第24話 傀儡の総統
ベルリン、ヴィルヘルム街の総統官邸。
お抱え建築家アルベルト・シュペーアが設計した、権力の誇示そのものとも言える広大な執務室の中で、第三帝国総統アドルフ・ヒトラーの機嫌は最高潮に達していた。
磨き抜かれた分厚い大理石の床の上を、彼の軍靴がリズミカルな音を立てて往復している。
彼の視線の先には、壁一面を覆い尽くす巨大な世界地図が広げられていた。
ユーラシア大陸の西側、ソビエト連邦の広大な領土。
そこには、軍の進撃を示す無数の赤いピンと、小さなハーケンクロイツ(鉤十字)の旗が、次々と突き立てられていた。
バルバロッサ作戦。
自らが決断し、軍部に立案させて発動させた人類史上最大の陸上侵攻は、彼の予測通り、いや、予測以上の圧倒的な戦果を挙げつつあった。
「素晴らしい……。泥の巨人は、我らがゲルマンの鉄の前に音を立てて崩れ去っている。モスクワが落ちるのも、もはや時間の問題に過ぎない」
独裁者は自らの天才的な直感と指導力に陶酔し、うっとりと地図上のソビエト領を撫でた。
彼の脳内では、すでにウラル山脈の彼方まで広がる広大なレーベンスラウム(生存圏)に、黄金色の麦の穂が揺れる幻影すら見えていた。
それは全てがドイツの物だ。
しかし、前線では補給線の長大化や、戦車の履帯を削るロシアの大地の恐るべき広大さに現場の将兵が絶望し始めているという報告も上がってきていた。
無能な政治家であれば、「臆病風に吹かれたか」と一蹴していたかもしれない。
だが、この時のヒトラーは、それらの不都合な報告を冷徹な理性で受け止め、密かに深い懸念を抱き始めていた。
(近々行う前線視察の時に、グーデリアンら野戦指揮官どもと綿密な擦り合わせをしておかねばならんな。補給を無視した無意味な直進は愚策の極みだ。まずは政治的象徴である都市を確実に抑え、次いで南の資源地帯で戦車の血である『燃料』を確保する……。冬季の雪原で軍を壊滅させるような、あのナポレオンの愚を、この私が繰り返すわけにはいかないのだ)
天才的な直感の裏に潜む、冷徹な戦略眼。
彼が真に恐るべき指導者たる所以であった。
その時である。
ノックの音もなく、執務室の重厚な樫の扉が、軋み音一つ立てずに静かに開いた。
機嫌を害して振り返ったヒトラーの目に飛び込んできたのは、党官房長マルティン・ボルマンの姿だった。
常に自分の影のように付き従い、目立たず、事務処理をこなす忠実な猟犬として振る舞ってきた男だ。
しかし、今日のボルマンの纏う空気は、決定的に異なっていた。
彼の肉厚な右手には、人間が一人すっぽりと入るほどに巨大で、不自然な形をした分厚い革張りのトランクが握られていたのだ。
そして、その後ろに、怯えたようなもう一つの影が立っている。
「どうしたマルティン? 誰の許可を得て入室した? それに、その馬鹿げた荷物はなんだ?」
ヒトラーは怪訝そうに眉をひそめた。だが、次の瞬間、彼の心臓が不快なリズムで大きく跳ねた。
ボルマンの背後から、おずおずと姿を現したその男。
彼は、自分と全く同じカッティングの特注軍服を身に纏い、同じように黒髪を斜めに撫でつけ、同じ鼻の下のちょび髭を蓄えていた。
かつてイギリスに渡り、自らの血筋を利用して三流雑誌に記事を売り払った、あの忌まわしき不肖の甥。
ウィリアム・パトリック・ヒトラー。
鏡写しのような、しかし決定的に「卑屈で小者然とした」自らの偽物が、そこには立っていたのである。
「マルティン……? なんだこれは。どういうつもりだ?」
ヒトラーの甲高い声に、初めてかすかな震えが混じった。
彼の異常に発達した猜疑心が、最悪のシナリオを瞬時に弾き出していく。
「……まさか……私を、その三文役者と入れ替えるつもりだとでも言うのか?」
ボルマンは答えない。
ただ、小太りの脂ぎった顔に、長年隠し続けてきた底知れぬ野心と、主を見下すような冷酷な嘲笑を浮かべているだけだった。
その沈黙が、すべてを物語っていた。
ヒトラーの顔が紅潮し、怒りで首の血管が浮き上がる。
「き、貴様ら……! この私が誰だと思っている! 大ドイツ帝国の総統だぞ!!」
激昂して怒鳴り声を上げ、卓上のベル(呼び鈴)に手を伸ばそうとしたその時。
開かれたままの扉の奥から、軍靴の踵が鳴らす、さらに二つの足音が響いた。
黒革のコートを翻して現れたのは、国家保安本部長官ラインハルト・ハイドリヒ。
そして親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーであった。
