第22話 第四の同志
東の空が砲火で赤く染まり、泥と血に塗られた「バルバロッサ作戦」の幕が切って落とされた1941年の初夏。
数百万の将兵がロシアの広大な平原で殺し合いを演じるその喧騒から、遠く離れた帝都ベルリン。
その郊外、地図から完全に抹消された鬱蒼たる黒い森の奥底に、その「不浄なる揺籃」はひっそりと存在していた。
苔むした、しかし要塞のように堅牢な石造りの旧貴族の館。
その分厚い樫の扉を、鍵も使わず、わずかな衣擦れの音すら立てずに開く一つの影があった。
国家保安本部(RSHA)長官、ラインハルト・ハイドリヒ。
「金髪の野獣」と恐れられる彼は、夜の闇に溶け込むような黒革のロングコートを纏い、まるで館に棲みつく亡霊のような足取りで、カビの匂いが漂う薄暗い回廊を進んでいく。
やがて、廊下の最も奥にある豪奢な扉から漏れ聞こえる「醜悪な演劇の練習」の響きに、彼は冷ややかな耳を澄ませていた。
「……違う! 貴様は何も分かっていない! 顎の角度が三度高いのだ!」
絨毯の敷き詰められた室内では、かつてワイマール期のベルリン演劇界を震撼させ、今は表舞台から姿を消した老優が、手にした銀細工のステッキで床を激しく叩きながら、一人の青年に向かって罵声を浴びせていた。
「叔父君は、ただ高い場所から民衆を見下ろしているのではない。彼らの魂を、その真っ直ぐ過ぎる純粋な瞳で、人の心の底まで串刺しにするのだ! 貴様の目はただ怯えているだけだ。もう一度だ、ウィリアム! 神に選ばれた指導者の怒りを、その指先まで血を通わせて表現しろ!……そして、何度も!何度も!何度も言うが、貴様のそのくだらないプライドなどさっさと捨てろ!」
「わ、分かった……。も、申し訳ない。もう一度、最初からやらせてくれ」
ハイドリヒは、少しだけ開いた扉の隙間の暗がりから、その青年――ウィリアム・パトリック・ヒトラーの姿を、爬虫類のように瞬き一つしない冷徹な瞳で観察していた。
ウィリアムは、叔父アドルフに酷似したカッティングの特注軍服を身に纏い、巨大な姿見の前で不格好な演説のポーズを幾度も繰り返していた。
丁寧に撫でつけられた黒髪も、特徴的な鼻の下のちょび髭も、骨格の作りも、確かに「あの男」の忌まわしき血筋を感じさせる。
だが、その額には卑屈な脂汗がべっとりと浮き、鏡を見つめる瞳には、絶対権力者である叔父への底知れぬ恐怖と、それ以上に深い「持たざる者」特有の醜い飢えが、泥水のように濁りきっていた。
それでいて、「自分は総統の血筋である」というくだらないプライドが、彼の不格好な所作の端々に、どうしようもない傲慢さとして滲み出しているのだ。
「……なるほど」
ハイドリヒの薄い唇が、暗闇の中で三日月のように歪む。
「国家という血生臭い大舞台の裏側に、これほど質の悪い三文喜劇を用意していたとはな。ヒムラー長官も、ボルマン殿も、随分と悪趣味な遊戯を好まれる」
彼は音もなくその場を離れた。
すべてを完璧に「把握」した者の、冷酷にして優雅な足取りであった。
数日後。
ベルリンの中心、プリンツ・アルブレヒト通り八番地。
ゲシュタポ本部にあるハイドリヒの秘密執務室。
初夏の陽光さえも入ることを拒絶するかのように、分厚く重い暗幕のカーテンが引かれたその密室に、親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーと、党官房長マルティン・ボルマンの姿があった。
部屋の空気は、古い紙とインク、そして彼ら自身から発せられる隠しきれない「腐敗」の匂いで重く沈んでいる。
ハイドリヒは黒革の椅子の背もたれにゆったりと身を預け、氷細工のように細く長い指先で、数枚のモノクロ写真を磨き抜かれたマホガニーの机の上へ、一枚、また一枚と滑らせた。
乾いた印画紙の擦れる音が、密室に不気味なほど響き渡る。
ハイドリヒの冷たい瞳が彼ら二人を射抜く。
「……さて。お二方。これはどういう事ですかな?私が総統閣下にご説明しやすい様に話してくれると有り難いのですが」
ハイドリヒの声音は、極めて丁寧でありながらも、絶対零度の冷たさを孕んでいた。
写真には、郊外のあの屋敷へ人目を忍んで出入りするウィリアムの姿。
彼にまるで総統に対するように恭しく敬礼する親衛隊の将校たち。
そして何より致命的だったのは、ボルマンが党の不透明な工作資金から、フランスで失踪したこの厄介な総統の甥を囲い込み、教育を施すために捻出した巨額の領収書の束であった。
スイス銀行の口座を経由したその金の流れは、逃れようのない物的証拠として鮮明に記録されていたのだ。
ヒムラーは無機質な円眼鏡の奥で、罠にかかったネズミのように視線を泳がせ、ハンカチで何度も額の汗を拭っていた。
一方のボルマンは、小太りの体を硬直させ、肉厚な指先を腹の上でギュッと組み、脂ぎった顔を強張らせて重苦しい沈黙を守っていた。
仮に力ずくで、目の前のハイドリヒを殺したところで逃げられるわけもない。
ここはゲシュタポの総本山たる、国家保安本部(RSHA)長官執務室なのだ。
