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第16話 見えない変数

 その中心で、ハインリヒ・シュミット中尉は、人生で最も冷徹な緊張の中にいた。

 目の前には、世界を震撼させる独裁者アドルフ・ヒトラーが、陶酔しきった表情で座っている。


「ハインツ、もっとだ! もっと聞かせてくれ。この若き天才がいかにしてフランス軍の喉笛を掻き切ったのかを!」

 ヒトラーは、子供が冒険譚をせがむような熱量でグーデリアンに身を乗り出した。

 グーデリアンもまた、愛弟子の快挙を語る喜びに頬を紅潮させ、身振り手振りを交えてその「天才的機動」を解説する。


「閣下、シュミットの指揮はもはや芸術です。彼がソンムで放った一撃は、敵の防御計算を根底から覆しました。私の装甲戦理論を、彼はさらに現場で……純粋な数式の域へと昇華させたのです」


「素晴らしい! 実に素晴らしい!」

 ヒトラーはシュミットを指差し、絶賛に絶賛を重ねた。

「これだ、私が必要としていたのは伝統に縛られた老いぼれではない、君のような新しい時代の、鋼鉄の理性なのだ!」


 だが、ワインが進み、上機嫌になったヒトラーの口から漏れた言葉が、その場の空気を一変させた。

 ヒトラーは不意に顔を歪ませ、忌々しげに吐き捨てたのだ。


「……それに引き換え、OKW(国防軍最高司令部)の連中や、フランスで全軍を停止させたあの愚かな元帥どもはどうだ。私の進撃を阻み、勝利を遅らせようとする。奴らの臆病風が、どれほど我が帝国の機動を削いだことか!」


 その瞬間、シュミットの脳内の演算回路が火花を散らした。

 隣に座るグーデリアンの背中が、微かに、だが確実に強張るのを彼は直感した。


(待て……。今、総統閣下は何と仰った?)


 あのダンケルク直前の、理解不能な「停止命令」。

 装甲部隊が英仏軍を殲滅せんとしたその寸前で下された、歴史的な停滞。

 シュミットもグーデリアンも、それは「総統の気まぐれ」か「政治的判断」だと思い込んでいた。

 しかし、目の前の独裁者は、心底からその「停止」を呪っている。


 シュミットの冷徹な瞳と、グーデリアンの鋭い眼光が火花を散らすように交差した。

 言葉は不要だった。

 二人の天才は、瞬時に同じ「解」に到達したのだ。


(あの命令は、ヒトラー総統の判断ではなかった。OKW内部の腐敗か、あるいは権力の中枢に座る『何者か』が、意図的に総統の名を騙り、あるいは総統を欺いて軍を止めたのだ……!)


 それは、口に出した瞬間に第三帝国を根底から揺るがす、とてつもない猛毒の変数だった。


「シュミット……」

 グーデリアンが、食器の触れ合う音に紛れさせて、地を這うような低声で呼んだ。

「はっ、グーデリアン閣下。……今、すべてを理解しました。あれは、聡明な総統閣下の判断ではなかった」


「ああ。……だが、まずはこの晩餐を終わらせるのだ。余計な動きを見せるな」

 二人が戦慄すべき陰謀の影に気づいたことなど露知らず、ヒトラーは満面の笑みを浮かべたまま立ち上がった。

「中尉、もっと飲みなさい。君は我が国家の宝だ」


 独裁者が自らボトルを掴み、シュミットのグラスに黄金色のワインを注ぎ込む。

 その瞬間、プロパガンダ担当の記者が放ったフラッシュが、網膜を焼くような白光を放った。


 翌日の新聞を飾るであろうその写真は、異例中の異例であった。

 総統自らが給仕し、一戦車兵を「国家の英雄」として公認した歴史的瞬間。

 だが、その栄光の光の中で、シュミットとグーデリアンの胸中には、華やかな晩餐会の裏側で蠢く「真の敵」を炙り出そうという、静かな、しかし苛烈な決意の炎が燃え上がっていた。