自らの権力を根底から支える、最も強力な秘密警察と暴力装置のトップ二人。
彼らの姿を見たヒトラーは、安堵よりも先に、怒りに任せた命令を絶叫していた。
「ハイドリヒ! ヒムラー! マルティンが狂った! 今すぐこの反逆者を逮捕しろ! 抵抗したら撃ち殺せ!!」
巨大な執務室の天井に響き渡る総統の絶叫。
しかし、ハイドリヒもヒムラーも、微動だにしなかった。
ヒムラーは無機質な円眼鏡の奥の目を伏せ、ハイドリヒに至っては、その氷のような青い瞳に一切の感情を浮かべていなかった。
ハイドリヒの視線は、敬意でも忠誠でもなく、まるで屠殺場に引き出された哀れな家畜を値踏みするような、絶対零度の冷徹さでヒトラーを貫いていた。
「……お分かりにならないのですか、閣下」
ハイドリヒの静かで、死神の吐息のような囁きが部屋に落ちた。
「狂っているのは、あなたの方です。あなたの素人じみた国家運営は、我が帝国にはもう不要なのです」
ヒトラーが目を見開き、何かを言いかけた直後だった。
プスッ、という鈍い、空気を小さく叩くような音が一つ鳴った。
ハイドリヒの革手袋に包まれた手に握られた、サプレッサー(消音器)付きのルガーP08。
そこから放たれた9ミリパラベラム弾が、ヒトラーの心臓を物理的な狂いもなく、正確に撃ち抜いていた。
特注のそれは一発撃つという役目を終えてトグルが閉鎖している。
「ガッ……、あ……」
独裁者の口から、大量の血の泡が溢れ出す。彼の手が空を掻き、膝から崩れ落ちた。
第三帝国を立ち上げた男が、一発の鉛玉によって容易に機能を停止する。
見開かれた瞳に最後に映ったのは、輝かしい世界地図ではなく、自らの胸から豪奢なペルシャ絨毯へと止めどなく広がる、どす黒く赤い血溜まりであった。
世界を熱狂させ、そして恐怖の底に叩き落とした男は、自らの帝国の中心で、誰にも看取られることなく、ただの血肉の塊へと成り果てた。
「……見事な手際だな、長官。部屋も汚れずに済んだ」
ボルマンがひどく事務的な、冷たい声で言い放つと、彼はすぐさま持参した巨大な革のトランクを床に広げた。
そして、つい数秒前まで絶対の権力者だった『物体』を、まるで不用品を片付けるかのような粗雑な手つきで折り曲げ、詰め込み始めた。
「SS(親衛隊)の特別処理班を中庭に待機させてある。彼らには『極秘の焼却処分書類』と伝えてある。中身を改められることもなく、すべてはただの灰になる手筈だ。……さあ、ウィリアム。前へ出ろ」
ボルマンに呼ばれ、部屋の隅でガタガタと歯の根を鳴らして震えていた青年が、青ざめた顔で総統のデスクへと歩み寄る。
叔父の死を目の当たりにした恐怖で、彼は情けなく震えていた。
ハイドリヒが、氷結するような冷ややかな視線で偽物の背中を押した。
「泣いて震えている暇はないぞ、ウィリアム。血痕を拭き、その玉座に座れ。今日からお前が、この偉大なる帝国の主なのだからな。……さあ、望むままの富と女が待っているぞ」
こうして、世界の運命を決める歴史の巨大な歯車は、ベルリンの密室で音を立ててすり替えられたのである。
ウィリアムの歩むはずだった人生は、あるユダヤ人が自分の人生と引き換えに生きていくはずだった。
数日後。
新総統による、バルバロッサ作戦の戦況とゲルマン民族の優位性を告げるラジオ演説が、帝国の全土に向けて一斉に放送された。
各家庭、街角、工場のスピーカーから流れるその声、イントネーション、怒りに満ちた間の取り方、目に見えるように拳を振り下ろす力強い語気。
それは、隠れ家で老役者から徹底的に叩き込まれた、血の滲むような演劇指導の賜物であった。
さらに、ウィリアム自身が抱える「底知れぬ恐怖と飢え」が、奇妙な切迫感を生み出し、演説に独特の熱を帯びさせていた。
――――見事な演説だった。
将軍たちも、党の幹部たちも、誰もが「偉大なる総統閣下の声」だと信じて疑わなかったのだ。
しかし。
ベルリンの下町にある、古びたアパートの一室。
食卓の上に置かれた安価なフォルクスエンプフェンガー(国民ラジオ)の前に座っていた一人の盲目の老女が、編み物の手を止め、ポツリと呟いた。
ヒトラーがまだミュンヘンのしがない煽動家だった1920年代、ビュルガーブロイケラー(ビアホール)の薄暗い熱気の中で彼の演説を聴いて以来の、熱狂的な古参党員だった彼女。
何十回、何百回と彼の演説を最前列で聴き、その声に魂を震わせてきた彼女の耳と直感だけは、スピーカーから流れる精巧な偽装を、本能的に弾き返したのだ。
