第51話 新たな希望
「左翼の森に敵対戦車砲陣地!前方に敵戦車の群れ!T-34です!数、およそ三十!」
ノイズ混じりの無線機から、前衛の偵察車両による悲鳴のような報告が飛び交う。
硝煙と燃え盛る鉄の臭い、そして兵士たちの脂汗の匂いが充満する戦場は、すでに常人であれば正気を失うほどの狂騒に包まれていた。
だが、大隊本部を預かる指揮戦車――兵器局から最優先配備されたIV号戦車F2型プロトタイプのキューポラから身を乗り出した大隊長、ハインリヒ・シュミット中佐の眼差しは冷徹だった。
吹き付ける熱風と、眼球を焼くような硝煙。飛び交う曳光弾の恐るべき光の軌跡。
常人には死の混沌にしか見えないその光景すらも、今のシュミットには、全てが流体力学と幾何学で構築された『物理法則のベクトル』として見えていた。
(敵の陣形は右翼が厚い。数の暴力で我々の突撃の軸線をへし折る気か。……だが、地形の起伏を計算すれば、あの右翼の稜線からの砲撃は射線が通らない。絶対的な死角が生まれる)
額と頬に刻まれた榴弾の傷跡に微かな汗を滲ませながら、シュミットの脳内で戦場の三次元マップが瞬時に構築され、無数の変数が弾き出されていく。
戦車大隊を巨大な演算装置に見立て、神がかった計算で戦場全体を支配する彼の方程式。。
「クライン、各中隊へ指示を出せ」
シュミットの呟きのような戦術指示を、車内の通信席に陣取る大隊副官、フランツ・クライン中尉が即座に大隊全車に伝達する。
「バウアー! 第2、第3、第4中隊へ打電!」
「ヤヴォール(了解)!」
過労で目の下に濃いクマを作った無線手のフリッツ・バウアー軍曹が、ショカコーラを噛み砕きながら両耳のヘッドホンを押し当て、増設されたシュテルン(星型)アンテナを通じて、シュミットの意思を瞬時に無線機に叩き込む。
大隊規模の戦術機動が、完璧な連動をもって開始された。
「第2中隊、シュタイン! 貴様らは右の稜線でハルダウン(車体隠蔽)!敵の進路を中央へ限定させる盾となれ!」
『了解! 我々から見れば敵の装甲は紙も同然です!』
「生存本能の塊」として遅滞戦闘に天才的な手腕を見せるヨハン・シュタイン少尉率いる第2中隊。
彼らの駆るF2型とIII号突撃砲混成の群れが、すかさず稜線の裏側に滑り込み、砲身だけを突き出した。
一発の無駄弾も撃たず、ソ連戦車の履帯や砲塔リングを正確に削り取る防衛陣が完成する。
「第3中隊のグリム! 貴様らはいつも通り、好きに動け! 敵の左翼をかき回せ!」
『任せてください中佐! 盛大な玉突き事故を起こしてやりますよ!』
アルフレート・グリム少尉の率いる第3中隊が、常識外れの変則機動で突進を開始し、敵の統制を無惨に引き裂いていく。
これまでの彼は、ただ神に愛されたかのような「運」だけで敵を混乱に陥れてきた。
しかし、数々の死線をその強運で乗り越え続けたことで、今の彼には「自分がこう動けば、敵はこう反応して勝手に崩壊する」という戦場の法則が、確かな肌感覚として見え始めていた。
シュミットが万物を『数式』で演算するのに対し、グリムは『野生の直感』で戦車の機動の最適解を弾き出し始めていたのである。
それは間違いなく、類稀なる戦車エースだけが持つ恐るべき資質であった。
「第4中隊、シュナイダー大尉! 左翼の森の対戦車砲陣地を制圧していただきたい!」
『喜んで! シュミット中佐の神算鬼謀、この私が完璧に体現してみせよう!』
旧第2戦車大隊から中隊ごと引き抜かれ、シュミット直属となったカール・シュナイダー大尉が、見事な挟撃機動で森の陣地を制圧しにかかる。
彼に従うMarder IIIの76.2ミリ砲と、新型機関銃MG42の布を引き裂くような毎分一二〇〇発の絶叫が、ソ連兵の対戦車陣地を容赦なく肉片に変えていった。
各中隊の配置が完了し、T-34の群れは、シュミットが描いた「十字砲火のキルゾーン」へと完璧に誘い込まれた。
「――チェックメイトだ。ハルト、我々に続け」
『ヤヴォール! シュミット中佐の数式通りに! 全て撃破します!』
狂信的なまでの忠誠を誓う第1中隊長、ヴィルヘルム・ハルト少尉が続く。
大隊の矛として、全車両が新型の長砲身IV号戦車F2型で統一された最強の打撃集団が、ついに牙を剥いた。
「カール、前へ。サスペンションが軋む限界まで踏み込め」
「ヤヴォール! 振り落とされないでくださいよ、中佐!」
操縦手のカール・シュミット特務曹長が、長砲身の搭載で前部重量が増加し、バランスの悪くなったF2型の限界を完璧に見切った神業のクラッチワークを見せる。
履帯が狂ったように土を掻き、指揮戦車は物理法則の限界スレスレの機動で敵の死角へと回り込んだ。
距離は二〇〇〇メートル。
かつての短砲身では、あるいは既存のIII号戦車の50ミリ砲では、絶対に撃ち抜けない絶望の距離である。
