第53話 口を開けた地獄
一九四二年九月。
ヴォルガ川の西岸にへばりつくように広がる工業都市スターリングラードは、すでに都市としての原型を留めていなかった。
空軍による徹底的な爆撃によって美しい市街地は灰燼に帰し、フリードリヒ・パウルス大将率いる第6軍が市街へ突入したことで、戦いの性質は「野戦」から、人類史上最も凄惨な「市街戦」へと変貌を遂げていた。
――――さらに歴史を司る時計は幾千の血を吸って十月に進む。
特に北部から中央にかけての巨大な工場地帯――「赤い十月」製鋼工場や「バリケード」兵器工場群――では、瓦礫の山を挟んで数メートル単位の陣取り合戦が繰り広げられていた。
破壊された家屋の一軒、部屋の一つ、果ては下水道の暗がりすらもが奪い合いの対象となる。
頭上からは煉瓦の破片と共に手榴弾が降り注ぎ、壁の穴からは狙撃手の銃弾が飛んでくる。
ドイツ軍将兵は、這いつくばって瓦礫の中を泥と血に塗れながら進むこの近接戦闘を、自嘲と底知れぬ恐怖を込めて『ネズミ戦争』と呼んだ。
そんな地獄の入り口、スターリングラードの南方へ向かって広大なステップ(平原)を急進撃している部隊があった。
ヘルマン・ホト上級大将率いる、第4装甲軍である。
彼らに与えられた任務は、コテリニコヴォ方面から北東へ進み、スターリングラード南側へ突入し、遥か南のコーカサス方面の部隊と連携を保つという極めて困難なものであった。
しかし、その足取りは重かった。
見渡す限りの平原に巻き上がる黄褐色の砂埃が、戦車のマイバッハ・エンジンの吸気口を容赦なく詰まらせる。
さらに悪いことに、数百キロにも延び切った補給線は完全に麻痺していた。
昨日まで砂埃に咽び泣いていたかと思えば、秋の冷たい雨が降り注ぎ、大地は一瞬にして底なしの泥濘へと姿を変える。
第199独立重戦車大隊から特務戦車大隊へと改編されたシュミットの部隊は、その最前線を進んでいた。
「……またか」
ハインリヒ・シュミット中佐は、泥の海に半ばまで沈み込み、キャタピラを空転させている麾下のIV号戦車を見下ろしながら、冷たく吐き捨てた。
大隊の一部が完全に泥に足を取られ、前進不能に陥っている。
泥濘からようやく抜け出したと思えば、今度は後方からの燃料補給が途絶え、鋼鉄の獣たちは胃袋を空にして立ち往生するしかない。
燃料がない戦車を走らせる都合の良い魔法など存在しないのだ。
機動力を殺された戦車部隊など、ただの巨大な鉄の的でしかなかった。
前進停止を余儀なくされた短い休息の時間。
硝煙と油の臭いが染み付いた野営用テントの中で、シュミットは一通の手紙を開いていた。
後方のドイツ本国、ベルリンにいる妻・リーゼロッテからの手紙である。
そこには、彼女の不器用だが温かい字で、ささやかな日常の報告と共に、一つの重大な事実が記されていた。
『愛する貴方へ
今日は、貴方の完璧な計算式にもおそらく入っていなかったであろう、とても大事な報告があります。
赤ちゃんが出来ました。
名前の候補は、ぜひその素晴らしい頭脳を使って一緒に考えてほしいです。
ねえ、嬉しいですか?
