第49話 正義の代償
一九四二年、五月二十七日。
ベーメン・メーレン保護領の首都、プラハ。
春の柔らかな陽光がヴルタヴァ川の水面を煌びやかに照らし、古都の石畳に美しい陰影を落としている。
しかし、その長閑な風景とは裏腹に、街全体は目に見えない重苦しい恐怖の鎖で縛り上げられていた。
この地を支配しているのは、たった一人の冷徹な男である。
RSHA(国家保安本部)長官にして、チェコ副総督。
『金髪の野獣』『プラハの屠殺人』と恐れられる男、ラインハルト・ハイドリヒ親衛隊大将。
プラハ市街の北部、ホレショヴィツェ通り。
ヘアピンカーブを形成するその曲がり角の電停付近で、二人の若者が息を殺して立っていた。
ヨゼフ・ガブチークとヤン・クビシュ。
イギリスの特殊作戦執行部(SOE)によって訓練され、パラシュートで祖国に潜入した暗殺部隊の工作員である。
ガブチークは、分厚いブリーフケースの中で冷たい鋼鉄の塊を握りしめていた。
イギリス製の短機関銃、ステンMk.II。
手汗で滑りそうになるグリップを強く握り直し、彼は大きく息を吐いた。
(来る……)
午前十時三十分。
遠くから、重厚なエンジンの唸りが近づいてくる。
護衛車両すらない、たった一台の黒塗りのメルセデス・ベンツ・タイプ320カブリオレ。
オープンカーの屋根は全開にされている。
ハイドリヒの傲慢なまでの絶対的な自信の表れであった。
「チェコの民衆は私に怯えきっている。テロなど起こせるはずがない」という傲慢。
そして、その『いつもの通勤ルートと正確な時間』という致命的な情報は、ベルリンのカナリス提督の意図的な黙認と手引きによって、すでにこの二人の若者の手の中へと渡っていた。
彼に弾圧され、処刑された数多の見えない亡霊達の怨念が、確実にハイドリヒの首元へと刃を突き立てようとしている。
メルセデスが急なヘアピンカーブに差し掛かり、運転手のクラインSS曹長がブレーキを踏み込んだ。
車体が大きく減速する。
「今だ!」
ガブチークがコートを翻し、道路のど真ん中へと躍り出た。
ブリーフケースからステンガンを引き抜き、後部座席でふんぞり返る金髪の野獣へ向けて銃口を突きつける。
距離はわずか数メートル。
外しようがない。
ガブチークは、祖国の怨念を込めて引き金を引いた。
――カチッ。
しかし鳴り響いたのは、乾いた金属音だけだった。
(っ……弾詰まり(ジャム)だと!?)
ステンガン特有の給弾不良。
最悪のタイミングで起きた機械的トラブルに、ガブチークの顔から血の気が引く。
この瞬間、ハイドリヒは選択を間違えた。
「車を出せ!」と叫び、全速力でこの場を離脱すれば生き延びたのだ。
しかし、彼の異常なまでの自尊心と傲慢さが、その選択をさせる事が無かった。
「止まれ! あのネズミを撃ち殺せ!」
ハイドリヒは運転手に停車を命じると、自ら立ち上がり、ホルスターからルガーP08を引き抜こうとした。
逃げるのではなく、自らの手で暗殺者を処刑しようとしたのだ。
車が完全に停止した。
それこそが、ハイドリヒの命運を分けた致命的な失敗であった。
「クビシュ!!」
ガブチークの絶叫と同時に、もう一人の工作員であるクビシュが背後から躍り出た。
彼の手には、対戦車手榴弾を改造した特殊な爆弾が握られている。
クビシュは渾身の力を振り絞り、停止したオープンカーへ向けてそれを放り投げた。
放物線を描いた手榴弾は、後輪のフェンダー付近で激しい閃光と共に炸裂した。
ズドォォォォン!!!
