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第18話 燃え上がる世界

 1940年6月。

 ヨーロッパの西の果てで、一つの巨大な国家が崩れ去ろうとしていた。

「陸軍大国」と恐れられ、難攻不落のマジノ線を誇ったフランスが、ドイツ軍の電撃戦の前にわずか一ヶ月余りで膝を屈したのだ。


 パリ陥落のニュースは、世界中を電撃のように駆け巡った。

「信じられん……あのヒトラーが、たった数週間でフランスを粉砕したというのか」


 イタリアの首都ローマ。

 ヴェネツィア宮殿の広々とした執務室で、ドゥーチェ(国家首領)ベニート・ムッソリーニは、苛立たしげに大理石の床を歩き回っていた。


 1939年9月にドイツがポーランドに侵攻した時、ムッソリーニは「準備不足」を理由に参戦を避けていた。

 彼は、戦争が第一次世界大戦のような泥沼の長期戦になると思い込んでいたのだ。

 塹壕越しに睨み合い、天文学的な数の人命と物資をすり潰し合う――それこそが当時の「戦争の常識」であった。

 しかし、現実のドイツ軍はその常識を覆す速度で進撃し、瞬く間にパリを陥落させてしまった。


 ムッソリーニの心は、焦りで煮えくり返っていた。

(このままでは、ヨーロッパの新しい支配者はヒトラー一人になってしまう。我がイタリアは、何も得られずに終わってしまう!)


「総統閣下、今からでも遅くはありません」

 外務大臣であり、ムッソリーニの娘婿でもあるチアーノが控えめに口を開いた。

「フランスはすでに死に体です。今なら、ほんの少し背中を押すだけで、我々も『戦勝国』のテーブルに座ることができます」


 ムッソリーニはピタリと足を止め、ギラリと目を光らせた。

「その通りだ。平和会議の席で、ニースやコルシカ島、チュニジアの領土を要求するためには……我々にはどうしても『数千人の死者』が必要なのだ」


 すでに虫の息となっているフランスに対し、背後から襲いかかる。

 それは騎士道精神からすれば恥すべき行為だったが、独裁者の目には「リスクゼロで領土をかすめ取る絶好のチャンス」にしか映らなかった。

「チアーノ準備だ……参謀総長を呼べ」

「はっ」


 1940年6月10日。

 ムッソリーニはヴェネツィア宮殿のバルコニーに立ち、広場を埋め尽くす群衆に向けて、声高らかにフランスとイギリスへの宣戦布告を叫んだ。


「取り消すことのできない運命の時が鳴り響いた!これは、『若いプロレタリアート(労働者)国家であるイタリア・ドイツ』と、世界の富を独占し現状を維持しようとする『プルトクラシー(金権政治)国家である英仏』との、歴史的な闘争である。イタリア半島を地中海に閉じ込めている「領土的・軍事的な鎖」を打ち砕き、国家としての正当な海へのアクセスと生存圏を獲得するための、正義の戦いである。偉大なる同盟国ドイツの総統と歩調を合わせ、ヨーロッパの新しい歴史と地図を書き換える。この戦争はスイス、ユーゴスラビア、ギリシャ、トルコ、エジプトなど、海や陸で国境を接する隣国を戦争に巻き込む意図では無いことを明言する……ただ一つの命令が我々を縛る。それは勝利することだ!」