もし少しでもそう思ってくれたなら、すぐにお返事をくださいね。
実を言うと、一人でこの家にいるのが少し心細くなってしまって。
だから、貴方が戦場から無事に帰ってくるまで、ドレスデンのお兄ちゃんの家にお世話になろうと思います。
お兄ちゃん本人は空軍で不在だけれど、お義姉ちゃんのエルゼさんが「ぜひ来てください」って言ってくれたの。
三歳のイルゼと、四歳のマリアちゃんも一緒よ。
きっと賑やかで楽しい毎日になると思うわ。
戦争が落ち着くまでは、そこに居ようと思うの。
新しい宛先は、ここに書いておきますね。
貴方もちゃんと、無事を知らせる手紙を書いてくださいね。
ハイン、愛しています』
手紙の文面をなぞるシュミットの青い瞳が、一瞬だけ止まった。
「ドレスデン……か……」
戦場において、数万の兵力と弾薬の軌道を完璧な数式として処理し続ける『氷の計算機』。
その冷徹な横顔は、手紙を読み終えてもピクリとも動かなかった。
相変わらず感情の一切を削ぎ落とした、鉄面皮のままである。
だが、彼の口元だけが、ほんの数ミリ――微かに、ニヤリと吊り上がっていた。
「……大隊長?」
テントに入ってきた新任の副官ハルト大尉が、その極めて珍しい、いや、初めて見る上官の表情の変化に目を丸くした。
シュミットの手元にある便箋の文字が、ハルトの視界の端に映り込む。
数秒の硬直の後、ハルトの顔に爆発的な歓喜が広がった。
「おい! みんな聞け!!」
ハルトはテントを飛び出し、泥だらけで座り込んでいる大隊の兵士たちに向かって声を張り上げた。
「俺たちの氷の大隊長閣下に、なんと子供ができたそうだ! 天使の誕生だぞ!!」
その瞬間、陰鬱だった野営地に地鳴りのような歓声が沸き起こった。
「やりましたね、大隊長!」
「閣下の計算式にも、ついに愛が組み込まれましたか!」
「元気な赤ん坊のために、乾杯だ!」
泥と疲労にまみれた兵士たちが、次々とテントの前に押し寄せ、シュミットを口々に祝福する。
シュミットの率いる第199独立特務戦車大隊は、不思議なほど大隊長と兵卒の距離が近い。
それは、この無表情な指揮官が「兵士の命」を最も重要な変数として扱い、誰よりも確実な生存ルートを計算し続けてくれていることを、前線の男たちが肌で理解しているからに他ならなかった。
死と隣り合わせのこの地獄において「新しい命の誕生」という知らせは、彼ら全員にとっても一筋の温かい光だったのだ。
シュミットは小さく咳払いをすると、いつも通りの無表情を作って折り畳み机に向かった。
「騒ぐな。ただの生物学的な事象の報告だ。……すぐに返信を書く」
大隊の連中がニヤニヤと見守る中、シュミットはわざわざ隊員に囲まれながら万年筆を握り、真剣な眼差しで便箋に向かった。
そのペン先は、作戦計画書を起草する時よりも遥かに慎重に動いている。
やがて書き上がった手紙を、ハルトが背後から覗き込んだ。
『我が妻リーゼロッテへ。報告を受領した。次世代の育成という事象は、我が大隊における最大の戦果に匹敵する。当方は、母体の健康維持および栄養素の適切な補給を最優先課題として推奨する。ドレスデンにおける出産準備に遺漏なきよう――』
「……大隊長」
ハルトが、頭を抱えて深い深呼吸をした。
「これは、前線の兵站司令部へ向けた部品の請求書ですか?」
「何だと? 私は至って論理的に、妻への気遣いとして――」
「硬すぎます!!」
周囲の兵士たちからも、ドッと笑い声が起こる。
「閣下、奥様への手紙に『受領』とか『最優先課題』は無いでしょう!」
「もっとこう、『愛している』とか『会えなくて寂しい』とか書けないんですか! だから冷血だって言われるんですよ!」
部下たちからの容赦ないツッコミの嵐に、シュミットはわずかに眉間を揉み、「……数式よりも人間の感情表現の方が、よほど難解だ」とぼやきながら、静かに便箋を丸めた。
その光景は、狂気に満ちた東部戦線において、奇跡のように温かい、人間たちのささやかな日常のひとコマであった。
数日後。
燃料の補給が細々と再開され、泥濘を抜けた第4装甲軍の司令部で、シュミットは軍司令官ヘルマン・ホト上級大将から直々に呼び出しを受けていた。