凄まじい爆発音がプラハの街を揺るがし、濃厚な黒煙が舞い上がる。
爆風によってメルセデスの車体右側が大きくひしゃげ、鋼鉄の破片が四方八方へと飛び散った。
「ぐあぁっ……!」
ハイドリヒの口から、くぐもった呻き声が漏れた。
一見して致命傷には見えなかった。
彼はよろめきながらも車を降り、拳銃を構えて数歩歩いた。
だが、次の瞬間、彼は崩れ落ちるように石畳へと膝をついた。
手榴弾の金属片だけではない。
爆発の衝撃によって引き裂かれた車のシートの馬毛、革の破片、そして座席のスプリングのワイヤーが、それぞれ鋭い凶器となって彼の背中から体深くに食い込み、脾臓を完全に破壊していたのだ。
数日後。プラハのブロフ病院。
最高峰の医師団が集められたものの、ペニシリンなどの抗生物質が普及していないこの時代において、不衛生な馬毛や革の破片が体内に深く入り込んだことによる敗血症は、死の宣告に等しかった。
激しい高熱と、全身を駆け巡る毒素。
帝国を内側から食い荒らそうとしていた『三巨頭』の一人は、自らの傲慢さが招いた手榴弾の破片によって数日間苦痛に苛まれた挙句、六月四日……ひっそりと、そして無様にこの世を去った。
大ドイツ第三帝国を蝕む癌細胞の、最初の一つが物理的に切除された瞬間であった。
ハイドリヒ暗殺の凶報は、直ちに東プロイセンの総統大本営『ヴォルフスシャンツェ(狼の巣)』へと届けられた。
分厚いコンクリートの壁に囲まれた総統執務室。
そこでは、信じがたい光景が繰り広げられていた。
「あり得ん……! 警備はどうなっていた! チェコのゲシュタポは何をしていたのだ!!」
玉座に座る偽総統が、顔を真っ赤に紅潮させ、手当たり次第に机の上の書類やインク瓶を床へと叩きつけていた。
怒りではない。
それは純粋な『恐怖』であった。
自らを神のように万能だと錯覚していた幼児は、ハイドリヒという帝国屈指の実力者が、白昼堂々、いとも容易く路上で暗殺されたという事実に、腹の底から震え上がっていたのだ。
(ハイドリヒが殺されるなら、俺だっていつ殺されるか分からない……! どこかに暗殺者が潜んでいるかもしれない!)
自身の命への恐怖が、極端なヒステリーとなって表出している。
その滑稽なまでに矮小な姿を、部屋の隅で冷ややかに見つめる二つの影があった。
ハインリヒ・ヒムラーと、マルティン・ボルマンである。
「……総統閣下。お怒りはごもっともでございます」
ヒムラーが、薄い唇の端を微かに歪めながら一歩前に出た。彼のガラス玉のような冷たい瞳には、同志の死に対する悲哀など微塵も存在しなかった。
むしろ彼の内心は、歓喜に震えていた。
(ハイドリヒ……有能すぎるがゆえに、いつか私の地位を脅かすであろう野心家だった。奴が勝手に死んでくれた。しかも、イギリスとチェコ政府の差し金でな)
そしてヒムラーにとって、これはSS(親衛隊)の権力をさらに一極集中させるための最高のエサであった。
ライバルが消え、さらには「総統へのテロに対する報復」という大義名分のもと、警察権力を無制限に行使する口実が生まれたのだ。
「このテロルは、第三帝国の威信に対する許しがたい挑戦です。チェコのレジスタンス、そして背後で糸を引くイギリスの犬どもに、我々の恐ろしさを脳髄の底まで刻み込まねばなりません」
ヒムラーは、恐怖に震える偽総統の耳元で、悪魔のように甘く、そして冷酷に囁いた。
「奴らを根絶やしになさってください、総統閣下。偉大なる指導者として、断罪を……恐怖をお示しになるのです。そうすれば、二度と閣下の命を狙うような愚か者は現れないでしょう」
「そ、そうだ……報復だ。血の報復を行え!」
ヒムラーの言葉に誘導され、偽総統は自分が考えついたことのように甲高い声で叫び始めた。
暗殺の恐怖を、他者への残虐な暴力によって上書きしようとする、小悪党特有の自己防衛本能である。
「チェコ人を殺せ! 奴が流した血一滴につき、一万人のチェコ人を処刑しろ!!」
狂ったように喚き散らす偽総統に、ボルマンがねっとりとした声で同調する。
「閣下、無作為な殺戮では労働力が削がれるばかり。ここは『見せしめ』として、暗殺者どもを匿ったとされる村を、この世から消滅させるのが効果的かと存じます。……プラハ郊外にある『リディツェ』という村に嫌疑がかかっております」
「よし、そうしろ! そのリディツェ村をこの世から消し去れ!!」
偽総統は、作戦机の上に身を乗り出し、唾を飛ばしながら喚き散らした。
「男は全員殺せ! 銃殺だ! 女は収容所へ送り込め! 子供は……アーリア人だけ残して処分しろ! そして村の建物は一つ残らず爆破し、地図からその村の名前を完全に抹消するのだ!!」
――――それは、人類史に残る悲惨な報復劇であった。
「御意のままに、マイン・フューラー(我が総統閣下)」
ヒムラーとボルマンは、恭しく頭を下げた。
彼らは腹の中で冷笑していた。
神輿に座るこの愚かな偽物は、自分が絶対的な権力を行使していると錯覚しているが、実際はヒムラーたちが書いた脚本の上で踊らされているに過ぎない。
六月十日。
偽総統の狂気と、ヒムラーの冷徹な計算が交差した命令は、速やかに、そして機械的な正確さで実行に移された。
プラハ郊外の長閑な農村、リディツェ。
暗殺者との関与など何一つ証明されていない、ただ無実の罪を着せられただけのこの村を、SSと秩序警察の部隊が完全に包囲した。
「全村民、広場へ集まれ!」
早朝の静寂を引き裂く怒号と、軍靴の音。
訳も分からずパジャマ姿のまま引きずり出された村民たちは、銃床で殴りつけられながら、男と女子供に冷酷に分けられていく。
十五歳以上の男性百七十三名は、村の農場の壁際に並ばされた。
その目の前には、機関銃と小銃が整然と並べられている。
「構え」
SS将校の無機質な号令。
父親たちが、息子たちが……母親と娘たちの前で絶望と恐怖に顔を歪める。
「撃て!!」
――タタタタタタタッ!!