 シュミットは注がれたワインを一口含み、その芳醇な味の裏に、鉄錆のような陰謀の匂いを感じ取っていた。

 リッツ・パリの重厚な扉が閉まり、夜の冷気が頬を撫でた瞬間、シュミット中尉の脳内を支配していた酒精が、氷水を浴びせられたように一気に引いていった。


 網膜にはまだ、総統が自らワインを注ぐ白光の残像が焼き付いている。

 だが、その華やかな「夢」の裏側で、彼は底知れぬ腐敗の泥濘を感じ取っていた。


(あの停止命令……総統の口振りからすれば、閣下自身は進撃を望んでいた。ならば、一体誰が「総統命令」という偽装を施し、全軍を縛り上げたのか。国防軍最高司令部(OKW)の中に、大英帝国と通じる「寄生虫」がいるのか? あるいは、政治的中枢のさらなる奥深くに……)


 一中尉の身で踏み込むには、あまりに巨大で危険すぎる変数だ。

 シュミットは騎士鉄十字章の冷たい感触を指先で確かめ、思考を強制的にシャットダウンした。


 翌朝、第19装甲軍団の司令部テント内は、奇妙な熱気に包まれていた。

 参謀長のヴァルター・ネーリング大佐や、第6装甲師団長のラインハルト少将らが、昨夜の「伝説」を耳にして目を白黒させている。

 彼らにとって、総統自らが一中尉に酌をするなど、プロパガンダ映画の中ですらお目にかかれない異常事態だった。


「やあ、シュミット中尉。……いや、もはや『国家の英雄殿』と呼ぶべきかな?」

 ネーリング大佐が、冗談とも本気ともつかぬ複雑な笑みを浮かべて声をかけてくる。

 そこへ、上機嫌な足取りでグーデリアン将軍が割って入った。


「ネーリング、そういじめるな。総統は仰っていたぞ。『シュミット中尉の才能なら、中佐まではあっという間に引き上げるべきだ』とな。……うかうかしていると、階級で抜かれるかもしれんぞ?」


「ははっ、それは恐ろしい。だが閣下、確かに彼が単なる一個小隊ではなく、中隊、あるいは大隊規模の『数式』を操った時、一体どのような解を導き出すのか……その結果には、いささか興味がありますよ」


 将官たちが交わす、軽妙でいて、しかし確実に「特別扱い」を前提とした特権的な会話。

 シュミットはその輪の中心で、ただ居心地悪そうに直立不動を貫いていた。

 彼にとって、名声や喝采などは演算を狂わせる「厄介な変数」でしかないはずだった。


 しかしながら――。

 より巨大な数式を、より広範な戦場を、自分の論理のままに制御できる権限。

 「階級」という名の変数が持つ、その絶対的な強制力に、シュミットの知性は静かな高揚とともに惹かれ始めていた。


「……私は、過分な評価をいただいているに過ぎません」

 シュミットが低く応じると、そこへグーデリアンの幕僚たちが、ここぞとばかりに資料や図面を抱えて詰め寄ってきた。


「中尉、第2戦車大隊の報告書にある『傾斜装甲による跳弾効率の最適化』についてだが、実戦での損耗率との相関関係をどう見ている?」

「IV号戦車の長砲身化に伴う、前傾荷重の増加とサスペンションへの負荷、これを機動演算でどう補填すべきか、貴殿の意見を仰ぎたい」


 次々と投げかけられる技術的、戦術的な難問。 

 シュミットは困惑し、傍らのグーデリアンに助けを求めるような視線を送った。

「閣下、私は一現場の指揮官に過ぎず、幕僚の方々にそのような論を語れる立場には……」


「何を言うか、中尉!」

 グーデリアンはニヤニヤと楽しげに笑い、彼を幕僚たちの真っ只中へ押し出した。

「私が直々に『戦車と演算のことは、このシュミットに聞け』と太鼓判を押したのだ。遠慮はいらん、彼らを叩き直してやってくれ」


 シュミットは、グーデリアンの悪戯っぽい視線に「これは苦行だ」と内心で嘆息した。

 しかし、一度マイクを握らされれば、彼の理性は一切の妥協を許さない。


「……失礼を承知で申し上げます。まず、その燃料消費率の計算ですが、フランスの舗装路のみではありません。泥濘や砂塵に対する変数の予測が必要でしょう。戦車の真の価値は、静止した幾何学ではなく、流動的な物理環境への適応にある……したがって、進行方向における……弾道予測と車体角度が……」


 気が付けば、シュミットは図面を広げ、鉛筆を走らせていた。

 「機構部隊の父」と呼ばれる男の幕僚たちを相手に、冷徹かつ精密な戦車論を展開する若き中尉。

 その光景は、戦場の神髄を数式で解き明かす教授のようであった。


 テントの外では、パリを抜ける乾いた風が吹いていた。

 


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