しかし、今の彼らにはそれがあった。
43口径7.5cm戦車砲 KwK 40 L/43。
そして、薬室に装填された被帽付徹甲榴弾 PzGr.39。
「ベルガー。目標、敵先頭車両。T-34の傾斜装甲ごとブチ抜け」
「……距離二〇五〇。風力三、東。砲身仰角、修正完了」
『死の時計職人』の異名を取る砲手、ハンス・ベルガー少尉が、ツァイス製照準器のレティクルをT-34の車体前面、ドライバーズハッチの僅かな隙間にピタリと合わせた。
彼の脳内では、PzGr.39が傾斜装甲に命中した瞬間にキャップ(被帽)が潰れ、装甲に喰い付き、跳弾を防ぎながら貫徹する弾道が完璧に描かれている。
「フォイア!」
――ズドォォォォン!!
IV号F2型の長砲身から放たれた初速の速い徹甲弾が、空気を引き裂きながら飛翔する。
二キロ先のT-34が誇る傾斜装甲に命中した瞬間、PzGr.39は設計通りの恐るべき貫徹力を発揮した。
分厚い装甲を紙屑のようにブチ抜き、車内へ突入した弾頭内部の炸薬が起爆する。
直撃を受けたソ連戦車は、内部の砲弾に誘爆し、重さ数トンもある砲塔を天高く吹き飛ばしながら、巨大な火柱を噴き上げた。
「次! 方位一・一・〇! ハルト中隊、一斉射撃!」
シュミットの命を受け、第1中隊のF2型が横一列に展開し、アウトレンジからの凄まじい砲撃を開始する。
T-34の76.2ミリ砲が有効射を叩き込めない安全圏からの一方的な屠殺。
敵の反撃の砲弾は虚しく手前の土を跳ね上げるだけであり、シュミット大隊の放つ長砲身の徹甲弾は、次々とT-34の装甲を貫き、ソ連戦車兵たちを鉄の棺桶ごと焼き尽くしていった。
一切の無駄がない。
一切の感情がない。
シュミットの戦術は、もはや戦術という枠を超え、戦場の三次元空間の物理法則そのものを書き換えるような、冷徹極まる『戦車の方程式』そのものだった。
わずか二十分。
ソ連戦車三十両の残骸から濛々と黒煙が立ち昇り、シュミット大隊の損害は「ゼロ」であった。
ソ連兵の絶叫と燃え盛る鉄の残骸を置き去りにして、シュミットの部隊はさらに東へと加速していく。
驚くべき進撃速度で進むのはシュミット大隊だけでは無い。
この時期のドイツ装甲部隊の進撃速度は異常の一言に尽き、一日に数十キロ前進することも珍しくなかった。
その先頭で、顔をオイルと泥で真っ黒に汚しながら、無表情で完璧な演算を続けるシュミット中佐。
そして、戦場を計算し尽くして敵を蹂躙していく彼の目覚ましい活躍を見て、味方の戦車兵たちは畏怖と敬意を込めて、いつしか彼のことをこう渾名し始めていた。
――――『戦車の神』と。
第199大隊の鎌を模した特徴的なエンブレムを見た兵士達は歓喜するのだ。
圧倒的な勝利。
歴史的な大進撃。
全軍が「勝てる」という熱狂の渦に包まれて東へ東へと突き進む中、戦車の神と呼ばれる男だけは知っていた。
この輝かしい快進撃が、やがて玉座の狂人が命じた『冬のロシア』という名の地獄のすり鉢へ向かっての、一直線の死の行軍であることを。
(分厚い防衛線に正面からぶち当たれば、必ず進撃速度はゼロになる。そこに秋の泥濘期が重なれば……それはそのまま、最悪の『冬』を迎えることを意味する)
それは感情論ではない。冷徹な気象と兵站の計算が弾き出した、逃れようのない破滅の方程式であった。
『スターリングラード』――それは人類史に深く刻まれる事になる、絶望そのものである。
その名はまだ表舞台には出てきていない。
一方、ベルリン郊外。
三日月の青白い光が照らし出す暗い街並みの中で、シュミット邸の居間だけは、温かなオレンジ色のランプの光が小さな安らぎの空間を作り出していた。
夫が手作りした小さめの机に向かうリーゼロッテ・シュミット中佐夫人は、何度も何度も便箋に万年筆を走らせては、ため息と共にもみくちゃにして屑籠へと放り投げていた。
インクの匂いが、夜の静寂の中に漂っている。
「……違うわ。これじゃあ、なんだか事務的……」
彼女の夫であるハインリヒ・シュミットは、世界を数学と物理で読み解く極端な合理主義者だ。
だからこそ、この人生で最も大切な『報告』をどう伝えればいいのか、彼女はずっと悩んでいたのだ。
再び真新しい便箋を取り出し、深く息を吸い込む。
ペン先が紙を擦るカリカリという微かな音が、部屋の柱時計が刻むチクタクという音に重なった。
愛する貴方へ
今日は、貴方の完璧な計算式にもおそらく入っていなかったであろう、とても大事な報告があります。
安心して。
貴方のお気に入りのお皿を割ってしまったとか、そういう話じゃないのよ。
ちょっと前に割っちゃったけど。
そこで一度ペンを止め、リーゼロッテは自身のまだ平らなお腹をそっと撫でた。
自然と、愛おしさに満ちた笑みがこぼれる。
赤ちゃんが出来ました。
喜んでくれるかな?
