第21話 快進撃
1941年6月22日、午前3時15分。
歴史が後に「バルバロッサ作戦」と呼ぶことになるその日の夜明けは、東の空から昇る太陽の光によってではなく、大地を根底から揺るがす無数の砲閃によってもたらされた。
国境線に並べられたドイツ国防軍の重砲群が、一斉に火を噴く。
その腹の底に響くような轟音を合図として、前年のイギリス上空で苦酸を嘗めたルフトヴァッフェ(ドイツ空軍)の猛禽たちが、朝霧を切り裂いて東の空へと解き放たれた。
焼けた高オクタン価航空燃料の匂いと、鼓膜を震わせるエンジンの咆哮が、作戦の壮大さを物語っている。
彼らの最優先目標はただ一つ。
国境付近からソ連内陸部にかけて点在する、ソビエト赤軍の飛行場群を地図上から消し去ることである。
高度を下げ、朝焼けの雲海から現れたのは、洗練された流線型の機体だった。機首の空気抵抗を極限まで減らし、翼端に優美な丸みを帯びた最新鋭戦闘機『Bf109-F型』である。
彼らが制空権を確保する中、不気味なシルエットを持つ機体が獲物に狙いを定めた。
逆ガル翼と呼ばれる折り曲がった両翼と、猛禽の爪のような固定脚を備えた急降下爆撃機『Ju87-B型スツーカ』である。
「――全機、降下開始。目標、眼下の敵飛行場」
ノイズ混じりの冷徹な号令とともに、編隊長機が機体を降下させた。
操縦桿が押し込まれ、スツーカ特有の無骨な機首が真下を向く。
垂直に近い絶望的な角度での急降下だ。
まるで滝壺へ飛び込むように、次々と部隊が続く。
固定脚に取り付けられた風力サイレン、通称『ジェリコのラッパ』が、空気を切り裂きながら耳をつんざくような金切り声を響かせた。
それは、地上の兵士たちの神経を削り取る悪魔の絶叫だ。
重力に身を任せて投下された爆弾は、国境沿いの陣地や滑走路を正確に粉砕し、赤軍の出鼻を完全に挫いた。
しかし、ドイツ空軍の真の狙いは国境付近の破壊だけではなかった。
さらに奥深く、数百キロ内陸にあるソ連軍の深部飛行場群へと向かう別働隊がいた。
両翼の下に巨大な増加燃料タンク(増槽)を懸架し、航続距離を大幅に増加させた長距離奇襲型『Ju87-R型』の編隊である。
そして、この足の長いスツーカの直掩(護衛)として上空に張り付いていたのが、双発のエンジンを積んだ駆逐戦闘機『Me110』であった。
「……信じられん。連中、正気か?」
Me110のコックピットから眼下の飛行場を見下ろした23歳のリヒャルトは、思わず無線機越しに呆れたような声を漏らした。
朝霧が晴れた地平の先に広がっていたのは、軍事的な常識を疑うほどに無防備な光景だった。
広大な滑走路の脇には、ソビエト空軍の軍用機が、まるで航空ショーの品評会のように翼を連ねて綺麗に整列させられていたのである。
上空から見えにくくするための迷彩ネットすら被せられておらず、対空砲が火を噴く気配もない。
防空レーダーの警戒網はほとんど機能していなかった。
スターリンが下した「ドイツ軍の挑発に乗るな」という病的なまでの厳命が、前線の部隊をがんじがらめに縛り付けていたのだ。
結果として、彼らは自らを空からの完璧な「標的」として提示することになっていた。
敵の迎撃機が上がってこない以上、護衛任務であるMe110のパイロットたちは完全に手持ち無沙汰となっていた。
しかし、彼らが乗るこの双発機は、単なる付き添いの機体ではない。
機首には20mm機関砲2門と、7.92mm機銃4丁という、戦闘機としては規格外の重武装が集中配置されているのだ。
「各機、目標を変更! スツーカの爆撃に続き、地上の敵機を直接叩く!」
編隊長の歓喜に満ちた叫びが、無線のノイズ混じりに響き渡る。
「撃て! 一機たりとも空へ逃がすな!」
スツーカの投下した爆弾が格納庫と滑走路を吹き飛ばした直後、上空から獲物に襲い掛かるようにMe110が急降下した。
機首から放たれた曳光弾の軌跡が、真っ直ぐにソビエト軍機群の列へと吸い込まれていく。
分厚いコンクリートを砕くことはできなくとも、薄いジュラルミンや布張りの機体を引き裂き、燃料タンクを引火させるには十分すぎる火力だった。
