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第17話 混沌の勝利

 ホテル・リッツの重厚な私室で、ヒトラーは脱ぎ捨てた軍服の襟を緩め、窓の外に広がるパリの夜景を眺めていた。

 傍らには、影のように控えるマルティン・ボルマンが、手帳を手に次の指示を待っている。


「ボルマン、見たか。あの中尉の瞳を」

 ヒトラーは、シュミットの瞳を……グーデリアン自ら作成した彼のレポートを思い出しながら独り言のように呟いた。

「あれは、泥にまみれた前線の一兵卒が持つ瞳ではない。世界を俯瞰している、創造者の目だ」


「……左様でございますな。グーデリアン将軍の心酔ぶりも、いささか常軌を逸しておりますが」

 ボルマンが事務的な声で応じると、ヒトラーは鋭く振り返った。


「前線で一輌の戦車を転がしておくには、あまりに惜しい才能だ。ボルマン、あのような人物は参謀として、グーデリアンの片腕、あるいは私の直属として手元に置くべきではないかね? 伝統に凝り固まった参謀本部の連中を、あの中尉の『数式』で叩き潰してやりたいのだ」


 ボルマンは肉厚な顔に微かな笑みを浮かべ、手帳に「ハインリヒ・シュミット」の名を深く刻み込んだ。

「御意に。……しかし閣下、現場の叩き上げを急に中枢へ引き上げれば、軍内部の『古い将軍』が騒ぎ出すやもしれません」


「ふん、老害どもか。あの中尉なら、そんな雑音ごと計算に組み込んで処理してしまうだろうよ」

 リッツ・パリの豪奢な私室。

 窓の外では、征服された都が死んだように静まり返っている。

 ヒトラーは軍服の襟を緩め、未開封の書類の山を忌々しげに一瞥すると、影のように控えるボルマンを振り返った。


「マルティン。……シュミット中尉を参謀にするには、最短でどうすれば良いか?」


 ボルマンの肉厚な顔が、微かに動いた。

 総統が「手続き」を飛び越えようとする時の、あの特有の熱を帯びた声だ。

「……通常であれば、陸軍大学校での専門教育と、数年の実務経験が必要となります。中尉という階級を考えても、参謀本部入りは数年先の話かと」


「数年だと? 莫迦を言え!」

 ヒトラーは苛立たしげに手を振った。

「あのような男を前線で一戦車兵として使い潰すのは、国家に対する背信だ。グーデリアンも言っていた、奴の頭脳は既に老いぼれた将軍どもを凌駕していると。……伝統、慣例、そんなものは蹴り飛ばしてしまえ」


 ヒトラーは、テーブルに置いてあるレポートを凝視し、独り言のように続けた。

「あの中尉をグーデリアンの軍団司令部に、直属の『特務参謀』として送り込め。最速でだ。ボルマン、今すぐOKH(陸軍総司令部)へ通告しろ。これは『総統命令』であるとな」


「御意に。……ただちに、そのように手配いたします」


 ボルマンは手帳に「シュミット」の名を、もはや消しようのない深さで書き込んだ。

 それは栄光への招待状であると同時に、軍内部の嫉妬と陰謀という泥濘へ、彼を力ずくで引きずり込む合図でもあった。


 1940年6月22日。

 コンピエーニュの森。

 かつて普仏戦争や第一次世界大戦の亡霊たちが眠るこの場所で、シュミット中尉はハッチから身を乗り出し、歴史的な儀式を凝視していた。

 彼に与えられたのは、休戦文書署名の「外縁警戒」という名誉ある任務だ。


 本来、こうした式典の警備はSS(親衛隊)が担うのが通例だが、今回は総統自らの指名により、シュミットの所属する第二戦車大隊がSSと合わせてその任に就いていた。


 周囲には、微動だにせず戦列を組む戦車群の威圧感が漂っている。

 シュミットはエンジンの排気音さえも消えた深い森の静寂の中で、一つの国家が静かに息絶える瞬間をその目に焼き付けていた。


 カチリ

 ドアが開く。


 ヒトラーが、第一次大戦の敗北の記憶が染み付いた「食堂車」へ足を踏み入れた瞬間、フランス側の屈辱と絶望感は最高潮に達していた。

 伍長上がりの絵描き。

 その『成り上がりの出来損ない』が、自分たちの勝者として目の前に立っているのだ。


(……フランスよ。絶望を感じるのはこれからだ。ドイツの怒りは、こんな物では済まされんぞ……)