初夏の青空に、乾いた銃声と凄惨な断末魔が響き渡った。
壁は真っ赤な血に染まり、次々と男たちが折り重なるように倒れていく。
処刑隊は十人ずつ男たちを並ばせ、まるで工場で手際良く流れ作業をするような要領の良さで、淡々と殺戮を繰り返していった。
女性と子供たちはまずクラドノへ移送された。
数日後、母子は引き裂かれ、女性たちはラーフェンスブリュックへ――。
子供たちの一部はドイツへ送られ、残りの大多数はヘウムノ絶滅収容所の毒ガストラックへと投げ込まれ、二度と日の光を見ることはなかった。
住民が完全に消え去った後、村の建物という建物には爆薬が仕掛けられた。
数日間にわたる爆破と放火。
教会も、学校も、代々受け継がれてきた家も、すべてが燃え上がり、粉々に砕け散った。
SSの工兵隊はブルドーザーを持ち込み、瓦礫を平地に均し、川の流れを変え、墓地の遺骸すら掘り起こして完全に破壊した。
最後には、地図から『リディツェ』という名前そのものが黒く塗りつぶされた。
一つの村が物理的にも、概念的にも、この世界から完全に消滅したのである。
東部戦線の最前線。
野戦テントの中で、狂ったプロパガンダでハイドリヒ暗殺成功の報を聞いた、昇進したばかりのハインリヒ・シュミット中佐は、無表情のまま煙草に火をつけた。
(ハイドリヒが死んだ。カナリス提督の作戦が完全に機能したということだ。……残る標的は、あと二人。それにしても狂っている)
三巨頭の一角が崩れ、ベルリンのSSの指揮系統には修復不可能な亀裂が入ったはずである。
この歴史的な暗殺は、『偽総統』を腐った政治機構ごと物理的に粉砕するための、巨大なブレイクスルーとなることが期待されていた。
しかし……その代償として支払われた『生贄』は、あまりにも重く、そして血生臭かった。
「……リディツェ村の完全消滅、か」
シュミットの脳裏に、全くの無実でありながら報復の業火に焼かれて消え去った、何百というチェコの民の姿と、燃え盛る村の地獄絵図が浮かぶ。
何より信じがたかったのは、大本営が「暗殺者を匿った村の男を全員銃殺し、女子供は収容所へ送り、村を跡形もなく破壊した」という非道な事実を、まるで帝国の輝かしい戦果であるかのように、誇らしげにラジオのプロパガンダ放送で垂れ流していることだ。
先の六月九日の国葬で、偽ヒトラー自らに弔辞を読ませたのも、残された黒幕たちが同志の死を真に悼んでいるからではない。
あれは「国を操る我々に手を出せば、こうして国家ごと報復の火の海に沈めるぞ」という、国内外への恐るべきメッセージなのだ。
シュミットは、ハイドリヒ暗殺の成功によって、警戒を極限まで強めた残り二人の暗殺難易度が、絶望的なまでに跳ね上がってしまったことを思い知らされた。
(……黒幕を順番に倒すより先に、偽ヒトラーそのものを殺した方が良いのではないか……?)
玉座に座る狂人を確実に殺すためには、まずその周囲の盾(黒幕)を一枚ずつ剥がさなければならない。
シュミットたちはこれまで、その方程式を正として作戦を進めていた。
だが、その盾を一枚剥がすたびに、狂人の恐怖は暴走し、今回のように無数の無辜の命が機械的に処理されていくのだ。
(これが、革命という方程式に必要な血のコストだというのか……クラウス。俺たちの手は、すでに拭い去れぬほどの罪に染まっている。もはやどれだけの血の海を渡ろうとも、進むしか無いのだな……)
シュミットは、短くなった煙草を軍靴の底で静かに踏み躙った。
自らの手を汚し、友を、家族を見捨ててでも、あの玉座の『汚物』を殺す。
あの日、薄暗い書斎で交わした血の盟約。
もはや後戻りはできない。
彼らはすでに、地獄の底へと続く道程を歩き始めてしまったのだから。
偽総統の暴走と、ヒムラーとボルマンの暗躍。
血塗られた報復の業火は、やがて大ドイツ第三帝国全土を包み込む『終わりの始まり』を告げる狼煙となって、黒々とした煙を天へと立ち昇らせていた。