「……ハイドリヒ。誤解をするな。これは、万が一の事態に備えた『保険』に過ぎん」
たまらず沈黙を破ったのは、ボルマンだった。
喉の奥にこびりついた澱を無理やり吐き出すような、ひどくしゃがれた声だ。
「総統の御身に万が一のことがあった際……暗殺や、あるいはご病気などでな。その時、身代わりとして一時的に民衆の前に立たせ、熱狂を維持し、国家の致命的な混乱を防ぐためのものだ。……それ以上の意味など、断じて無い」
「ほほう? 混乱を防ぐための、保険、ですか」
ハイドリヒは、薄い唇をさらに吊り上げて嘲笑した。
その笑みは、獲物の柔らかな喉笛を正確に見据えた剃刀の刃のようであった。
「ボルマン殿、貴公の言葉には常に、安物の香水で死臭を誤魔化したような見え透いた嘘の匂いが混じっている。単なる一時的な身代わりに過ぎないのなら、あの哀れな青年に、あそこまで過剰な『帝王学』と『演劇の教育』を施す必要がどこにある? 親衛隊の裏予算を湯水のように横流しし、わざわざ往年の名優まで雇い入れて、一国の主としての振る舞い、声色、怒りの仕草までを徹底的に肉体に叩き込む。……それは、ただの影武者の育成ではない」
ハイドリヒは不意に机へ身を乗り出し、氷の視線で二人の心臓を串刺しにした。
「いずれ邪魔になった本物の首を物理的に挿げ替え、この大帝国を、あなた方の都合よく動く『偽物』に委ねるための、壮大な叛逆の準備ではないのか?」
その鋭く、あまりにも的確な指摘に、部屋の空気は文字通り凍りついた。
ヒムラーは、自身の歪んだオカルト的理想と肥大化した権力欲を、自らの部下であるはずの男に完全に見透かされたことを悟った。
彼は力なく肩を落とし、観念したように短く、重い溜息を吐き出した。
「……本当の目的を言いなさい。長官」
ハイドリヒは追撃の手を緩めない。
静かな、しかし一切の退路を断つ死刑宣告のような問いだった。
「これ以上の隠し立ては、貴公らの首を絞める絞縄を、ただ無様にきつくするだけだ。私の情報網を舐めないことだ。もっと証拠が必要かね?」
逃げ場のない密室で、永遠とも思える重い沈黙ののち、二人はついに呪いのように口を開いたのだ。
彼ら二人には、戦略的な大義や国家を救うといった崇高な目的など一切無かった。
その真の目的は、「第三帝国という巨大な金庫を私物化して享楽を貪る」こと。
ただそれだけであった。
そのために彼らは、本物の総統を「病死」に見せかけて密かに排除し、長きにわたって教育し尽くした操り人形、ウィリアム・パトリック・ヒトラーを「頂点」に据える計画を立てていたのだ。
ヒムラーの率いる親衛隊の圧倒的な暴力機構。
ボルマンが握る党の莫大な資金。
そして、民衆を欺き納得させるヒトラーという最強の「血脈の偶像」。
その三つを融合させ、第三帝国を自分たちの完全なる私有物として、永遠に裏から支配し続けるという、空前絶後のクーデター計画であった。
すべてを聴き終えたハイドリヒは、机に両肘を突き、指先を顔の前で組んだまま、しばしの深い沈黙に沈んだ。
その氷のような瞳は、二人を射竦めるように貫き続けている。
ヒムラーとボルマンは、額に冷たい汗を浮かべながら彼を見つめ返すことしかできなかった。
もし今、ハイドリヒが受話器を取り、総統官邸へ電話をかければ、それは即ち「クーデターの密告と二人の逮捕」を意味する。
二人はまったく生きた心地がしなかった。
だが。
「……ククク、ハハハハハハ!」
唐突に、ハイドリヒは肩を震わせ、喉の奥から金属を擦り合わせるような低い笑い声を上げたのだ。
「……素晴らしい。実に下劣で、救いようのないほど魅力的で、そして醜悪な叛逆だ。だが何より、その杜撰で感情的な計画に完璧な管理が欠けているのが、私にはひどく我慢ならないのだよ」
ハイドリヒは、テーブルの上に散らばったウィリアムの写真を指先で弾き飛ばすと、椅子に深く背を預けた。
彼の冷え切った青い瞳に、初めて奇妙な同族意識の、暗黒の火が灯っていた。
「……よかろう。私も今日から、この素晴らしい企みの同志となりましょう。いいですね?」
予想外すぎる言葉に、ヒムラーとボルマンは呆然と口を開け、ハイドリヒを見つめ返した。
「貴公らの穴だらけの謀略を、私が帝国の機構そのものへと、完璧に昇華させて差し上げよう。……これこそが、私にとっても、この腐り果てた国家を背後から統制するための、最も論理的で効率的な支配の形だ」
こうして、ハイドリヒは秘密の四人目の同志となったのだ。
ヒムラーが率いるSSの刃。
ボルマンが操る党の金。
ウィリアムという偽物の血脈。
そして――そのすべてを俯瞰して監視し、計画の障害となる者を容赦なく排除する、ハイドリヒの冷徹な知性。
不浄なる三頭政治は、この日、ハイドリヒという最強の「番人」であり「設計者」を得たことで、もはや誰にも止められない回避不能な国家転覆の巨大な歯車として、暗い熱を帯びながら本格的に回り始めたのだった。
はるか東の果てで、地図上の果てしない作戦に熱狂するアドルフ・ヒトラー総統は、自らの足元で口を開けたこの恐るべき深淵について、まだ何も知らない。