連鎖的な大爆発が基地全体を飲み込み、大地が猛火に包まれる。
最新鋭の『MiG-3』や、ずんぐりとした旧式の『I-16』戦闘機など、千機以上という赤軍の航空機が、一度もプロペラを回すことすら許されず、ただの薪のように焼き払われていった。
「飛べ! エンジンを回せ!」
地上の阿鼻叫喚の中、一部の勇敢なソ連パイロットたちが、燃え盛る炎の中を掻き分けて愛機に飛び乗った。
彼らは爆風で荒れた滑走路を無理やり走り、決死の覚悟で離陸を試みる。
だが、その勇気は無惨な結果に終わるしかなかった。
すでに上空で旋回しながら獲物を手ぐすね引いて待っているBf109やMe110にとって、速度も高度も乗っていない離陸直後の機体など、止まっている的も同然である。
車輪が地上から浮いた次の瞬間、雨あられと降り注ぐ機関砲弾が機体を容赦なく貫き、火ダルマとなったソ連機はそのまま滑走路の端へと墜落していった。
ようやくフラフラと上昇態勢に入った一機のMiGが、たった一連射で砕けて四散する。
黒煙の柱が、次々と朝の空へ立ち昇っていく。
――――開戦初日。
わずか数時間のうちに起きた一方的な大虐殺。
ドイツ空軍がこの日だけで破壊したソビエト軍の航空機は、地上と空中を合わせて実に1,800機近くに上ったとされている。
対するドイツ側の損害は、わずか数十機。
軍事史において類を見ない、あまりにも完璧な奇襲の成功であった。
大地には数え切れないほどの機体の残骸が燻り、ソビエト兵たちの絶望の叫びが焦げた風に掻き消されていく。
この瞬間――ソ連国境周辺の広大で果てしない空の支配権は、完全にドイツ国防軍の手中に収まったのである。
バルバロッサの恐るべき鉄槌は、こうして振り下ろされた。
空からの脅威を排除されたドイツ陸軍の機甲部隊は、いよいよその無慈悲なキャタピラの音を響かせ、果てしない東の平原へと雪崩れ込んでいったのである。
「上空の爆撃機はすべて味方だ。対空監視は不要だ。索敵のすべてを地平線へ向けろ」
グーデリアン直轄として再編された第22装甲師団。
第1戦車大隊、第3中隊。
中隊長車である301号車(IV号戦車F型)のキューポラから上半身を出し、ハインリヒ・シュミット大尉は双眼鏡を覗き込みながら淡々と告げた。
見渡す限り、麦畑と草原が地平線まで続く広大なソ連の平原。
舗装された道路など一つもない。
あるのは、乾ききった土が無限に続く大地だけだ。
シュミットの指揮下にある20両の戦車群は、完璧な逆V字型(楔形)の陣形を組み、濛々たる土煙を上げながら時速25キロという快調なペースで進撃していた。
「大隊本部より通信。我が師団の先鋒は予定通り国境陣地を突破。敵に組織的な抵抗なし。本中隊はそのまま北東へ進路を取り、街道沿いの敵集結拠点を粉砕せよ、とのことです!」
車内の無線手、フリッツ・バウアー伍長が、絶え間なく飛び交う電波の海から必要な情報だけを抽出して怒鳴る。
彼の指は早くもモールス信号のキーを叩くため赤く腫れ始めていた。
「了解した。進路0-4-5へ微速修正」
シュミットが指示を出すより早く、操縦手のカール・シュミット曹長が両手のレバーを僅かに引き、301号車の履帯が滑らかに進路を変える。
フランスの時から続くこの流れるような挙動。
新しく換装された400mm幅の履帯は、ソ連の柔らかい土をしっかりと掴み、巨大な車体を安定させていた。
「大尉殿、11時方向、距離2500に土煙! 複数です!」
砲手のハンス・ベルガー曹長が、照準器から目を離さずに報告した。
元時計職人の彼の眼は、地平線のわずかな陽炎の揺らぎすら見逃さない。
シュミットは双眼鏡のピントを合わせる。
フランス戦の後にネーリング大佐から贈られた、カール・ツァイス社製の10倍双眼鏡。
その右レンズに刻まれたシュトリッヒ(ミル目盛り)が、土煙の向こうの獲物との距離を冷徹に割り出していく。
こちらに向かってくるのは、ソビエト赤軍の戦車部隊だ。
アメリカのクリスティー式サスペンションを備えた快速戦車『BT-7』と、イギリスのヴィッカース社製戦車をルーツに持つ歩兵支援用の『T-26』軽戦車。
