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第23話 砂漠の狐

 「砂漠の狐」――エルヴィン・ロンメル中将は、夜の砂漠に佇み、一人呟いた。

「バカな……二正面作戦など、愚劣にも程がある……」

 芯まで冷え切った夜の砂漠の風は、早くも第三帝国の落日を予感させるような不吉な冷気を孕んでいた。


 1941年6月22日、アドルフ・ヒトラーはついにユーラシア大陸の東部に向けて、300万の大軍を解き放った――――バルバロッサ作戦である。


 北アフリカの熱砂の地と、ロシアの広大な泥濘。

 第三帝国は、全く異なる二つの過酷な大自然を舞台に、同時に戦争を行うという致命的な状態に陥ったのである。


 ロンメルは戦術的・局地的な戦闘においては連戦連勝を重ね、世界中に「無敵の魔将軍」としての名を轟かせていた。

 しかし、彼のもとへ送られるべき補給物資や予備兵力の多くは、東の「赤い巨人(ソビエト連邦)」を打ち倒すために根こそぎ吸い上げられることとなり、アフリカ軍団は常に飢えた状態で戦い続けることを強いられた。


 同じ頃、東の果ての森の中で、シュミットは自らの完璧な演算でソ連軍をすり潰しながらも、「ロシアという空間の広大さ」に奇妙な冷たさを感じ始めていた。


 連日戦勝、崩れ続ける敵の防衛線。


 南と東。

 しかし、二つの戦場で無敵の快進撃を続けるドイツ軍の背後には、すでに「兵站(物資の補給)の崩壊」という、誰も逃れることのできない絶対的な物理法則の影が、静かに、しかし確実に忍び寄っていたのである。

 どんな最強の軍隊であっても、食事や燃料、弾薬が無ければただの的にしかならないのだから。


 ロンメルが思い出すのは1940年の秋。

 ドイツが西ヨーロッパを蹂躙し、イギリス上空で血みどろの航空戦(バトル・オブ・ブリテン)を繰り広げていた頃、南の地中海でもう一つの戦争が幕を開けた。

 枢軸国の同盟者であるイタリアの独裁者、ベニート・ムッソリーニの野望である。

 彼は地中海を「マーレ・ノストルム(我らの海)」と呼称し、新たなローマ帝国の建設を夢見ていた。

 フランスが降伏し、イギリスが本土防衛で手一杯になっている今こそ、北アフリカにおけるイギリスの覇権(エジプトとスエズ運河)を奪い取る絶好の機会だと踏んだのだ。


 1940年9月、イタリア軍は植民地リビアから国境を越え、エジプトへの侵攻を開始する。

 その数、実に20万人以上。

 対するイギリス軍(中東植民地駐屯軍)はわずか数万。

 圧倒的な数の優位を背景に、イタリア軍は意気揚々と砂漠を進んだ。

 しかし、近代戦とは、兵士の数だけで測れるような生易しいものでは無かった。


 イタリア軍の戦車は装甲がブリキのように薄く、機関銃座に毛が生えた程度の代物だった。

 L3豆戦車は、イギリス軍の主力小銃であるリー・エンフィールドの.303ブリティッシュ弾ですら射角、距離によっては容易に貫通される。

 また、かろうじて小銃弾を防げるM11/39中戦車であっても、被弾の衝撃で裏側のリベットがちぎれ飛び、密閉された車内で弾丸のように跳ね回って戦車兵を死傷させる、文字通りの『走る棺桶』だった。

 おまけに車体に直接固定された主砲は極端に射界が狭く、敵が少し機動するだけで照準を合わせることすらできない。


 さらに、イタリア歩兵の主力兵器である、赤く塗られた「OTO M35型手榴弾」もまた、兵士たちを絶望させた。

 投擲時の空気抵抗で安全装置が解除されるはずのその信管は、致命的な誤作動を頻発させたのだ。

 時に手元で暴発して容赦なく味方を吹き飛ばし、敵に投げたところで反応しないこの赤いゴミは、戦場のあちらこちらに転がる事になる。

 後にイギリス兵から「赤い悪魔」として恐れられることになるのはこのためだ。

 不用意なイギリス兵がそれを「完全な不発弾」だと思い込んで蹴り飛ばしたり拾い上げようとした瞬間に、それは思い出したかのように起爆して命を奪うのである。


 だが、こうした兵器の劣悪さ以上に致命的だったのは、軍の上層部が旧態依然とした第一次大戦の「歩兵と塹壕による陣地戦」の思考から抜け出せておらず、広大な砂漠における機動戦の概念が全く欠如していたことだ。

