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第21話 快進撃

 1941年6月22日。

 歴史が後に「バルバロッサ」と呼ぶことになるその日の夜明けは、大地を揺るがす砲声と、空を覆い尽くす異形の影によってもたらされた。


 ドイツ国防軍による全線一斉砲撃が開始された直後、フランスの空で苦酸を嘗めたルフトヴァッフェ(ドイツ空軍)の猛禽たちが、東の空へと解き放たれた。

 目標は、国境付近から内陸部にかけて点在するソビエト赤軍の飛行場群である。


 高度を下げて奇襲をかけるのは機首の空気抵抗を減らし、翼端が丸みを帯びた『Bf109-F型』戦闘機と、逆ガル翼と固定脚が特徴的な急降下爆撃機『Ju87-Bスツーカ』が固定脚に取り付けられたサイレンを鳴らしながら垂直に近い角度で落ちていく。

 彼らの眼下に広がっていたのは、信じがたいほど無防備な光景だった。

 スターリンの「挑発に乗るな」という厳命に縛られていたソ連空軍の戦闘機群は、滑走路の脇に、まるで品評会のように翼を並べて綺麗に整列させられていたのである。

 防空レーダーはおろか、対空砲の準備すらされていない。

 迷彩ネットすら被せられていないその姿は、空からの標的としてこれ以上ないほど完璧だった。


「撃て! 一機たりとも空へ逃がすな!」

 ドイツ空軍パイロットたちの歓喜の叫びとともに、機関砲の曳光弾と爆弾の雨が、眠りこけているソ連軍基地へと降り注いだ。


 連鎖的な大爆発が起き、大地が炎に包まれる。

 最新鋭のMiG-3や、旧式のI-16戦闘機など、何千機というソビエトの航空機が、一度もプロペラを回すことすらできず、駐機中に薪の如く焼き払われていった。

 一部の勇敢なソ連パイロットが燃え盛る機体に飛び乗り、無理やり離陸しようと試みたが、すでに上空を制圧しているドイツ戦闘機によって、車輪を浮かした瞬間にハチの巣にされ墜落していった。


 開戦初日のわずか数時間。

 ドイツ空軍が破壊したソビエト軍の航空機は、実に2,000機近くに上った。

 対するドイツ側の損害はわずか数十機。

 軍事史において類を見ない、完全なる奇襲の成功である。

 この瞬間、モスクワに至るまでの広大な空の支配権(制空権)は、完全にドイツのものとなったのだ。

 空からの脅威を排除されたドイツ陸軍の機甲部隊は、いよいよその無慈悲なキャタピラの音を響かせ、果てしない東の平原へと雪崩れ込んでいったのである。


「上空のハボック(爆撃機)はすべて味方だ。対空監視は不要だ。索敵リソースのすべてを地平線へ向けろ」


 第1装甲師団、第1戦車大隊、第3中隊。

 中隊長車である301号車(IV号戦車F型)のキューポラ(戦車長ハッチ)から上半身を出し、ハインリヒ・シュミット大尉は双眼鏡を覗き込みながら淡々と告げた。


 見渡す限り、麦畑と草原が地平線まで続く広大なソ連の平原。

 舗装された道路など一つもない。

 あるのは、乾ききった土が無限に続く大地だけだ。

 シュミットの指揮下にある20両の戦車群は、完璧な逆V字型(楔形)の陣形を組み、濛々たる土煙を上げながら時速25キロという快調なペースで進撃していた。


「大隊本部より通信。我が師団の先鋒は予定通り国境陣地を突破。敵に組織的な抵抗なし。本中隊はそのまま北東へ進路を取り、街道沿いの敵集結拠点を粉砕せよ、とのことです!」

 車内の無線手、フリッツ・バウアー伍長が、絶え間なく飛び交う電波の海から必要な情報だけを抽出して怒鳴る。

 彼の指は早くもモールス信号のキーを叩くため赤く腫れ始めていた。


「了解した。進路0-4-5へ微速修正」

 シュミットが指示を出すより早く、操縦手のカール・シュミット曹長が両手のレバーを僅かに引き、301号車の履帯が滑らかに進路を変える。

 フランスの時から続くこの流れるような挙動。 

 新しく換装された400mm幅の履帯は、ソ連の柔らかい土をしっかりと掴み、巨大な車体を安定させていた。


「大尉殿、11時方向、距離2500に土煙! 複数です!」

 砲手のハンス・ベルガー曹長が、照準器から目を離さずに報告した。

 元時計職人の彼の眼は、地平線のわずかな陽炎の揺らぎすら見逃さない。


 シュミットは双眼鏡のピントを合わせる。

 フランス戦の後にネーリング大佐から贈られた、カール・ツァイス社製の10倍双眼鏡。

 その右レンズに刻まれたシュトリッヒ(ミル目盛り)が、土煙の向こうの獲物との距離を冷徹に割り出していく。

 