薄暗い司令部用の幕舎の中、ホトは疲労の色が濃い顔でシュミットを迎え入れた。
「シュミット中佐。君の部隊に、近々新しい『玩具』を回すことになった」
ホトが広げた機密書類には、分厚い装甲と長大な砲身を持つ、見慣れない巨大な戦車の青写真が描かれていた。
「VI号戦車……『ティーガーI』ですか」
シュミットが図面の諸元を瞬時に計算しながら呟く。
「そうだ。先日、北方軍集団のレニングラード戦線で極秘裏に実戦投入された。……結果は惨憺たるものだったよ。湿地帯の地形を無視して総統閣下が無理やり投入を急がせたせいで、故障と泥濘での立ち往生が多発した。文字通りの難ありだ」
ホトは苦々しく吐き捨てた。
「だが、装甲の分厚さと88ミリ砲の威力だけは本物だ。少しでも足回りと変速機を改良した先行試作車両第二陣を、君の独立特務戦車大隊に優先配備する。……この五〇トンを超える鉄の塊を、君のその頭脳で完全に飼い慣らして見せろ」
「五〇トン……現在の東部戦線のインフラと土壌の摩擦係数を考慮すれば、運用限界ギリギリの質量ですね……並の操縦手では運用できません」
シュミットは青写真を冷徹に見つめ、己の脳内で新たな殺戮の方程式を組み上げ始めていた。
大隊の死者の数が二桁に達した十月上旬。
シュミットたち第4装甲軍は、ついにスターリングラードの南郊へと突入した。
そこで待ち受けていたのは、果てしない瓦礫の海と、ソ連軍による執拗な抵抗だった。
巨大な穀物エレベーターの周辺や、迷路のように入り組んだ住宅街の跡地。
ここで、装甲部隊は致命的な弱点を露呈することになる。
「前進停止! 敵歩兵、右斜め前の建物の二階! 対戦車ライフルだ!!」
キューポラから身を乗り出したシュミットの耳元を、鋭い銃弾が空気を裂いて掠め飛ぶ。
戦車という兵器は、開けた平原での機動戦においてこそ無類の強さを発揮する。
しかし、視界の極端に制限された瓦礫の街では、ただの鈍重な鉄の箱だった。
砲塔を旋回させる速度よりも早く、上階の窓からモロトフ・カクテル(火炎瓶)がエンジンルームを狙って降り注ぐ。
瓦礫にしか見えない地下室の暗がりからは、対戦車砲の火線がキャタピラを容赦なく断ち切った。
「……愚か極まりない」
シュミットは、燃え上がる友軍の戦車を冷たい瞳で見据えながら、戦術無線で的確に榴弾の制圧射撃を指示し続ける。
「戦車は平原を駆ける生き物だ。極端に低速での機動を強いられる市街戦に、歩兵の盾として戦車を投入するなど、戦術的な自殺行為に他ならない」
本来の機動戦などできるはずもなく、装甲部隊はただ歩兵の支援として、瓦礫の道を一日に数十メートルという血の滲むような遅さ……。
時には、実に時速10km前後で頻繁に停止しながら這い進むしかなかった。
大隊にも、無視できない数の損害が出始めていた。
待ち伏せ……十字砲火……瓦礫の隙間からの狙撃。
姿を見せない敵兵により、シュミットが手塩にかけて育て上げた優秀な戦車兵たちが、一人、また一人と命を落としていく。
鉄の焼ける嫌な臭いと、肉の焦げる臭いが車内に充満する。
(冬将軍の足音が聞こえるこの十月に、この底なしのすり鉢に全軍を突っ込ませるなど、正気の沙汰ではない。戦略的にも戦術的にも、愚の骨頂だ)
シュミットは、はるか遠くベルリンにいる狂った『偽総統』の存在に思いを馳せながら、奥歯を強く噛み締めた。
だが、彼にできることは一つしかなかった。
己の感情を完璧に殺し、手元にある限られた手駒を、最も効率的な数式として動かすこと。
それこそが部下を殺さない唯一の方法であった。
「第二中隊、前進停止。左舷の建物の三階、窓枠から二番目に榴弾を一発。その後、後退して歩兵の掃討を待て。無駄な損害は許さん」
燃え盛るスターリングラードの狂気の中で、シュミットだけは冷徹な思考を保ち続けていた。
どれほど味方が血を流そうとも、彼は無表情のまま、冷徹な死神のように敵だけを効率的に狩り続けていく。
遠い故郷で、産声を上げようとしている愛する我が子に、生きて会うために。
スターリングラードという瓦礫の山の中で、幾万の兵士達の心は静かに慟哭していた。