 一呼吸おいたムッソリーニは叫んだ。

「勝利を!」

『うぉぉぉぉぉ!イタリアに栄光を!フランスとイギリスを許すな!』

 熱狂する群衆の歓声の中で、イタリアは後戻りのできない大戦の泥沼へと、自ら足を踏み入れていった。


 同じ頃、地球の裏側にある大日本帝国、東京。

 梅雨の蒸し暑い空気が垂れ込める大本営(日本軍の最高統帥機関)の作戦室に、一枚の電報がもたらされた。


『パリ陥落。フランス政府、降伏へ』


 その一報は、部屋にいた陸海軍の幕僚たちを一時的な沈黙に包み込み、直後、ハチの巣をつついたような怒涛の騒ぎへと変えた。


「あのフランスが、こうもあっけなく負けるとは……」

「ドイツの戦車部隊の機動力、もはや魔法だな」


 だが、彼らの関心はヨーロッパの勝敗そのものにはなかった。

 幕僚たちの視線は、壁に掛けられた巨大な世界地図の「アジア」の領域へと釘付けになっていた。


「大チャンスだぞ!」

 若き参謀の一人が、興奮で顔を紅潮させながら地図を指さした。

 彼が指差した先は仏印(フランス領インドシナ=現在のベトナムやラオス、カンボジア)だった。


「本国フランスが倒れた以上、アジアにあるフランスの植民地は、もはや『番犬のいない金庫』と同じです! 誰もあの土地を守ることはできません」


 当時、日本は中国との泥沼の戦争(日中戦争)の真っ只中におり、物資の不足に苦しんでいた。 

 中国軍を支援する物資の多くが、この仏印ルートを通って運ばれていたのだ。


「仏印へ軍を進めて、中国への補給路を完全に断ち切る。さらに、あの地域を足がかりにすれば、イギリスやオランダが支配する南方の資源地帯(石油やゴム)も射程圏内に入ります!」

「まさに天佑だ! ドイツが世界の秩序を壊している今、我々も行動を起こさなければならない」


 大本営の空気が、危険な熱を帯びていく。

 慎重論を唱える年配の将校の声は、血気盛んな若手参謀たちの熱狂にかき消されていった。

 若い熱狂というのは、時に年寄りの言葉など煩わしい雑音にしか聞こえない。

 ただぶら下がっている美味しい餌(仏領)の背後にいる、世界中の軍事国家の虎の尾など見えていないのだ。


「バスに乗り遅れるな!」


 誰かが叫んだその言葉は、まるで魔法の呪文のように日本の指導者たちを呪縛した。

 紙面に踊る言葉に国民は熱狂する。

 ドイツという超特急のバスが、世界を新しく作り変えようとしている。

 今すぐあのバスに飛び乗らなければ、日本は世界から取り残されてしまう。

 そんな強迫観念と野心が、日本を南への軍事進出へと駆り立てた。

 そして日本は虎の尾を纏めて踏み付けることになる。


 これが、後にアメリカとの決定的な対立を生み、太平洋戦争へと繋がる「北部仏印進駐」の引き金となったのである。


 フランスの降伏は、単なるヨーロッパの一国の敗北では終わらなかった。

 それは、世界中に「古い秩序は壊れた。力で奪う時代の到来である」という危険な錯覚を植え付けたのだ。


 ローマのバルコニーで歓声を浴びた独裁者も、東京の作戦室で地図を睨みつけた参謀たちも、この時はまだ知る由もなかった。

 自分たちが「バス」だと思って飛び乗ったその乗り物が、破滅という名の奈落へ向かっているという事に…………。

 そしてブレーキの壊れたまま暴走し始めているということに…………。

 各国に少なからず叫ばれていた「良心」は全てが『戦争』という熱狂で塗りつぶされていく。


 ヨーロッパとは大西洋を隔てた遠い大陸。

「大西洋は、もはや我々を守る安全な堀ではない」


 アメリカ合衆国の首都ワシントンD.C.。

 ホワイトハウスの大統領執務室で、フランクリン・D・ルーズベルト大統領は、車椅子の上で深くため息をついた。

 彼の前には、パリが陥落し、ナチスの鉤十字がエッフェル塔に翻る写真が置かれている。


 当時のアメリカ国民の多くは、「孤立主義」と呼ばれる考え方を支持していた。

 「ヨーロッパの戦争など、遠い対岸の火事だ。アメリカの若者の血を流す必要はない」と。

 二つの巨大な海(大西洋と太平洋)が、アメリカを世界の争いから守ってくれると信じていたのだ。


 しかし、ルーズベルトの目には全く違う未来が見えていた。

(フランスが落ちた。もしこのままイギリスまで倒れ、彼らの強大な大西洋艦隊がヒトラーの手に渡れば……次は間違いなく、我々アメリカが標的になる)


「大統領、議会は依然としてヨーロッパへの深入りに反対しています」

 側近の言葉に、ルーズベルトは眼鏡の奥の目を鋭く光らせた。

「世論を変えねばならない。平和な夢を見ている国民を、現実の脅威で叩き起こすのだ」


 ルーズベルトはすぐさま行動を開始した。

 イギリスが力尽きるのを防ぐため、アメリカの強大な工業力をフル稼働させ、兵器を貸し与える「武器貸与法(レンドリース法)」の構想を練り始めたのだ。

 彼はラジオ演説でアメリカ国民にこう語りかけることになる。

「我々は、民主主義の巨大な兵器廠=武器工場)にならねばならない」と。


 さらにアメリカは、史上初めて「平時(戦争をしていない時)における徴兵制」を可決し、二つの海を同時に守るための「両洋艦隊法」を成立させた。

 フランスの死は、アメリカという「眠れる超大国」の目を、決定的に見開かせる強烈な目覚まし時計となったのである。

 