ざっと数えて30両以上。
数だけで言えば、シュミット中隊の1.5倍である。
「BT(快速戦車)」の名が示す通り、路上走行で時速50km以上に達する圧倒的な機動力を誇る車両と、速度は控えめで信頼性にも劣るT-26。
どちらも45mm戦車砲という侮れない火力を備えていた。
しかし、シュミットの青い瞳に一切の動揺はなかった。
彼の脳内では、すでに敵の「絶望的な脆弱性」が数値化され、弾き出されていたのだ。
(陣形がバラバラだ。車両間の距離も一定ではない。無線を搭載していないのか、指揮官車らしき先頭の車両が旗を振って合図を出している。……大粛清で将校を失った赤軍とは、これほどまでに醜悪な方程式なのか)
フランス軍のシャールB1重戦車と対峙した時のような、重厚な物理的圧力はない。
目の前にいるのは、ただ無秩序に突進してくるだけの、鉄の烏合の衆だった。
「フリッツ、全小隊に伝達。陣形展開。第1小隊はそのまま直進し『盾』となれ。第2、第3小隊は左右に展開し、ハルダウン(隠匿射撃姿勢)を確保。第4小隊は遊撃位置で待機」
「はっ! 送信します!」
フリッツの指が狂ったような速度でキーを叩く。
刹那、中隊長車である301号車の砲塔から、同軸機関銃の鋭い発射音が轟いた。
元時計職人である砲手ハンスの精密な射撃。
放たれた7.92mm弾の一連射は空間を切り裂き、不器用に旗を振っていたソ連軍の先頭車両を正確に捉える。
被弾して車外へ転げ落ちた指揮官は、無慈悲にも自らの後続車両の下敷きとなり、潰される。
ソ連の原始的な通信網が完全に断たれた、その数秒後。
シュミットの意志を受信した中隊が、まるで一つの巨大な生き物のように変形を始めた。
中隊の要となる第1小隊長、フランツ・クライン少尉率いる4両のIV号戦車が、中隊の正面へと横一列に展開する。
『こちら第1小隊。盾の構築、完了した』
「フランツ、敵は45mm砲を搭載している。距離1000で足を止め、正面装甲で受けろ。我々のF型の正面装甲なら、あの距離での貫通はまず無い」
『了解。……全車、停止! 徹甲弾装填!』
フランツの小隊が大地に根を下ろした直後、ソ連軍のBT-7の群れが一斉に発砲した。
カンッ! ギィィィン!
硬質な金属音が響き渡る。
しかし、シュミットの計算通り、距離1000メートルから放たれたソ連軍の45mm砲弾は、新型IV号戦車の50mm前面装甲に浅い傷をつけるだけで、次々と火花を散らして弾き返された。
ロシアの兵士たちが絶望的な顔で次弾を装填する間、シュミットの反撃の数式が起動する。
「第1小隊、撃て」
ズドォォォォン!!
フランツ小隊の短砲身7.5cm砲が一斉に火を噴いた。
初速こそ遅いが、装甲の薄いBT-7やT-26にとっては致命的な破壊力を持つ弾頭が、吸い込まれるように敵戦車の車体正面に直撃する。
――――爆発。
吹き飛ぶ砲塔。
『走る棺桶』と言われるBT-7は特に脆かった。
瞬く間に4両のソ連戦車が黒煙を上げて炎上した。
「馬鹿め、正面で足を止めて撃ち合えば、装甲の厚い我々が勝つに決まっている。……左右から来るぞ」
シュミットの言葉通り、正面からの突破を諦めたソ連軍の快速戦車部隊が、砂煙を上げて左右の側面に回り込もうと加速し始めた。
無線のない彼らは、手旗信号で不器用に連携を取ろうとしている。
だが、その不器用な機動の先には、すでにシュミットが配置した『見えない槍』が待ち構えていた。
『こちら第3小隊! 射撃位置、確保しました!』
無線から、極度に慎重な第3小隊長、ヨハン・シュタイン軍曹の昂ぶった声が響く。
彼の率いるIII号突撃砲の小隊は、平原のわずかな窪地に車体のほとんどをすっぽりと隠し、砲身を敵の側面に突き出していた。
生存本能の塊であるシュタインの「絶対に死なない遮蔽物を見つける嗅覚」は、広大なロシアの平原において神がかった威力を発揮していた。
「シュタイン、敵の側面にクロスファイア(十字砲火)を形成しろ。マイヤー、腕の見せ所だ」
『ヤーウォール(了解)! 砲手マイヤー、敵のバイザーを狙います!』
ズパンッ!!!
