルピニストの真似事をしろと言った!」


 プロパガンダとしての強力な効果を理解できない偽総統は、その怒りの矛先をA軍集団司令官ヴィルヘルム・リスト元帥へと向けた。

「リストの奴め……私の命令に背いて遊んでいるのか……」

 総統のヒステリーを文書化し、自らの権力を強固なものにしようと暗躍する党官房長マルティン・ボルマンの手によって、軍の指揮系統は音を立てて崩壊し始めていた。


 パトリックの呟きはボルマンの手により、すぐさま『総統令 解任辞令』と化して発布される。

 理不尽極まりない理由による司令官の解任劇。


 次に、パトリックの狂った執着は、一つの都市へと完全に固定された。


『スターリングラード』


 ソ連の最高指導者の名を冠した、ヴォルガ川西岸の工業都市である。

「聞け、将軍ども。スターリングラードは完全に灰にしろ! 民間人もろとも焼き払え! 劣等種のスラブ民族など、何万人焼こうが構わん! 徹底的な恐怖を与え、スターリンの名のついた街を地上から抹消するのだ!」

 机を拳で叩きながら命じられたその狂気の命令に、異議を唱えることのできる将官はすでに誰もいなかった。

 反対すれば、リスト元帥のように即座に更迭される。

 下手をすればゲシュタポに引き渡されるかもしれない。

 軍事的合理性は完全に失われ、ただ「総統の狂った意思」だけが進撃の理由となっていた。


 一九四二年八月二十三日。

 ヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェン上級大将が指揮する第4航空艦隊(Luftflotte 4)の、総力を挙げたスターリングラード大空襲が開始された。

 空を真っ黒に覆い尽くすほどの、爆撃機の群れ。

 Ju 87 スツーカ急降下爆撃機の切り裂くようなサイレンの絶叫と、He 111 双発爆撃機の重低音が、夏の青空を恐怖で塗り潰す。

 約一六〇〇回に及ぶ前代未聞の反復出撃により、一日で一〇〇〇トン以上の爆弾と焼夷弾が、スターリングラードの市街地に雨あられと降り注いだ。


 ――ドォォォォォォォンッ!!

 凄まじい爆風と熱線が、美しい木造建築の建ち並ぶ市街地を一瞬にして焦熱地獄へと変える。

 逃げ惑う民間人の頭上に容赦なく焼夷弾が降り注ぎ、生きた人間が炎の柱となってアスファルトの上に倒れ込んでいく。

 逃げ場を失った人々がヴォルガ川へと飛び込むが、水面に流れ出した燃料に引火し、川そのものが真っ赤な炎の帯となって燃え盛っていた。


 軍事施設だけではない民間人をも虐殺するための爆撃……数万人規模の非人道的無差別殺戮。

 これは、フリードリヒ・パウルス大将率いる第6軍の市街地突入を支援するための「戦術的爆撃」として実行されたものだったが、その根底には間違いなく、偽総統の「スラブ民族を焼き払え」という憎悪が渦巻いていた。


