第50話 絶望の中の希望
大ドイツ第三帝国において、巨悪を倒したという報が必ずしも正義の勝利を意味するわけでは無かった。
プラハで『金髪の野獣』ラインハルト・ハイドリヒが横死したという急報は、ベルリンの権力中枢において、悲哀ではなく「醜悪な歓喜」として密かに迎え入れられていた。
ハイドリヒという最大の競争者が盤上から消え去ったことを、自らの既得権益を強固にするための「これ幸い」な出来事として、徹底的に利用し始めた二人の男がいたからだ。
一人は、親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラー。
彼はハイドリヒを失ったRSHA(国家保安本部)を速やかに自らの完全な統制下に置いた。
「テロルに対する血の報復」という大義名分を得たヒムラーは、小動物のように怯える偽総統の承認を容易く引き出し、占領地域での警察権力と弾圧を無制限に強化し始める。
特筆すべきはラインハルト・ハイドリヒから受け継いだ悪魔の部隊である。
アインザッツグルッペン――それは、ハインリヒ・ヒムラーの悪意が組織という形を得た存在だった。
戦場の勝敗とは無関係に、人間を思想や民族だけで選別し、命を奪うことを目的として編成されたその部隊は、戦争の陰を歩く死そのものだった。
女子供関係なく効率よく虐殺するだけの部隊……。
自らの墓穴を掘らされた後、効率的に射殺され、乳児すら例外ではなかった。
銃声の届くたびに村は沈黙し、彼らの足跡は恐怖と喪失だけを残していく。
そこには軍事的合理性ではなく、憎悪を国家の意思へと変えようとしたヒムラーの冷酷な思想が色濃く刻み込まれていた。
武装親衛隊の部隊は国防軍の管轄を無視して野放図に拡大し、東欧の大地では絶滅収容所へ向けた凄惨な虐殺作戦が、まるで機械の歯車のように冷徹に加速していく。
もう一人は、党官房長マルティン・ボルマン。
彼は総統執務室へ続く廊下に、目に見えない強固な関所を築き上げていた。
「総統閣下への面会は、すべてこの私を通すように」
すでにボルマンは将軍たちを物理的に総統から遠ざけてはいたが、彼の肥大化する野心はそれだけでは飽き足らなかった。
彼は、偽総統がヒステリックに喚き散らす気まぐれな妄言を、自らの権力拡大に都合の良い『総統命令』へと巧妙に歪めて文書化し、平然と印章を押して全軍へばら撒き始めたのである。
帝国において絶対的な重みを持つ「総統命令」というシステムそのものを、彼は完全に私物化し始めていた。
さらに党内の人事権をも完全に掌握することで、帝国の行政と軍令の間に暗い影を落とす「真の独裁者」としての歩みを急速に進めていた。
ボルマンは、自分が総統になったかの様な優越感に浸っていた。
彼ら二人の黒幕にとって、暗殺者たちのテロルは、大ドイツ帝国を私物化するための極上の劇薬でしかなかったのである。
権力闘争の泥沼から遥か数千キロ東。
初夏の日差しが照りつけるウクライナの広大な平原には、乾いた土埃とガソリンの重い匂いが立ち込めていた。
東部戦線のドイツ軍各部隊には、六月下旬に向けて、次々と新型の『鋼鉄』が運び込まれていた。
シュミット中佐が率いる第199独立特務戦車大隊の野営地にも、貨車から降ろされたばかりの真新しい車両が並んでいる。
軍団全体に装備の刷新が少しずつ進み始めていた。
主力となるIV号戦車は、これまでの短砲身から、ソ連軍のT-34を正面から撃ち抜ける長砲身の43口径75ミリ砲を備えた「F2型」へと更新され、III号戦車も前面装甲を強化された「L型」へと更新が進んでいた。
だが、前線の兵士たちの視線を最も釘付けにしていたのは、野営地の片隅で試射を行っている二つの奇妙な新型兵器であった。
「……見ろよあれ、上が重すぎて今にも前のめりにひっくり返りそうじゃないか」
兵士の一人が、呆れたような声を上げる。
彼らが指さしているのは、対戦車自走砲Marder III。
それは、時代遅れになったチェコ製の38(t)軽戦車の車体の上に、ソ連軍から大量に鹵獲した強力な76.2ミリ野砲を、文字通り「無理やり乗っけただけ」のアンバランスな代物であった。
「おいおい、装甲って呼べるのは、砲の周りにある薄っぺらい鉄板だけだぞ」
「それに見ろよ。横や後ろは丸開きだし、雨が降ればズブ濡れだ」
「本当だぜ、榴弾の破片が飛んできただけで乗員は全滅するぞ」
歴戦の下士官達の評価は高いものでは無かった。
彼らの懸念は正しい。
防御力は皆無に等しいのだ。
だが、その「走る大砲」が標的の廃戦車に向けて火を噴いた瞬間、彼らの評価は一変した。
――ズドォォォン!!
