第20話 バルバロッサ
1941年、春。
ヨーロッパ大陸を覆い尽くした鉄十字の鷲は、西の海峡でその歩みを止めていた。
前年の「バトル・オブ・ブリテン」において、ドイツ空軍はイギリス上空の制空権を奪取することに失敗した。
海には依然として世界最強のイギリス王立海軍が君臨しており、ドイツ陸軍がドーバー海峡を渡る「アシカ作戦」は事実上の無期限延期となっていた。
西の防波堤を崩せなかった第三帝国総統アドルフ・ヒトラーの野望は、逆の方向――すなわち、広大なユーラシア大陸の東部へと向けられることになった。
「イギリスが降伏しない理由はただ一つ。背後にソビエト連邦という巨大な陸軍国家が控えているからだ。あの共産主義の赤い巨人を叩き潰せば、イギリスは希望を失い、我々の前に膝をつく」
ベルリンの総統官邸、巨大な大理石の机に広げられた地図を前に、ヒトラーは熱弁を振るっていた。
彼の指が、ポーランドの国境線を越え、ミンスク、スモレンスク、そしてモスクワへと無造作に線を引く。
「ソビエトは粘土の巨人だ。図体ばかりが大きく、内実は腐りきっている。我々がその入り口のドアを蹴り破れば、建物全体が音を立てて崩れ落ちるだろう」
敵の精神的弱さを前提にした作戦。
かくして、人類史上最大の陸上侵攻作戦が立案された。
暗号名『バルバロッサ』。
かつて第3回十字軍を率いた神聖ローマ帝国皇帝、フリードリヒ1世……赤髭王と言われた男の名を冠したこの作戦は、ドイツ国防軍の精鋭300万人、戦車3000両、航空機3000機を東部国境に集結させ、一挙にソ連軍を殲滅するという途方もないものだった。
それは単なる領土の奪い合いではなかった。
ファシズムと共産主義、アーリア人とスラブ人。
互いの生存圏とイデオロギーを懸けた、一切の妥協が許されない「絶滅戦争」の幕開けであった。
同じ頃。
モスクワのクレムリン宮殿、分厚い壁に囲まれた執務室で、ソビエト連邦の最高指導者ヨシフ・スターリンは、一本の報告書を苛立たしげに机に放り投げた。
「またイギリスからの『親切な警告』か。……チャーチルの魂胆など見え透いている。我々とドイツを戦わせ、自分たちの負担を減らそうという資本主義者の浅知恵だ」
スターリンの机には、世界中に散らばる諜報員……リヒャルト・ゾルゲらから集められた「ドイツ軍国境集結」の報告が山のように積まれていた。
しかし、スターリンはそれらの情報をすべて「挑発」として退けた。
彼は独ソ不可侵条約を頑なに信じていたわけではない。
いつか必ずヒトラーと激突する日は来る。
だが、それは今ではないと計算していたのだ。
前年のフィンランドとの「冬戦争」で、ソ連赤軍はその弱体ぶりを世界に露呈していたのだ。
1930年代後半にスターリン自身が行った「大粛清」により、将校のほとんどを処刑してしまったツケが回ってきていたのである。
いざ戦場に出して初めてわかったのだ。
「軍事を知らない軍隊」がいかに脆い存在であるかということを。
(軍の再建には、あと2年は必要だ。今は何としてもドイツとの戦争を避けねばならない)
スターリンは極度のパラノイア(偏執病)に陥りながらも、ドイツを刺激しないよう、狂気じみた命令を下し続けていた。
「国境地帯の部隊は、いかなる挑発にも乗るな。反撃は許可しない。そしてドイツへの物資の輸出は、契約通り、いやそれ以上に滞りなく遂行しろ」
1941年の春から初夏にかけて、奇妙で皮肉な光景が国境地帯で繰り広げられた。
東へ向けて息を殺して集結していくドイツ軍の装甲部隊のすぐ横を、ソ連からドイツへ向かう貨物列車が、何百万トンもの小麦、石油、マンガンを積んで、汽笛を鳴らしながら西へと通り過ぎていったのである。
ソ連は、自分たちを殺すための剣を鍛える「燃料」を、最後の最後まで自らの手でヒトラーに渡し続けていたのだ。
世界は、この二つの巨大な国家の激突を固唾を飲んで見守っていた。
極東の島国、大日本帝国。
彼らは前年にドイツ・イタリアと「日独伊三国同盟」を結んでいたが、北のソ連の脅威を取り除くため、1941年4月に「日ソ中立条約」を締結した。