 一方、ユーラシア大陸の反対側。

 ソビエト連邦の首都モスクワ、クレムリン宮殿の奥深くでは、もう一人の独裁者が冷や汗を流していた。


「……フランス軍は、一体何をやっているのだ! 第一次世界大戦の時のように、泥沼の塹壕戦で数年間持ちこたえるのではなかったのか!」


 常に冷酷で感情を表に出さないヨシフ・スターリンが、珍しくパイプを強く握りしめ、苛立ちを隠せずにいた。


 1939年、スターリンはヒトラーと「独ソ不可侵条約」を結んだ。

 それは、ドイツとイギリス・フランスを戦わせ、両者がボロボロに消耗し尽くしたところで、ソ連が無傷のまま世界の半分を支配するという、狡猾な大戦略グランド・デザインだったはずなのだ。


 しかし、現実は違った。

 ドイツ軍は無傷どころか、フランスをあっという間に飲み込み、さらに強大になってしまった。 

 資本主義国同士の共倒れを狙ったスターリンの計算は、根本から吹き飛んだのである。


(背後の安全が確保されたヒトラーが、次にどこへ向かうか。……言うまでもない、我々ソビエトだ)


 スターリンの心に、底知れぬ恐怖が広がる。

 ソ連軍は前年のフィンランドとの戦争(冬戦争)で大苦戦し、その弱さを世界に露呈したばかりだった。

 フィンランドのような小国に大国ソ連が勝てなかった――――。

 まともにドイツとぶつかれば、勝てない……今は。


「時間が必要だ。ドイツ軍の戦車がモスクワに到達するまでの『距離』を、少しでも稼がねばならない」


 スターリンは狂ったように動き出した。

 フランスが降伏の準備を進めているまさにその時、ソ連軍はバルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)に軍を侵攻させて強制的に併合し、さらにルーマニアからベッサラビア地方を奪い取った。

 これらはすべて、西から迫り来る「ドイツという怪物」に対する、肉の盾(緩衝地帯)を作るための必死の防衛策だった。

 世界はこれを「力で奪い取る時代の到来」とみていた。


 同時にスターリンは、ヒトラーの機嫌を損ねまいと、ドイツに対して約束以上の莫大な穀物や石油を輸出し続けた。

 モスクワの独裁者は、自らの誤算に震えながら、自らを守る赤い毛皮を必死に分厚くしようと足掻いていたのである。

 巨大な刃を隠し持ちながら。


 フランスの降伏を誰よりも痛切に、最も近くで受け止めていたのは、海峡を隔てた島国イギリスだった。


「もはや大陸に、我々の味方はいない。我々は、ただ独りとなった……アメリカしかない……」


 ロンドンの地下に作られた内閣戦務室。

 葉巻の煙が充満する中、ウィンストン・チャーチル首相は重々しく口を開いた。

 ヨーロッパの海岸線はすべてナチス・ドイツの支配下に入った。

 次にドイツ軍の爆撃機と上陸用舟艇が向かうのは、間違いなくこのブリテン島である。

 閣僚の中には、ドイツとの和平交渉を口にする者もいた。

 今のドイツに、イギリス単独で勝てる見込みなど万に一つもなかったからだ。


 だが、チャーチルは首を横に振った。

「ヒトラーと和平を結ぶなど、ワニに餌を与えて、自分が最後に食べられるのを待つようなものだ。我々に降伏の二文字はない」


 チャーチルは議会で、歴史に残る演説を行った。

「我々は海岸で戦う。水際で戦う。野原で、街路で、丘で戦う。我々は決して降伏しない!」

(We shall fight on the beaches... we shall never surrender.)