凄まじい砲声と共に放たれた徹甲弾は、遥か遠方のT-34の分厚い前面装甲をあっさりと貫通し、車体を吹き飛ばした。
「なんて火力だ……」
「当たらなければどうということはない、ってわけか。アウトレンジから撃つ『ガラスの大砲』だな」
防御を完全に捨て、T-34の射程外から仕留める打撃力だけに全振りしたこの自走砲は、慢性的な対戦車火力不足に悩まされていたドイツ軍にとって、まさに干天の慈雨であった。
そしてもう一つ、歩兵たちを震え上がらせたのが、本格的な量産が開始され前線に届き始めた汎用機関銃――『MG42』である。
試射場に備え付けられた、プレス加工の無骨な銃。
引き金を引いた瞬間、周囲の空気が一瞬にして切り裂かれた。
――ブアァァァァァァァッ!!!
「なっ……!?」
これまでの機関銃が「ダ、ダ、ダ、ダ」という連続音であったのに対し、MG42が発する音は「布を力任せに引き裂くような」としか表現できない、凄まじい連続音であった。
その無骨なシルエットと、消滅する標的。
軍事など知るわけが無い民間人が見ても、その異常さは一目で理解できた。
特筆すべきはその圧倒的な発射速度である。
毎分およそ一二〇〇発。
つまり、一秒間に二十発の弾丸を吐き出しているのだ。
人間の耳には銃声が一つの連続した音にしか聞こえない。
「信じられん。敵の歩兵が銃声を聞いてから地面に伏せるまでの間に、十発の弾丸が身体を貫いている計算だぞ……」
「弾薬がすぐ無くなるぞ。大丈夫なのか?」
あまりの連射速度ゆえに銃身はすぐに焼け付いてしまうが、設計の妙により、銃身の交換は側面のハッチを開けてワンタッチで数秒で行うことができる。
のちに連合軍の歩兵たちから『ヒトラーの電動ノコギリ』と恐れられることになるこの傑作機関銃は、歩兵戦の概念を塗り替える制圧力を秘めていた。
増強される戦車、強力な自走砲、圧倒的な機関銃。
これらの兵器の充実と、五月の完全な勝利の余韻が相まって、東部戦線のドイツ軍の士気は最高潮に達していた。
「一九四二年の夏は、絶対に勝てる」
将校たちの間には、そんな楽観的な空気が蔓延し始めていた。
だが、六月二十八日の夜明け前。
作戦開始を目前に控えた第4装甲軍の野戦司令部で、暗闇の中で葉巻を燻らせる二人の男の表情だけは、分厚い氷のように冷え切っていた。
司令官のヘルマン・ホト上級大将と、シュミット中佐である。
「皆、夏には勝てると浮き足立っていますが……おそらくは勝てません」
シュミットは、広げられた地図の上で、コーカサス油田とスターリングラードという二つの目標を指差しながら、感情を交えない冷淡な声で言った。
「夏は勝てるでしょう。しかし、ソ連という巨大な数式は夏だけでは解ききれません。冬になれば、またすべてが凍てつく。全ての装備の冬季対応を今すぐ進めるか、あるいは明確に冬季に入る前に侵攻を停止して強固な防衛線を構築する準備が必要です……。にもかかわらず、戦力を二方面に分散させ、スターリングラードという強固な市街地の防衛線に正面からぶつかるなど、軍略としては愚の骨頂……少し兵站の計算をすれば、子どもでも破綻すると分かるはずです」