 空から降る圧倒的な死の雨を背に、第6軍の先鋒部隊はついにヴォルガ川の岸辺へと到達した。

 燃え上がるスターリングラードの市街地を見下ろしながら、前線の将兵たちの間には、危険なまでの楽観論が蔓延していた。

「見ろよ、あんな火の海だ。まともに息をしているロシア兵なんて残っていないさ」

「ああ。総統閣下の言う通りだ。あと数日もすれば、この街は完全に落ちる。そうすれば俺たちは英雄として故郷に帰れるぞ」


 彼らは知らない。

 その燃え盛る瓦礫の山こそが、数百万の命を飲み込む「青黒い零下の炎が渦巻く地獄の入り口」であるということを。


 同時期、八月下旬。

 スターリングラードの南方、広大なステップ(平原)では、巨大な土埃の柱がいくつも空へと立ち昇っていた。

 ドン川を越えて急進撃を続ける、ヘルマン・ホト上級大将率いる第4装甲軍である。


 マイバッハ・エンジンの荒々しい咆哮を響かせ、長砲身のIV号戦車が、ソ連軍の防衛線を次々と粉砕しながら東へ東へと突き進む。

 彼らもまた、万の遺骸が燃え盛るスターリングラードへと向かっていた。

 その鋼鉄の獣群の先頭には、部隊を率いるハインリヒ・シュミット中佐の乗る指揮戦車があった。

 キューポラから身を乗り出し、熱風と硝煙の混じる風を顔に受けながら、彼は双眼鏡で遥か彼方に立ち昇る巨大な黒煙の柱を冷徹に見つめていた。


「……計算通りに、すべてが進んでいる……このままでは祖国の滅亡が待っている……」


 シュミットの脳内で弾き出された『破滅の数式』。

 軍は今、最悪のタイミングで、最悪の防衛線へと頭から突っ込もうとしている。

 秋の泥濘と、凍てつく冬がすぐそこまで迫っていることも忘れて……。


 ベルリン市街の南西に位置する高級住宅街、ダーレム。

 戦火の喧騒から隔絶されたかのような静寂に包まれたこの街は、古くから政府高官や富裕層の邸宅が立ち並ぶエリアである。

 深夜、冷たい雨が石畳を濡らす中、街灯の届かない影に沈む壮麗な別宅の一室で、三人の男が重苦しい沈黙を共有していた。


 分厚い遮光カーテンが引かれた書斎。

 部屋には上質な葉巻の煙と、クリスタルグラスに注がれた年代物のコニャックの芳醇な香りが漂っている。

 しかし、壁の大きな柱時計が刻む規則的な秒針の音だけが、彼らの焦燥を煽るように響いていた。

「……ようやく、真に信頼できる人物たちが集まった。軍の内部でも、我々に賛同する将軍たちは着実に増えている」

 アプヴェーア(国防軍情報部)長官、ヴィルヘルム・カナリス大将が、深い皺の刻まれた顔を葉巻の煙の向こうに覗かせながら、静かに口を開いた。

 百戦錬磨の諜報機関のトップである彼の声には、深い疲労と、それ以上の確固たる決意が滲んでいた。

「君たち二人の告発と協力により……もしかしたら、我々はこの狂った歯車を止め、ドイツを救えるかもしれない。これから君たちがやるべき事は……」


「分かっているよ、提督」

 カナリスの言葉を遮るように答えたのは、総統専属医であるテオドール・モレルだった。

 ヒムラーやボルマンから「ヤブ医者」と陰口を叩かれ、卑屈な愛想笑いを浮かべている恰幅の良いこの男の顔に、今夜ばかりは底知れぬ凄みが宿っていた。

「出来る限り、あの偽ヒトラー(パトリック)の動向と体調の変化を探る。連絡は急がない。アプヴェーアの通信網に綻びを出さないためにな……。そして、最終的にどんな破滅的な結末を迎えようとも、『偽総統など初めから居ない。本物の総統閣下が、重圧により完全に狂われたのだ』と、カルテに書き記せばいいんだろう?後世にも残るようにな……」


「その通りだ。歴史の真実すらも欺く、完璧なカバーストラクチャーが必要になる」

 カナリスの同意に、隣の革張りソファに深く腰掛けていた軍需大臣、アルベルト・シュペーアが、苛立たしげにコニャックのグラスを揺らした。氷がカランと冷たい音を立てる。

「ああ……私も、プレスや党の連中にはいつもそのように答えているよ。宣伝省が……いや、あの『偽物』自身が喜ぶようにな。芸術も建築の基礎すらも理解できぬ無教養な豚を、天才と褒めそやすのは反吐が出るがね」