 こちらに向かってくるのは、ソビエト赤軍の戦車部隊だ。

 アメリカのクリスティー式サスペンションを備えた快速戦車『BT-7』と、イギリスのヴィッカース社製戦車をルーツに持つ歩兵支援用の『T-26』軽戦車。

 ざっと数えて30両以上。

 数だけで言えば、シュミット中隊の1.5倍である。

 「BT(快速戦車)」の名が示す通り、時速70kmに達する圧倒的な機動力を誇る車両と、速度は控えめながらも信頼性に優れるT-26。

 どちらも45mm戦車砲という侮れない火力を備えていた。


 しかし、シュミットの青い瞳に一切の動揺はなかった。

 彼の脳内では、すでに敵の「絶望的な脆弱性」が数値化され、弾き出されていたのだ。


(陣形がバラバラだ。車両間の距離も一定ではない。無線を搭載していないのか、指揮官車らしき先頭の車両が旗を振って合図を出している。……大粛清で将校を失った赤軍とは、これほどまでに醜悪な方程式なのか)


 フランス軍のシャールB1重戦車と対峙した時のような、重厚な物理的圧力はない。

 目の前にいるのは、ただ無秩序に突進してくるだけの、鉄の烏合の衆だった。


「フリッツ、全小隊に伝達。陣形展開。第1小隊はそのまま直進し『盾』となれ。第2、第3小隊は左右に展開し、ハルダウン(射撃位置)を確保。第4小隊は遊撃位置で待機」

「はっ! 送信します!」

 フリッツの指が狂ったような速度でキーを叩く。

 刹那、中隊長車である301号車の砲塔から、同軸機関銃の鋭い発射音が轟いた。

 元時計職人である砲手ハンスの精密な射撃。

 放たれた7.92mm弾の一連射は空間を切り裂き、不器用に旗を振っていたソ連軍の先頭車両を正確に捉える。

 被弾して車外へ転げ落ちた指揮官は、無慈悲にも自らの後続車両の下敷きとなり、潰される。

 ソ連の原始的な通信網が完全に断たれた、その数秒後。

 シュミットの意志を受信した中隊が、まるで一つの巨大な生き物のように変形を始めた。


 中隊の要となる第1小隊長、フランツ・クライン少尉率いる4両のIV号戦車が、中隊の正面へと横一列に展開する。

『こちら第1小隊。盾の構築、完了した』

「フランツ、敵は45mm砲を搭載している。距離1000で足を止め、正面装甲で受けろ。我々のF型の正面装甲なら、あの距離での貫通はまず無い」

『了解。……全車、停止! 徹甲弾装填!』


 フランツの小隊が大地に根を下ろした直後、ソ連軍のBT-7の群れが一斉に発砲した。

 カンッ! ギィィィン!

 硬質な金属音が響き渡る。

 しかし、シュミットの計算通り、距離1000メートルから放たれたソ連軍の45mm砲弾は、新型IV号戦車の50mm前面装甲に浅い傷をつけるだけで、次々と火花を散らして弾き返された。

 ロシアの兵士たちが絶望的な顔で次弾を装填する間、シュミットの反撃の数式が起動する。


「第1小隊、撃て」


 ズドォォォォン!!

 フランツ小隊の短砲身7.5cm砲が一斉に火を噴いた。

 初速こそ遅いが、装甲の薄いBT-7やT-26にとっては致命的な破壊力を持つ弾頭が、吸い込まれるように敵戦車の車体正面に直撃する。

 爆発。

 吹き飛ぶ砲塔。

 『走る棺桶』と言われるBT-7は特に脆かった。

 瞬く間に4両のソ連戦車が黒煙を上げて炎上した。


「馬鹿め、正面で足を止めて撃ち合えば、装甲の厚い我々が勝つに決まっている。……左右から来るぞ」

 シュミットの言葉通り、正面からの突破を諦めたソ連軍の快速戦車部隊が、砂煙を上げて左右の側面に回り込もうと加速し始めた。

 無線のない彼らは、手旗信号で不器用に連携を取ろうとしている。

 だが、その不器用な機動の先には、すでにシュミットが配置した『見えない槍』が待ち構えていた。


『こちら第3小隊! 射撃位置、完璧に確保しました!』

 無線から、極度に慎重な第3小隊長、ヨハン・シュタイン軍曹の昂ぶった声が響く。

 彼の率いるIII号突撃砲の小隊は、平原のわずかな窪地に車体をすっぽりと隠し、砲身だけを敵の側面に突き出していた。

 生存本能の塊であるシュタインの「絶対に死なない遮蔽物を見つける嗅覚」は、広大なロシアの平原において神がかった威力を発揮していた。


「シュタイン、敵の側面にクロスファイア(十字砲火)を形成しろ。マイヤー、腕の見せ所だ」

『ヤーウォール(了解)! 砲手マイヤー、敵のバイザーを狙います!』

 ズパンッ!