 彼らの頭の中には、フランスでドイツ軍が展開したような「電撃戦」のヴィジョンなど、微塵も想定されていなかったのである。


 1940年12月、リチャード・オコーナー将軍率いるイギリス軍がコンパス作戦(イタリアに対する反攻作戦)を開始する。

 イギリス軍の誇る重装甲の歩兵戦車『マチルダII』の前に、イタリア軍の対戦車砲はオモチャのように弾き返された。

 機動力と装甲という「兵器という文明レベルの違い」で完全に凌駕されたイタリア軍は、瞬く間にパニックに陥り、総崩れとなった。

 わずか2ヶ月の間に、イギリス軍はイタリア軍をエジプトから叩き出したばかりか、リビアの奥深く(キレナイカ地方)まで数百キロも進撃し、実に13万人ものイタリア兵を捕虜にした。

 ムッソリーニの誇る北アフリカ帝国は、砂上の楼閣のごとく完全に崩壊の危機に瀕したのである。


 同盟国のあまりの無様さに激怒し、同時に地中海の南岸をイギリスに完全に奪われることを危惧したヒトラーは、急遽、救兵の派遣を決定する。

 『ヒマワリ作戦』と名付けられたこの計画で、北アフリカの熱砂の地に降り立った男こそ、フランス戦で第7装甲師団(幽霊師団)を率いて猛威を振るった異端の機動戦術家、エルヴィン・ロンメル中将であった。


 1941年2月、リビアの首都トリポリに到着したロンメルに与えられた兵力は、第5軽師団と、後から合流予定の第15装甲師団のみ。

 これがいわゆる『ドイツアフリカ軍団(DAK)』の骨組みである。

 ドイツ国防軍最高司令部(OKW)がロンメルに与えた命令は、「これ以上イタリア軍を後退させるな。トリポリ周辺で防御に徹し、戦力を温存せよ」という極めて保守的なものだった。

 当時のドイツ軍の最優先事項は来たるべきソ連侵攻(バルバロッサ)であり、アフリカはあくまで「おまけの戦場」に過ぎなかったからだ。


 しかし、ロンメルの辞書に「防御」の二文字はなかった。

 彼はトリポリに到着するや否や、まだ兵力が完全に揃っていないにも関わらず、フォルクスワーゲン社製キューベルワーゲンに偽の戦車のハリボテを被せて砂埃を巻き上げさせ、大軍に見せかけながら、前線へ向けて電撃的な進撃を開始したのだ。


 この時、イギリス軍は完全に油断していた。

 ドイツ軍が攻めてくるのは数ヶ月先だと高を括り、歴戦の精鋭部隊の多くをギリシャ戦線へと引き抜いていたのである。

 そこにロンメルの機甲部隊が、素早い機動などできないという砂漠の掟を無視した異常なスピードで襲いかかった。

 ロンメルは自らシュトルヒ(小型偵察機)に乗り込んで空から戦況を把握し、部隊の先頭に立って直接指揮を執った。

 広大な砂漠は、彼にとってフランスの平原以上に、電撃戦(浸透突破と包囲)の幾何学陣形を描くのに最適なキャンバスだった。


 3月から4月にかけてのわずか数週間で、ロンメルはイギリス軍を完璧に蹂躙し、前年に彼らがイタリア軍から奪ったトブルクを除くキレナイカ地方の大半の領土を奪還した。

 それどころか、イギリス軍の指揮官であったオコーナー将軍ら高級将校を捕虜にするという大戦果を挙げる。

 

 ――――神出鬼没、予測不能。

 イギリス兵たちは恐怖と畏敬を込めて、このドイツの将軍を『砂漠の狐』と呼んだのだ。


 戦術的な勝利を重ね、エジプト国境まで肉薄したロンメルだったが、ここで「軍事の絶対的な法則」が彼の進撃を強制的に停止させる。

 兵站(物資補給)の限界である。


 ロンメルの最大の補給港はトリポリであった。

 そこから現在の最前線(エジプト国境のハルファヤ峠)までは、実に1,500キロメートル以上も離れていた。

 これは現代日本の青森県・青森ICから、熊本県・八代ICまで高速道路で走行した距離に匹敵する。

 補給物資はトラックで運ばなければならなかったが、決して舗装された快適な道路を通行するわけではなかった。

 砂漠と塩沼、荒野が広がる沿岸部の悪路を進まねばならず、そのうえ隣接する地中海ではイギリス海軍が制海権を握っていたのだ。

 イタリア半島からの補給船も、イギリス海空軍と潜水艦の執拗な襲撃に晒され続けて次々と地中海の藻屑となっていった。

 補給がなければ、武器・弾薬・燃料だけではなく、命を繋ぐための水すらもないというのに。


 この破綻した兵站を改善する、最も有力な解決策が、前線のすぐ後方にある天然の良港、「トブルク要塞」の陥落であった。

 トブルクの港を手に入れれば、補給線は一気に短縮される。

 しかし、ここにはオーストラリア軍の第9師団を中心とする屈強なイギリス連邦軍が立てこもり、強固な陣地と地雷原でハリネズミのように防御を固めていた。


 4月から5月にかけて、ロンメルは二度にわたりトブルクへの総攻撃を命じたが、オーストラリア兵の頑強な抵抗と、砂漠特有の猛烈な砂嵐、そして何より燃料と砲弾の不足により、大きな損害を出して撃退されてしまう。