 シュペーアの端正な顔が、屈辱と怒りで歪んだ。

 かつて、本物の総統と深夜まで建築の夢を語り合った彼にとって、あの偽物の傍に仕え続けることは、自らの知性とプライドを引き裂かれるに等しい拷問であった。


「ゲッベルスは……宣伝大臣は気がついていないのか?」

 カナリスが探るように尋ねると、シュペーアは鼻で笑った。

「あの悪魔のように聡明な男が、気が付かないわけがないだろう。あの男も……ヘルマン・ゲーリング国家元帥殿もな。彼らが何を考えているか、本気で分からないとでも?」


「そんな深い思想などあるものか」

 吐き捨てるように言ったのはモレルだった。彼の丸い眼鏡の奥の瞳が、侮蔑に冷たく光る。

「ヒムラーとボルマンが裏で糸を引き、この巨大な入れ替わり劇を主導しているのは、彼らから見ても明白だろう。だが、ゲッベルスもゲーリングも、それを告発する気など毛頭ない。つまりは『自らの既得権益と地位』さえ守れれば、本物だろうが偽物だろうが、話を合わせ続けるだけなのさ。あの偽物を神輿に担いでおく方が、彼らにとっては都合が良いんだ」

 モレルの鋭い指摘に、シュペーアも無念そうに唇を噛み締めた。


 帝国を導くべき最高幹部たちは、すでに国を救うことよりも、泥舟の中で自分の特等席を守ることに汲々としている。

 その利己的な沈黙こそが、偽総統の暴走を許し、前線で何十万という兵士たちを無意味な死へと追いやっているのだ。

二人の顔に浮かんだ深い絶望と無念を、カナリスは静かに見つめていた。


「……いずれ、我らの同志が血を流して命を懸ける日が来る」

 カナリスはグラスをテーブルに置き、二人の目を見据えて言った。

 

 その声は、まるで予言のように書斎の空気を震わせた。

「君たち文官は、決して彼らを直接助けようとしなくていい。ただ、彼らの起こす行動の結果を見届けて、歴史の闇の中で讃えてやってくれ。……時が来たら、その命を散らす中には、私自身が含まれているかもしれんがな」

 最後の方は、ほとんど独り言のような小さな呟きとして、雨音の中に消えていった。


 反ヒトラー派の将校たちによる暗殺計画、そしてクーデター。

 もしそれが失敗すれば、諜報の元締めであるカナリスとて無事では済まない。その凄絶な覚悟が、言葉の端々から滲み出ていた。


 沈黙が降りた直後、モレルがぽつりと呟いた。

「私の勝手だがな……提督」

 カナリスとシュペーアの視線が、恰幅の良い医師に集まる。モレルは自らの太い指先を見つめながら、どこか哀しげな声で続けた。

「奴の要望通り、メタンフェタミン(覚醒剤)をはじめとする薬を、毎日欠かさず静脈に打ち込んでやっているよ。『総統の激務に耐えるため』という大義名分のもとにな」


「……モレル、それは……」

 シュペーアが息を呑んだ。


 それはつまり、意図的な薬物過剰投与による、緩やかな暗殺に他ならない。

「おそらくはいずれ死ぬだろう。寿命よりは、ずっと早くにな。あの偽物……奴の内臓は、私の投与した薬物の毒でボロボロに崩れ始めているはずさ」

 モレルの唇の端が、微かに、そして残酷に吊り上がった。


「自分の身をあまり危うくするなよ、モレル先生」

 カナリスが、心配と敬意の入り交じった声で忠告する。

 もしボルマンにその意図を悟られれば、モレルは即座にゲシュタポの拷問室送りとなるだろう。


「私が勝手にやっていることさ……。誰に命令されたわけでもない」

 モレルはゆっくりと立ち上がり、窓の外の暗い雨を見つめた。

 『本物の総統』は絶対的に信頼し、自分を引き立ててくれたのだ。

 その恩義を、この凡庸な医師は決して忘れてはいなかった……すでに矛盾がないように1936年からのカルテは全て改竄済みであった。

「私のような軍属ではない医者にだって……忠誠心というものは、あるのだからな」


 静かな、しかし確かな殺意と忠誠が込められたその言葉は、冷たい雨の降るダーレムの夜の闇に、深く、重く吸い込まれていった。

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