 砲塔を持たない代わりに極端に車高が低いIII号突撃砲から放たれた一撃は、真横を走り抜けようとしていたBT-7の側面に直角に突き刺さった。

 シュタインの指示通りに完璧なタイミングで撃ち出されたマイヤーの砲弾は、側面に吸い込まれ、1秒置いてから敵の弾薬庫を誘爆させた。


『こちら第2小隊! 左翼の敵は俺たちがすり潰す!』

 左側面では、自信家のハルト軍曹が率いるIV号戦車F型で構成された小隊が、強引な機動で敵の射線をかいくぐりながら、近距離からの連続射撃を見舞っていた。

 操縦手のシュルツがエンジンを唸らせて急制動をかけ、敵が照準を合わせる前に、砲手のカスパルが引き金を引く。

 ハルトの狂信的なまでの「シュミットへの信頼」は、いかなる恐怖をも麻痺させ、彼の小隊を無敵の尖兵へと変えていた。


 右からシュタインの精密狙撃、左からハルトの強襲。

 そして正面には、びくともしないフランツの盾。

 砲塔を持つIV号戦車が敵の注意と前線を固定し、車高の低い突撃砲が死角から側腹を食い破る。

 これこそが、シュミットが編み出した「IV号・突撃砲混成中隊」のこの戦場における方程式の『解』だった。


 ソ連の戦車部隊は完全にパニックに陥っていた。

 指揮官車が真っ先に撃破されたことで、統制は完全に崩壊。

 通信手段を持たない彼らは、四方八方から飛んでくる砲弾の前に、ただ右往左往するだけの的へと成り下がった。


『大尉殿、俺の出番はまだっすかぁ?』

 呑気な声が無線に割り込んでくる。遊撃位置で待機している第4小隊のアルフレート・グリム軍曹だ。

「アルフレート。距離1500、方位0-9-0へ前進。そこから逃げようとしている残存部隊の退路を塞げ。適当に撃っていいぞ」

『了解っす! ゼーリヒ、適当に撃てってさ!』

『任せとけ、アルフレート! そぉい!』

 適当、と言いながら放たれたゼーリヒの砲弾は、なぜか逃走しようとしていたT-26の履帯をピンポイントで吹き飛ばし、後続の戦車がそれに追突するという大混乱を引き起こした。

 シュミットは微かに口角を上げる。彼らのもたらす「幸運」もまた、中隊の数式の一部として完全に機能していた。


「ハンス、残敵を掃討する。目標、正面の立ち往生しているT-26。距離800」

「了解。徹甲弾装填完了。……撃ちます」

 時計職人のハンスが精緻な指先で引き金を引く。

 301号車の主砲から放たれた砲弾が、標的の砲塔を根元から吹き飛ばした。


 戦闘開始から、わずか12分。

 地平線には、30両を超えるソ連赤軍の戦車が、黒煙を上げる鉄の墓標となって点在していた。

 対するシュミットの第3中隊の損害は、被弾によるかすり傷のみ。完全なるゼロである。


『敵部隊、完全沈黙。大尉殿、見事な勝利です』

 フランツ少尉からの冷静な報告が入る。無線越しにも、各車両の兵士たちが歓声を上げているのが聞こえた。


「計算通りの『解』が出たまでだ。各車、残弾を報告しろ。被害状況を確認後、ただちに進撃を再開する」

 シュミットは歓喜に同調することなく、無機質な声で告げた。

 彼はキューポラから身を乗り出したまま、燃え盛るソ連戦車の残骸を一瞥し、そしてさらにその先へと続く、果てしない地平線を見つめた。


(弱すぎる。……大粛清によって頭脳を失った軍隊など、分母にゼロが入るのと同じだ。計算する価値すらない)


 ドイツ陸軍の快進撃は、この日を境に全戦線で巻き起こっていた。

 空を支配し、地上で洗練された電撃戦を展開するドイツ軍の前に、ソ連軍は数十万人単位で包囲され、降伏し、あるいは殲滅されていった。

 誰もが「数週間でモスクワは落ちる」と確信し始めていた。


 しかし、シュミットの胸の奥底には、奇妙な冷たさが居座り続けていた。

 彼は手元の地図に目を落とす。

 今日だけで数十キロを進撃した。

 しかし、地図の上では、自分たちの現在地はほんの数ミリしか動いていない。


「……空間が、広大すぎる」


 シュミットは誰に言うともなく呟いた。

 戦術レベルでの敵は脆い。  

 だが、この『ロシアという大地』そのものの巨大さが、補給線の延長、履帯の摩耗、兵士の疲労という物理的な変数を、シュミットの脳内で不気味に増殖させ始めていた。


 どんなに敵を倒しても、景色が変わらない。

 この戦争は、短期決戦の証明問題ではない。

 解いても解いても終わりが見えない、無限に続く微積分なのだ。


「前進しろ。我々はただ、引かれたラインを突き進むだけだ」

 シュミットの号令が再び響き、第3中隊の20両の鉄獣が、死骸の原野を越えて東へ東へと泥土を削りながら進んでいく。


 圧倒的な勝利の余韻の中で、シュミットだけは、この巨大な方程式の「真の恐ろしさ」に気付き始めていた。

 

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