 あるいは補給が万全ならば歴史が変わったかもしれない。

 ロンメルの背後には常に「トブルク」という棘が刺さったままとなり、彼はエジプト国境とトブルク包囲陣という、二つの正面作戦を強いられることになった。


 そして運命の1941年6月。

 アドルフ・ヒトラーが東のソ連へ向けて「バルバロッサ作戦」の最終カウントダウンを始めていたまさにその時、北アフリカではイギリス軍による大規模な反撃作戦が発動されようとしていた。


 イギリス中東軍総司令官ウェーヴェル大将は、本国からチャーチル首相の強力な後押しを受け、最新鋭の戦車群を大量に受け取っていた。

 特に、分厚い装甲を誇りイタリア軍を蹂躙した歩兵戦車『マチルダII』と、機動力に優れた新型巡航戦車『クルセーダー』の到着は、イギリス軍に絶対の自信を与えた。

 目標はロンメル軍の撃破と、トブルク要塞の解放。

 作戦名『バトルアクス』。

 発動は1941年6月15日と決定された。


 イギリス軍の戦車およそ200両が、エジプト国境のハルファヤ峠を目指して砂煙を上げて進撃してきた。

 当時のドイツ軍の主力戦車であるIII号戦車(5cm砲)やIV号戦車(短砲身7.5cm砲)では、マチルダIIの分厚い前面装甲(最大78mm)を正面から撃ち抜くことは不可能に近い。

 イギリス軍の戦車兵たちは、自らの戦車が優位であると信じて疑わなかった。


 しかし、ロンメルはこの戦術的劣勢を、ある「物理的解決策」で覆す罠を張っていた。

 対空兵器である『88ミリ高射砲』の対戦車転用である。

 本来は高度数千メートルを飛ぶ爆撃機を撃ち落とすための高射砲だが、その恐るべき初速と破壊力を「水平」に向けたらどうなるか。

 ロンメルはそれを砂漠の稜線やハルファヤ峠の岩陰に深く掘り下げて隠し、砲身だけを前方に突き出す「88ミリ高射砲による対戦車陣地」を構築させたのだ。


 6月15日早朝。

 イギリス軍の戦車連隊がハルファヤ峠へ突撃を開始した。

 彼らの目には、ドイツ軍の陣地は脆弱な野砲しか持たないように見えた。

「突撃! 敵の砲弾など気にするな。我々の装甲は抜けない!」

 イギリス軍の戦車が距離1,000メートルにまで接近したその時。

 砂漠の至る所で、偽装ネットを撥ね退けた88ミリ砲が一斉に火を噴いた。


 ズドォォォォン!!


 凄まじい発射音とともに放たれた初速820m/sの徹甲弾は、マチルダIIの無敵を誇った分厚い装甲を、まるで段ボール箱のように易々と、しかも完全に真っ直ぐ貫通した。

 今まで、ことごとくドイツ軍の主砲を弾き返してきた無敵の友軍戦車。

 イギリス兵は達は信じる事が出来なかった……戦車の前面装甲とは最も強固で、最も信頼できる最強の盾なのだ。


 被弾したイギリス戦車の砲塔が次々と吹き飛び、弾薬庫が誘爆して巨大な火柱が上がる。

「馬鹿な!? 前面装甲をぶち抜かれただと!?」

 パニックに陥ったイギリス軍戦車隊は、見えない大砲の前に次々とスクラップに変えられていった。

 このハルファヤ峠でのわずか半日の戦闘で、突撃したイギリス軍の戦車大隊はほぼ壊滅。

 11両のマチルダIIのうち10両が、88ミリ砲のたった数発ずつの射撃で消し飛んだ。


 さらにロンメルは、イギリス軍が混乱している隙を突き、温存していた第15装甲師団と第5軽師団の戦車部隊を迂回させ、イギリス軍の側腹を突く絶妙な機動包囲を展開した。

 たまらずウェーヴェル将軍は撤退を命じた。

 3日間にわたる『バトルアクス作戦』は、イギリス軍が100両近い戦車を失うという大敗北に終わったのである。

 チャーチルはこの敗北に激怒し、即座にウェーヴェルを更迭した。

 そしてイギリス軍の血で染まった「ハルファヤ峠」は「ヘルファイヤ・パス」と言われる事になる。


 イギリスのバトルアクス作戦を見事に粉砕し、ロンメルがエジプト国境の防衛線を確固たるものにした数日後――ロンメルに伝えられた悪夢。

 それこそがバルバロッサ作戦開始の報告であった。

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