 ヒトラーは内心で、目の前の男たちの破滅を確信し、冷たく嘲笑っていた。


 フランス代表のアンツィジェ将軍は、軍人としての背筋を痛々しいほどに伸ばし、顎を引いた。

 ヒトラーに向けるのは、渾身の最敬礼。

 それは勝利者に媚びるためではなく、今にも崩れ落ちそうな自らの「フランス軍人としての矜持」を、物理的に支えようとする必死の抵抗だった。

 だが、ヒトラーはその最敬礼を、見えていないかのように無機質な瞳で素通りした。

 彼にとって、敗者の礼節など、無価値な石ころに等しかった。


 一方で、総統に対してこそ直立不動で身を正した空軍総司令官ゲーリングとカイテルOKW総長は、まるでそこにフランス側など居ないかのように、放漫な態度で雑談を続けている。

 ゲーリングは丸々と太った指で元帥杖を弄び、カイテルはわざと声を大きく響かせ、フランスのどの組織を切り刻んでやろうかという「解体」の相談を口にして盛り上がる。


 死刑執行を待つ被告のように立ち尽くすフランス代表団の前で、勝者たちの下卑た笑い声だけが、歴史ある森の静寂を汚していった。


 車両の中から漏れ聞こえるのは、フランス側全権委員たちの、嗚咽を堪えるような震える声と、ドイツ側将校たちが椅子を引く際の不遜な音だ。

 ヒトラーは、まるで無価値な紙片でも見るような目で休戦文書を一瞥すると、もはや興味を失ったと言わんばかりに、投げやりな筆致でサインを済ませた。

 たったそれだけの動作で、この歴史的な調印式は呆気なく幕を閉じた。

 この瞬間、フランスは死んだのだ。


 この文書は、名目上こそ「休戦」と謳われてはいたが、その実態は紛れもなく、フランスという国家の「降伏文書」であった。

 泥沼のゲリラ戦を回避したいドイツ側と、これ以上の敗北による国土の焦土化を食い止めたいフランス側。

 両者の思惑が一致した結果、それが「休戦」という名の「降伏」であった。


 森の空気は冷たく、静まり返っている。

 だが、その静寂は決して平和を意味するものではなかった。

 それは、大陸最強と謳われた国家フランスが「死」を宣告されたあとの、死体安置所に漂う死体の冷たさであった。


 数日後、シュミットのIV号戦車は凱旋門をくぐり、シャンゼリゼ通りをゆっくりと進んでいた。

 沿道を埋め尽くすフランス市民。

 その光景を、シュミットは深く、重い沈黙を湛えた瞳で見つめていた。


 脳裏をよぎるのは、幼い自分が体験した「カブの冬」の記憶だ。

 道端の凍土を素手で掘り返し、凍りついたカブをかじる。

 それは本来、人間が口にするものではない。

 家畜の餌として供される飼料だ。

 飢えに震え、学校から帰ると両親が餓死していた、あの絶望。

 

 飢えから逃れようともがくドイツに与えられたのは、「海上封鎖」という名の緩やかな処刑と、生きる糧を奪い去る「ルール工業地帯占領」という名の強奪であった。


 隣家の上級生の両親が餓死する前に漏らしていた会話を、シュミットは忘れることが出来ない。

「奴らがのうのうと口にする『賠償金の支払いの停滞』など……。生きる糧さえ奪い去っておきながら、どうやってあのような天文学的な数字を払えというのか。呼吸を止めておきながら、走れと命じているようなものじゃ無いか……。子どもに週に一度の野菜クズしか食べさせられないんだぞ……」


 シュミットが周囲の警備兵たちに目を向けると、溢れる涙を隠そうともせず立ち尽くす者が少なくなかった。

 総統閣下は、フランスを完膚なきまでに蹴り飛ばし、ドイツの深い恨みを晴らしてくれたのだ。


 ドイツはその漆黒の記憶を、かつて自分たちを死の淵まで追い詰めたフランスに、そっくりそのまま投げ返したのだ。


 シャンゼリゼを覆う静まり返った群衆の視線が、かつての自分が抱いた絶望と同じ色をしているのを、シュミットは見ていた。

(可哀想……?哀れ……?我らの家族を餓死に追いやった傲慢からきた自業自得だ……)


 一人の中年女性が、あまりの屈辱に膝をつき、石畳に顔を伏せて泣き崩れた。

 抵抗しようと気勢を上げた老人の顎を、黒い制服のSSがMP28短機関銃の銃床で横薙ぎに殴り飛ばした。

 娘らしき女が助けようとして蹴り飛ばされた。

 