 フランスが倒れたことで、イギリスは文字通り「世界の防波堤」となった。

 もしイギリスが屈すれば、世界は完全にヒトラーのものになる。

 

 世界が揺れる中、ヨーロッパの片隅でフランスの死を「したたか」に見つめる男がいた。

 スペインの独裁者、フランシスコ・フランコ将軍である。


 彼はヒトラーやムッソリーニの支援を受けて内戦に勝利した親独派だった。

 ヒトラーは当然、スペインもドイツ側として参戦するよう求めてきた。

 イタリアのムッソリーニは「バスに乗り遅れるな」と慌てて参戦したが、フランコは違った。


「スペインは内戦で疲弊しきっている。今戦争に巻き込まれれば国がもたない」

 フランコはヒトラーに対して、「参戦してほしければ、莫大な兵器と食料、そしてフランスの北アフリカ植民地をすべてよこせ」という、わざと到底飲めないような法外な要求を突きつけた。

 彼は狡猾にヒトラーを交わし続け、結果としてスペインを大戦の泥沼から救い出すことに成功したのである。


 フランスが公式に降伏する直前、一人の背の高いフランス軍の准将が、命からがらイギリスのロンドンへと亡命していた。

 彼の名は、シャルル・ド・ゴール。


 祖国がドイツに屈伏し、親独のヴィシー政権が樹立される中、彼はBBC(英国放送協会)のラジオマイクの前に立った。

 祖国に残されたフランス国民へ向けた、細く、しかし決して消えないレジスタンス(抵抗)の炎を灯すために。


「フランスは戦闘に負けた。しかし、戦争に負けたわけではない! 自由の火は消えてはならないし、決して消えることはないのだ!」

 その演説は小さな(ともしび)となった。

 そしてそれは後に消せない業火となり荒れ狂う事になるが、それはまだ誰も知る由もない。


 1940年の夏。

 フランスの崩壊は、局地的なヨーロッパの戦争を、地球全体を巻き込む「世界大戦」へと変質させる種火となった。


 イタリアと日本は戦火に薪を投げ入れ、アメリカは孤立主義の殻を破り、巨大な工業力に火をつけた。

 ソビエトは強すぎる隣人に怯えながら、来るべき血みどろの激突に向けて国力を蓄えた。

 イギリスは絶望的な孤立の中で、ファシズムに対する世界の最後の砦として友人を求め奔走する。


 歴史の特異点となったこの時、世界は後戻りのきかない修羅道へと、その歩みを決定的に早めていた。

 次なる悲劇の舞台は、凍てつく東方の平原か、それとも広大な太平洋か。

 運命の歯車は、さらに巨大な摩擦音を立てながら、回り続けていたのである。

 世界中を焼き尽くした世界大戦の種火は蒔かれた。

 世界人口の数パーセントを焼いた人類史上空前の戦争の火種は炎と化し燃え上がったのだ。

 

 フランス。

 パリの喧騒から隔絶された、オテル・ド・クリヨンの司令部一室。

 重厚なオーク材の扉が開くと、磨き抜かれた床が窓からの陽光を反射していた。

 シュミットは軍帽を脇に抱え、静かに歩を進める。

 室内には、微かに葉巻の香りと、新しい紙の匂いが漂っていた。


「シュミット中尉、入ります」

 その声は、広々とした部屋に硬質に響いた。


 執務机にいたハインツ・グーデリアン将軍が顔を上げる。

 その鋭い眼光は、シュミットの汚れのない礼装ではなく、その奥にある「戦場の硝煙」を見透かしているかのようだった。


「待っていたぞ、シュミット」

 グーデリアンは手元の書類をトントンと整えると、一枚の書面を差し出した。

「まずは、これを受け取れ。総統閣下からの直接の示達だ」


 手渡された辞令には、鮮明な鷲の紋章の封蝋が押されていた。

「本日付をもって、君を陸軍大尉に任ずる。さらに、第一戦車師団・第一戦車大隊・第三中隊長への就任を命ずるものだ」


 シュミットは表情を変えず、ただ短く「ヤボール」と応じた。

(中尉になったばかりなのに……大尉……)

 だが、グーデリアンの言葉はそこで終わらない。将軍は眼鏡を外し、少しだけ声を潜めた。


「さらにだ、シュミット。これには続きがある。ヒトラー閣下直々の特命だ。君には即刻、参謀教育を受けさせ、課程修了後は私の軍団司令部の『参謀』として据えろとの仰せだ。君の数式、君の演算能力……それを中枢で振るわせたいのだとさ」