日本は泥沼化する中国大陸での戦いと、アメリカによる経済制裁(石油禁輸)の圧迫に苦しんでおり、活路を東南アジアの資源地帯に求めていた。
南進論の要因である。
松岡洋右外相は、モスクワでスターリンと抱き合い、互いの背中の安全を保障し合う滑稽なデモンストレーションを行う。
それは日本は南へ、ソ連は西へ集中するための友情なき喜劇であった。
そして、大西洋の向こう側、アメリカ合衆国。
フランクリン・D・ルーズベルト大統領は、依然として孤立主義を保つ国内世論を睨みながら、「レンドリース法(武器貸与法)」を通じてイギリスを延命させ、自国の巨大な工業力を戦争経済へとシフトさせつつあった。
「もしドイツがソ連に攻め込めば、我々は悪魔と手を結んででも、あのヒトラーという怪物を止めねばならない」
ファシストと共産国家を天秤にかけた時、わずかに共産国家の方がマシだったのだ。
ルーズベルトは、世界地図の東半分が赤く染まる最悪のシナリオを想定し、密かに動き始めていた。
歴史の歯車が、後戻りのできない破滅へ向けて、不気味な軋み音を立てて回り始めていた。
1941年6月中旬。
ポーランド東部、ソ連国境付近の広大な針葉樹林。
むせ返るような夏の湿気と、どこからともなく湧いてくる不快な虫の羽音が、兵士たちの神経を削り取っていた。
見渡す限りの森の中に、木々の枝や偽装網で念入りに隠された鋼鉄の群れが息を潜めている。
ハインツ・グーデリアン上級大将率いる第2装甲集団。
フランス戦で電撃戦の猛威を世界に見せつけたこの機動部隊は、さらなる巨大な刃となって、この東の果てに集結していた。
その麾下。
第1装甲師団、第1戦車大隊、第3中隊の陣地。
木漏れ日の中、大尉の襟章をつけたハインリヒ・シュミットは、泥にまみれた長靴の底で硬い土を踏みしめながら、自らに与えられた「20両の鋼鉄の塊(戦車)」を見渡していた。
主力となるのはIV号戦車F型が二個小隊。
フランス戦で搭乗したD型のツギハギの30mm装甲から、一枚板の50mm鋼板へと強化された前面装甲。
さらに、360mmから400mmに拡大された履帯の幅が、泥濘地でも軽快な走行を可能にしていた。
そして残る二個小隊には、III号突撃砲E型が配備されていた。
本来、管轄の異なる突撃砲を戦車中隊に組み込むことは異例だが、これはシュミットがグーデリアンに要請して受け入れられた特別措置であった。
大隊長であるハンス・ヴェーバー少佐からの命令「君の中隊が、我が大隊の槍の穂先となる」。
シュミットの元直属の上官であり、現在は第6中隊を率いるカール・シュナイダー大尉もまた、少し離れた陣地から、この特異な「数学者」が率いる部隊の動向を注視しているはずだった。
「中隊長殿。各小隊の燃料および弾薬の再点検、完了いたしました」
第1小隊長のフランツ・クライン少尉が、規律正しく敬礼した。
大学時代からの旧友であり、実直な彼は、中隊という巨大な組織を動かすシュミットにとって最も信頼できる「友人」でもあり「伝達のハブ」でもあった。
「ご苦労、フランツ。履帯の張り具合はどうだ? この先のロシアの平原は、フランスの舗装路とは違う。計算上の摩擦係数は最低でも3倍に見積もっておく必要がある」
「抜かりはありません。エリック(フェルナー軍曹)が、全車両のサスペンションを細かく調整しています」
シュミットの視線の先では、かつて同じ小隊で戦った仲間たちが、今はそれぞれの小隊長として戦車のハッチから身を乗り出していた。
第2小隊長に昇進したヴィルヘルム・ハルト軍曹は、相変わらず自信に満ちた笑みを浮かべながら、砲手のカスパルと何やら賭けをしているようだ。
彼はシュミットの複雑な幾何学戦術を完全に理解しているわけではないが、「シュミットの指示通りに動けば必ず敵を殺せる」という狂信に近い信頼を寄せ始めていた。
対照的に、第3小隊長のヨハン・シュタイン軍曹は、突撃砲の装甲を神経質に叩きながら、不安げに国境の東の空を見つめている。
臆病で生存本能の塊である彼だが、だからこそ「絶対に死なないための遮蔽物」を見つける嗅覚は誰よりも鋭い。