名前の候補は、ぜひこの手紙のお返事で、貴方の頭脳を使って一緒に考えて欲しいです。
ねえ?
嬉しいですか?
もし少しでも嬉しいと思ってくれたなら、すぐにお手紙をくださいね。
夫のあの不器用な、額の傷を歪めて照れる顔を想像しながら、リーゼロッテは筆を進める。
実を言うと、一人でこの家にいるのが少し心細くなってしまったの。
だから、貴方が戦場から落ち着いて帰ってくるまで、お兄ちゃんの家にお世話になろうと思います。
貴方も知っての通り、私の両親はもう居ないでしょう?
お兄ちゃん本人も空軍で家には居ないのだけれど、奥さんのエルゼさん……私のお義姉ちゃん知ってるよね、「ぜひ来てください」って言ってくれたの。
三歳のイルゼと、四歳のマリアちゃんも一緒よ。
きっと賑やかで楽しい毎日になると思うわ。
それに、ベルリンはお友達も少ないし。
ドレスデンはとても良いところらしいわ。
戦争が落ち着くまでは、そこに居ようと思うの。
新しい宛先は、ここに書いておきますね。
貴方もちゃんと、無事を知らせる手紙を書いてくださいね。
ハイン愛しています。
リーゼロッテは、ひどいクセ字で新しい滞在先を書き添えた。
『シュルンフェルダー・シュトラーセ 218 ドレスデン』
彼女は文章を書くのが苦手だった。
だが、この人生最高の知らせだけは、どんなに不器用な言葉であっても、愛する夫へ真っ直ぐに届けたかったのだ。
何度も悩み、書き直しては屑籠へ丸めて捨てるのを繰り返し……このたった一通の手紙を書き上げるのに、彼女は三日もの時間をかけてしまった。
便箋を丁寧に折りたたみ、封筒に入れて糊付けをする。
封を終えた瞬間、彼女の顔にたまらなく幸せそうな笑顔が溢れた。
これで、家を長期間空ける準備はすべて整った。
明日、朝の汽車でドレスデンへと出発するのだ。
ふと、胃の奥から込み上げてくる不快感に、リーゼロッテは軽く口元を押さえた。
ここ数日、少しばかりつわりが辛い。
「……もう。ハインがここにいたら、不器用なりにずっと付きっきりで背中をさすってくれるのにな……」
誰もいない部屋で小さく呟いた愚痴には、夫への深い甘えと愛情が滲んでいた。
痛いほどに、彼に会いたかった。
あの分厚く無骨な手で、このお腹を撫でてほしかった。
リーゼロッテは立ち上がり、カーテンの隙間からそっと夜空を見上げた。
そこには、青白く澄んだ美しい三日月が浮かんでいた。
(……貴方も今、同じ月を見ているのかな)
はるか東方。
硝煙と血の匂いが立ち込める最前線の泥濘の中で、自らの命を削りながら戦っているのであろう夫の横顔を、彼女は無意識にその月へと重ね合わせていた。
彼女はまだ知らない。
夫が向かっている先が、『スターリングラード』という、大ドイツ第三帝国陸軍をすり潰す底なしの地獄であることも。
そして、お腹の子供を守るための安住の地として選んだ『ドレスデン』という美しい街が、やがて連合軍による、民間人に対する無差別爆撃に晒され、数万の無辜の民が凄惨な業火に焼き尽くされる運命にあることも。
ただ無邪気に、愛する夫からの返信と、新たに芽生えた命の未来を信じて。
若き妻は冷たい窓ガラスに額を寄せ、溢れる微笑みを抑えられなかった。