 一瞬の沈黙。部屋の隅で、置時計が刻む音だけがやけに大きく聞こえる。

 シュミットは、自分の胸の奥で冷たい計算機が弾き出す「不快な変数」を感じていた。

 彼は深く、肺の底にある空気を全て入れ替えるようなため息をつく。


「……閣下。光栄の極みであることは、重々承知しております」

 シュミットはゆっくりと、しかし確かな拒絶の意思を込めて言葉を紡いだ。

「ですが、謹んで辞退させていただきます」


 グーデリアンの眉がぴくりと動く。

「辞退だと? 総統の直命だぞ、シュミット」


「はい。私は、演算によって戦車の挙動を予測するのが得意なだけの、ただの男です」

 シュミットは自嘲するようにわずかに目を伏せた。

「……計算だけは得意なのです。もしこの戦争が起きていなければ、今頃は大学の黒板に向かって数学の教授でも目指していたでしょうから。しかしながら、参謀本部での複雑な調整や、地図の上だけで戦略を描くような真似は、私には出来ません。ましてや、巨大な兵站線や広大な戦域を俯瞰し、数万の部隊を指揮する……閣下のような器は、私には持ち合わせてはいないのです」


 シュミットの青い瞳には、心からの拒絶の色が宿っていた。


「もし、私に価値があるとするならば……それは最前線で、鋼鉄の軋みや泥の粘度といった『生きた数字』を直に感じている時だけです。現場の熱を知らぬまま、密室から俯瞰して部隊を動かすような……そんな見えない計算は、私にはできないのです」


 シュミットの言葉を、グーデリアンは手のひらで制した。

 将軍の口元には、奇妙な、しかしどこか満足げな笑みが浮かんでいた。

「……やはりな。実は私も、全く同じことを考えていたのだよ」


 グーデリアンは立ち上がり、窓の外のパリの街を見下ろした。

「君という男は、前線の泥と油にまみれ、敵の砲火を真っ正面から受ける場所でこその英雄だ。君を参謀本部の薄暗い部屋に閉じ込めるのは、虎を檻に入れるようなものだ。総統には、私から直々に上申しておこう。君は『実戦指揮官』としてこそ、第三帝国の刃になると」


 数日後。

 パリの空は抜けるように青かった。

 グーデリアン軍団司令部の中庭には、幕僚たちが整列している。


ヒトラーはグーデリアンの上申を、意外にもあっさりと認めた。

 それどころか、現場での功績をさらに強調する形で、特例の昇進とある「誉れ」をシュミットに授けるよう命じたのだ。


「ハインリヒ・シュミット大尉。前へ」

 グーデリアンの手によって、シュミットの左胸に新たな勲章が留められる。

 それは三回以上の装甲戦闘を生き抜いた者にのみ与えられる、純粋なる前線の証明――戦車突撃銀章であった。


「これもだ……すっかり、総統のお気に入りだな、シュミット大尉」

 グーデリアンが苦笑交じりに差し出したのは、第三帝国のアドラー(国家鷲章)が焼き印された豪奢な木箱だった。

 中に収められていたのは、総統自らのサインが意匠として施された特注の拳銃、『ヴァルターP38』。

 実用性とは無縁の過剰な装飾が施されたその「名誉兵器」を前に、シュミットはもはやどう反応して良いか分からなかった。


 周囲の将官たちから、温かくも畏敬の念がこもった拍手が沸き起こる。

 略式ながらも厳かな授与式が終わると、参謀長のネーリング大佐が歩み寄り、シュミットの右手を力強く握った。


「昇進、おめでとう大尉。……正直に言えば、君と一緒に司令部で仕事ができないのは、帝国にとっての損失だと私は思っているよ。君には、その資質が十分すぎるほどにあるのだからね」


 シュミットは静かに首を振った。

「ご容赦ください、ネーリング閣下。私は、皆様のように組織を背負うほど大きな人間ではありません」


「謙遜を。……だが、その潔さもまた、君らしいな」

 ネーリングは苦笑いしながら、彼の肩を叩いた。


 グーデリアンは、それらのやり取りを少し離れた場所から眺めていた。

 大尉の襟章をつけ、騎士勲章を下げたシュミット。

 彼はもはや、ただの優秀な下士官ではない。

 一軍を率い、戦場の運命を左右する「中隊長」という立場になった。


(……シュミットよ。君が選んだのは、最も華やかで、最も死に近い場所だ)


 グーデリアンの眼差しは、慈しみと、そして一抹の悲哀を含んでいた。

 パリのシャンパンが尽き、祝祭の灯が消える時、彼らを待っているのは果てしない泥濘と、底なしの雪原である。

 彼らはまだ知らない。


 シュミットは、拍手の中で一人、東の空を見つめていた。

 そこには、まだ誰も解いたことのない、残酷なほど巨大な数式が横たわっている。

 彼はただ静かに、大尉としての最初の仕事――部下たちの顔ぶれを確認し、戦車の予備部品の数を数え直す作業――へと意識を向けていた。


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