 ドイツ軍の軍靴が刻む「ザッ、ザッ」という規則正しいリズムが、彼女の誇りを土足で踏みにじっていく。

 パリの街を包んでいた香水の香りは、今やエンジンの排気ガスと、勝利に酔いしれるドイツ兵たちの汗の匂いに塗り替えられていた。


 フランスのあちらこちらでは、軍服を緩めた将校たちが、フランスのシャンパンを浴びるように飲んでいた。

「乾杯! わずか六週間だぞ! 大陸最強のフランス軍が、我々の足元にひざまずいた!」

「イギリスなど、もはや時間の問題だ。クリスマスまでには、ロンドンでこの酒を飲んでいるだろう!」


 シュミットの隣で、いつもは冷静な同僚の少尉までもが、顔を真っ赤にして笑っていた。

 だが、シュミットの瞳だけは、凍りついたように冷ややかだった。


(馬鹿な……。我らは恨みを晴らすと同時に、新たな恨みを買ったに過ぎない。この先、一体どうなる? 今は誰もが勝利に思考を麻痺させている。だが、イギリスが黙っているはずがない。ダンケルクで逃した敵兵の数は、無視できない変数となって返ってくるはずだ。ドーバー海峡を越えるのは容易くは無い。装甲の摩耗、兵站線の延伸……そして何より、東方に潜む『赤い巨人』がいつ牙を剥くか、分かったものではない。それら全ての不穏な数値を黙殺して、よくもこれほど笑えるものだ)


 この時、世界は音を立てて歪み始めていた。


 ドーバー海峡の向こう側。

 ロンドン、ダウニング街10番地の執務室で、ウィンストン・チャーチルは、噛みしめた葉巻の煙越しに、灰色の海を睨み据えていた。


 その瞳に宿っているのは、勝利に酔いしれる伍長への怒りだけではない。

 自国イギリスを裏切り、「休戦」という名の安易な降伏を選んだフランスへの、煮え繰り返るような憤怒であった。

 

 イギリスにとって、フランスは欧州大陸における巨大な盾であり、防壁そのものであった。

 その壁が脆くも崩れ去った今、ドーバー海峡という名の細い水路の先に、ドイツと言う狂犬の群れが牙を剥いて立ち並んでいる。

 防壁の消滅は、大英帝国が直接この「狂犬の群れ」と対峙する事を意味していた。


「……フランス艦隊を、あの絵描きに渡すわけにはいかん。たとえ、かつての友の手を撃ち抜くことになろうともだ」

 チャーチルは吸い終わったばかりの葉巻きを乱暴に灰皿に叩きつけると、次の葉巻に火をつけた。

 1940年7月3日。

 アルジェリア、メルセルケビール沖。

 フランス海軍の主力艦隊が停泊するその海域に、イギリス海軍の「H部隊」が不気味な影を現した。

 フランス海軍は、自らの耳を疑うような非情な通知を受け取ることになる。

 イギリス軍の最後通牒は、簡潔にしてあまりに残酷であった。

「我々と共に戦うか。さもなくば、六時間以内に自沈せよ。さもなくば攻撃する」


 フランス海軍にとって、それは侮辱以外の何物でもなかった。

 ダンケルクで自分たちを置き去りにし、早々と海峡の向こうへ逃げ帰ったイギリス軍に対し、彼らは根深い不信感を抱いていたのだ。

 何より、祖国の最後の希望であるフランス艦隊を、今さらイギリスなどの指揮下に預けるわけにはいかなかった。


 かつて肩を並べて戦った友軍に対し、イギリス戦艦『レゾリューション』と『ヴァリアント』の十五インチ砲が容赦なく火を噴いた。

 轟音と共に、フランスの誇りであった戦艦『ブルターニュ』が巨大な火柱を上げ、一二九七名の水兵と共に底知れぬ海へと没していく。


 フランス軍人たちの、嗚咽混じりの叫びが無線を飛び交う。

「なぜだ! 我々は味方ではないのか!」

 その悲痛な叫びに、イギリス艦隊は機械的な無言の砲火で応え続けた。

 継続して放たれるのは、時速に換算すると、初速約2700kmで放たれる870kgの鉄塊を吐き出す十五インチ砲と言う名の絶望だった。

 致命的な痛撃を受けたフランス艦隊の残存艦は、硝煙の海を逃れ、フランス南端のトゥーロン軍港へと敗走していった。

 フランスの「希望」は、この時は何とか逃げ延びたのである。


 シャンゼリゼで凱旋パレードが行われていたその裏側で、イギリスは自らの「生存」を完遂するため、騎士としての矜持を、かつての友軍への砲撃という名の「裏切り」によって、ゴミ捨て場に投げ捨てたのだ。


 そして歴史は残酷な皮肉を刻むことになる。

 この凄惨な事件を機に、フランス国内では「同胞を殺戮した裏切り者イギリス」への憎悪が燃え上がり、図らずも親独派であるヴィシー政権が国民の支持を固めていくことになった。


 もはや、かつての共闘の誓いは海の底に沈んだ。

 イギリスは生き残るために友を撃ち、フランスはその血の跡を辿るように、ドイツの手を握り締めていく。


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