「……今日は、総統閣下じゃ無いね。いったい誰だい? この代わりの人は」
――――その何気ない老女の呟きは、薄暗い居間にひっそりと落ちた。
だが、真空管ラジオのノイズに混じったその一言は、同居していた娘と、テーブルで硬いパンを齧っていた孫の顔から、一瞬にして血の気を奪い去るには十分すぎた。
「お婆ちゃん! 何を恐ろしい馬鹿なことを言ってるの!」
娘は悲鳴のような金切り声を上げ、椅子を蹴倒す勢いで立ち上がった。
彼女は慌てて通りに面した窓に駆け寄り、隙間なく分厚い遮光カーテンを引き絞る。
それから蒼白な顔で振り返り、震える両手で必死に老母のしわがれた口を塞いだ。
「……そんな……そんなわけないでしょ?! 誰かに聞かれたらどうするの、お願いだからもう二度と、そんなこと口にしないで!」
娘の目は極限の恐怖に見開かれ、呼吸は浅く乱れていた。
壁の向こうにいるかもしれない隣人、あるいは通りを歩く見知らぬ誰かに聞かれれば、それだけで家族全員がゲシュタポ(秘密警察)行きになりかねない。
現在のドイツは、そうした密告の網の目によって首の皮一枚で繋がっている国家なのだ。
娘の尋常ではない怯えぶりに触れ、老女もまた、自身の発した言葉が孕む「死の重み」を悟った。
彼女は力なく頷き、それ以上口を開くことはなかった。
しかし、娘の冷たい手で口を塞がれながらも、老女の視線はじっと、部屋の隅で鈍い光を放つ国民ラジオへと向けられていた。
スピーカーからは、国民を鼓舞する総統の演説が流れている。
言葉の抑揚、かすれたような独特の響き、拳を振り下ろすような間合い――どれも完璧だった。
――――だが、老女は感じていた。
そこには、言いようのない『空虚さ』があるのだ。
あの日、ミュンヘンの薄暗いビアホールで彼女が直に聞いた、魂を焦がし、人々の血を沸騰させるようなあの異様な「熱」。
昨日までは確かにラジオの向こう側に存在していたはずの、圧倒的なカリスマの残滓。
それが、今の声には欠落している。
演説が終わったあとに湧き上がる歓声のレコード音声だけが、ひどく白々しく部屋の空気を震わせていた。
この致命的とも言える違和感を感じ取ったのは、決して彼女一人ではなかった。
広大な第三帝国の至る所で、古参の党員たちや、かつて彼を熱狂的に愛し、その瞳の奥の炎を知っている一部の民衆の中に、ほんのわずかな「熱狂のズレ」を嗅ぎ取った者たちが確かに存在したのである。
「今日の総統は、あの手振りのタイミングがコンマ数秒遅い気がする」
「言葉の端々に、かつての信念……あの狂気めいた確信が感じられない」
彼らは無意識のうちに気づいていた。
神輿に乗っているのが、もはや中身の違う「作り物」であるという事実に。
だが、彼らがその疑念を大声で外へ漏らすことは、決してなかった。
いや、正確に言えば――酒場での一杯のビールの勢いや、職場の休憩室で、その疑念をほんのわずかでも声に出してしまった者たちは『いた』のだ。
しかし彼らは皆、国家保安本部長官ラインハルト・ハイドリヒが帝国全土に張り巡らせた無数の密告者と、ゲシュタポ(秘密国家警察)の巧妙で容赦のない工作網に絡め取られていった。
ある夜、突然ドアを乱暴に叩く音が響く。
黒い革コートを着た男たちが上がり込み、抵抗する間もなくトラックへと押し込まれる。
「総統を侮辱した」「精神を病んだ」という適当な罪状だけが書類として残され、彼らは誰にも知られることなく、文字通り歴史の闇へと静かに消去されていった。
――――徹底的な恐怖政治。
それは、ハイドリヒという冷徹なシステム管理者が構築した、完璧な社会濾過装置だった。
彼らにとって不要なリミッターだった本物のヒトラーはもうない。
中庭の片隅で、本物のヒトラーは名もなき灰となって風に散った。
そして玉座には、見事な操り人形である偽物が座り、用意された他人の言葉を大仰な身振りで叫び続けている。
権力亡者たちが捏造した「歪んだ証拠」と「公式な記録」だけが、正しい歴史として日々書き換えられ、分厚いファイルとして積み上げられていく。
国家のすべてを支配する、完璧に統制された恐怖と隠蔽工作。
その鉄のカーテンの前に、真実が日の目を見ることは永遠になかった。
大ドイツ第三帝国は、最も恐ろしい「空洞」をその中心に抱え込んだまま、熱狂的な歓声と軍靴の足音を響かせ、誰一人止めることのできない破滅への道を全速力で突き進んでいくのである。
※ 作者にナチズム及びアドルフ・ヒトラー賛美の思想はありません。
作中の表現はフィクションとしてお楽しみください。