砲塔を持たない代わりに極端に車高が低いIII号突撃砲から放たれた一撃は、真横を走り抜けようとしていたBT-7の側面に直角に突き刺さった。
シュタインの指示通りに完璧なタイミングで撃ち出されたマイヤーの砲弾は、側面に吸い込まれ、1秒置いてから敵の弾薬庫を誘爆させた。
『こちら第2小隊! 左翼の敵は俺たちがすり潰す!』
左側面では、自信家のハルト軍曹が率いる第一小隊と同じIV号戦車で構成された小隊が、強引な機動で敵の射線をかいくぐりながら、近距離からの連続射撃を見舞っていた。
操縦手のシュルツがエンジンを唸らせて急制動をかけ、敵が照準を合わせる前に、砲手のカスパルが引き金を引く。
ハルトの狂信的なまでの「シュミットへの信頼」は、いかなる恐怖をも麻痺させ、彼の小隊を無敵の尖兵へと変えていた。
右からシュタインの精密狙撃、左からハルトの強襲。
そして正面には、びくともしないフランツの盾。
砲塔を持つIV号戦車が敵の注意と前線を固定し、車高の低い突撃砲が死角から側腹を食い破る。
これこそが、シュミットが編み出した「IV号・突撃砲混成中隊」のこの戦場における方程式の『解』だった。
ソ連の戦車部隊は完全にパニックに陥っていた。
指揮官車が真っ先に撃破されたことで、統制は完全に崩壊。
通信手段を持たない彼らは、四方八方から飛んでくる砲弾の前に、ただ右往左往するだけの的へと成り下がった。
『大尉殿、俺の出番はまだっすかぁ?』
呑気な声が無線に割り込んでくる。遊撃位置で待機している第4小隊のアルフレート・グリム軍曹だ。
「アルフレート。距離1500、方位0-9-0へ前進。そこから逃げようとしている残存部隊の退路を塞げ。お前は適当に撃っていいぞ。他の車両はコイツの真似はするな」
『了解っす! ゼーリヒ、適当に撃てってさ!』
『任せとけ、アルフレート! そぉい!』
適当、と言いながら放たれたゼーリヒの砲弾は、なぜか逃走しようとしていたT-26の履帯をピンポイントで吹き飛ばし、後続の戦車が三両続けてそれに追突するという大混乱を引き起こした。
シュミットは微かに口角を上げる。彼らのもたらす「幸運」もまた、中隊の数式の一部として完全に機能していた。
「ハンス、残敵を掃討する。目標、正面の立ち往生しているT-26。距離800」
「了解。徹甲弾装填完了。……撃ちます」
戦車時計職人のハンスが精緻な指先で引き金を引く。
301号車の主砲から放たれた砲弾が、標的の砲塔を根元から吹き飛ばした。
戦闘開始から、わずか12分。
地平線には、30両を超えるソ連赤軍の戦車が、黒煙を上げる鉄の墓標となって点在していた。
対するシュミットの第3中隊の損害は、被弾によるかすり傷のみ。完全なるゼロである。
『敵部隊、完全沈黙。大尉殿、見事な勝利です』
フランツ少尉からの冷静な報告が入る。無線越しにも、各車両の兵士たちが歓声を上げているのが聞こえた。
「計算通りの『解』が出たまでだ。各車、残弾を報告しろ。被害状況を確認後、ただちに進撃を再開する」
シュミットは歓喜に同調することなく、無機質な声で告げた。
彼はキューポラから身を乗り出したまま、燃え盛るソ連戦車の残骸を一瞥し、そしてさらにその先へと続く、果てしない地平線を見つめた。
(弱すぎる。……大粛清によって頭脳を失った軍隊など、係数にゼロが入るのと同じだ。計算する価値すらない)
ドイツ陸軍の快進撃は、この日を境に全戦線で巻き起こっていた。
空を支配し、地上で洗練された電撃戦を展開するドイツ軍の前に、ソ連軍は数十万人単位で包囲され、降伏し……あるいは殲滅されていった。
誰もが「数週間でモスクワは落ちる」と確信し始めていた。
しかし、シュミットの胸の奥底には、奇妙な冷たさが居座り続けていた。
彼は手元の地図に目を落とす。
今日だけで数十キロを進撃した。
しかし、地図の上では、自分たちの現在地はほんの数ミリしか動いていない。
「……空間が、広大すぎる…………兵站の計算が崩れなければ良いのだがな」
シュミットは誰に言うともなく呟いた。
戦術レベルでの敵は脆い。
だが、この『ロシアという大地』そのものの巨大さが、補給線の延長、履帯の摩耗、兵士の疲労という物理的な変数を、シュミットの脳内で不気味に増殖させ始めていた。
どんなに敵を倒しても、景色が変わらない。
この戦争は、短期決戦の証明問題ではない。
解いても解いても終わりが見えない、無限に続く微積分なのだ。
「前進しろ。我々はただ、引かれたラインを突き進むだけだ」
シュミットの号令が再び響き、第3中隊の20両の鉄獣が、死骸の原野を越えて東へ東へと泥土を削りながら進んでいく。
圧倒的な勝利の余韻の中で、シュミットだけは、この巨大な方程式の「真の恐ろしさ」に気付き始めていた。