そして第4小隊を任されたアルフレート・グリム軍曹。
彼は鼻唄を歌いながら、支給されたばかりの黒パンをかじっていた。
彼の存在はシュミットの精密な数式の中に時折生じる「読めない変数」だが、戦場という不確実な空間において、その変数がとんでもない勝利を呼び寄せるのをシュミットは知っていた。
「大尉殿」
背後から声をかけられた。
中隊本部車(301号車)の専属無線手として新たに配属された若者、フリッツ・バウアー伍長だ。
彼の目の下にはすでに濃いクマができている。
シュミットの脳内で毎秒更新される戦術指示を、20両の戦車へ遅滞なくモールス信号で打ち込み続けるという過酷な任務のせいだ。
戦車戦におけるシュミットの指示は、並の中隊長の三倍である。
「大隊本部より暗号通信です。……『ドルトムント(Dortmund)』」
その単語を聞いた瞬間、シュミットの青い瞳が微かに収縮した。
ドルトムント。
それは、作戦発動を告げる最終の暗号符丁だった。
「……ついに来たか」
シュミットは自らの搭乗車、301号車に歩み寄る。
ハッチから顔を出していた砲手のハンス・ベルガー曹長と、操縦席のカール・シュミット曹長が、無言で頷いた。
ハンスはかつて時計職人だった男だ。
彼はこのIV号戦車を、破壊兵器ではなく「因果を制御する巨大な精密機械」として愛している。
そして操縦手のカールは、シュミットの異常な演算速度を、瞬時にエンジンの回転数という物理的回答に変換できる唯一の男だった。
「総員に通達」
シュミットの低く、しかし通る声が、夕闇が迫る森に響いた。
20両の戦車の周りにいた兵士たちの動きがピタリと止まる。
「総統閣下よりの布告である。『兵士諸君、君たちは今、世界史上最大の戦いの前夜にある。東方の運命は、君たちの手にかかっている』」
定型句の読み上げを終えると、シュミットは手元の紙を折りたたみ、ポケットにしまった。
政治的な大義や、人種的な熱狂など、彼には何一つ興味がなかった。
彼が視ているのは、常に冷徹な数字だけだ。
数学で戦域を支配する――ただそれだけだ。
「これより我々は、未知の戦場へと侵入する。敵の数、装甲の厚さ、地形……すべてが未知数である」
シュミットは、ずらりと並んだ部下たちの顔を一人一人見据えた。
「だが、恐れることはない。我々が為すべき事は、フランスの時と何一つ変わらない。無駄な感情は捨てろ。己の戦車を信じ、隣の僚機を信じ、そして私の計算に従え……私の指示した角度を保ち、私の引いたラインを進むのだ」
それは軍人としての熱い鼓舞というよりは、冷徹な数学教授による講義のようだった。
しかし、第3中隊の古参兵たちの目には、狂気じみた信頼の光が宿っていた。
この「数学バカ」の計算通りに動けば、自分たちは必ず生き残り、そして勝つことができる。そう信じていた。
不安げに表情を硬くする新兵たちには、彼ら古参兵が肩を叩き、「ただ中隊長を信じろ」と低く声をかけて回る。
「アウフシッツェン(乗車)! エンジン始動!」
シュミットの号令と同時に、静寂に包まれていた森が、咆哮を上げた。
マイバッハ・エンジンの重低音が重なり合い、排気ガスが立ち昇る。
20両の鉄の獣が、その巨体を震わせながら目覚めた。
その轟音は、森の彼方まで連なる数千両の戦車群のエンジン音と同調し、大地そのものを揺るがす巨大な地鳴りへと変わっていく。
1941年6月22日、午前3時15分。
東の空が白み始めたその時、国境線に沿って並べられた数千門のドイツ軍野砲が、一斉に火を噴いた。
空を切り裂く砲弾のすさまじい風切り音とともに、世界は決定的に破滅の修羅道へと足を踏み入れた。
「フォアヴェルツ(前進)!」
シュミット大尉の短く鋭い号令とともに、301号車が泥土を蹴立てて走り出す。
その後を追うように、フランツ、ハルト、シュタイン、グリムの各小隊が、完璧な幾何学陣形を保ったまま森を抜け、広大な東の平原へと躍り出た。
誰も解いたことのない、残酷なほど巨大な数式――『バルバロッサ』が、今、起動したのである。