シュミットの容赦のない演算結果に、ホトは深く溜息をつき、紫煙を暗闇に吐き出した。
「……だろうな、中佐。俺も同意見だ」
ホトの眼には、指揮官としての重圧と絶望が宿っていた。
「しかしながら、俺は将兵の前では『必ず勝てる』と楽観的に振る舞い、軍を進めるしか無いのだ……。南方軍集団司令官のフェードア・フォン・ボック元帥も、中佐と同じことを言っていた。二方面作戦など愚かしいと嘆き、大本営に抗議しているが……あのベルリンの狂人どもの機嫌を損ねて、更迭されなければ良いがな」
「閣下。それでも、貴方に更迭されては困るのです」
シュミットは暗闇の中で、静かに、だが強い意志を持って上官を見つめた。
「グーデリアン閣下が失脚した今、ホト閣下まで更迭されるような事態になれば、我々装甲部隊は完全に素人の盤上の駒と化します。前線の将兵を少しでも生かして連れ帰るためには、閣下には何としてでもその地位に留まっていただかねばなりません」
「……ああ。ハインツが居ない今、俺まで更迭される訳にはいかないだろうよ。分かってるさ、中佐……」
勝てないと分かっている破滅の方程式。
それを証明しながらも、彼らは命令に従って軍を進めねばならない。
狂った玉座を破壊するための暗殺計画の準備が整うまでは、前線の兵士の命を少しでも多く繋ぎ止めるしかないのだ。
一九四二年、六月二十八日。
大ドイツ第三帝国軍による夏季大攻勢、『青作戦――ブラウ』が発動された。
目標は遥か東方のヴォロネジ方面。
ここから、世界の歴史を一変させる巨大な歯車が、すさまじい速度で回転を始める。
初日。
夜明けの空を切り裂く、数千門の砲兵部隊による準備砲撃の嵐。
大地を揺るがす爆発が収まるより早く、上空からは急降下爆撃機Ju 87スツーカのジェリコのラッパの絶叫が降り注ぎ、ソ連軍の陣地を正確に粉砕していく。
その爆炎が終わると同時に、黒煙の中を工兵部隊が駆け抜け、地雷原を爆破して突撃路を開く。
そして、ホトの第4装甲軍を中核とする装甲部隊が、ソ連軍の第一防衛線を紙屑のように引き裂き、広大なロシアの平原へと猛烈な縦深突破を開始した。
圧倒的な速度で展開される、これぞドイツ軍という完璧なブリッツクリーク(電撃作戦)。
しかし、この最初の突破劇において、シュミットの第199独立特務戦車大隊は意図的に後方へと「温存」されていた。
ホト上級大将は、自軍の最強の槍である彼らを、敵の防衛線を抜けた後の最も流動的な遭遇戦に投入するため、予備として待機させていたのだ。
六月二十九日。
東部戦線、ウクライナの広大なステップ(平原)。
マイバッハ・エンジンの重低音が大地を揺るがし、幅広の履帯が巻き上げる乾いた土埃が、抜けるような青空を黄色く濁らせていく。
ホト上級大将の直轄として意図的に温存されていた大隊が、ついに戦場の最先端へと解き放たれた。
第4装甲集団長直轄・第199独立特務戦車大隊――通称『シュミット大隊』。
指揮官の描く数式を完璧に体現し、これまで幾つもの難局を切り抜けてきたエース大隊。
それはまさに、シュミット自身の『巨大な演算装置』として鍛え上げられた、およそ七十両の鋼鉄の獣群である。




