6 覚悟
――いったい、どこにいるんだ?
あの岩山から、獣を遠ざけようとしたはずだ。
森の入り口とは反対側へ、できるだけ離れた場所へ。
時折、獣の臭いがしたと思うと、すぐに消える。
それでも足は止めず、更に森の奥へと向かう。
地面に残る爪痕。
踏み荒らされた下草。
わずかに乱れた空気。
――近くにいる。
感覚は、通常通りだ。
あの日感じた、異常に冴え渡るような感覚は、結局一度きりだった。
リナがゴブリンに襲われた、あの時だけ。
あれから何度も、彼女の演奏を聞いた。
それでも、同じ感覚は戻らない。
今もそうだ。
音は届いているはずなのに、あの時の感覚だけが、ない。
「くそっ……」
守らなければならない存在なのに、
都合のいい時だけ、その力を求めてしまう。
そんな自分に、嫌悪が込み上げた。
ともかく、リナも負傷した兵士たちも、あそこにいれば安全だ。
あとは――囮になったという遠征隊長が、無事でさえあれば。
――ゴァァァァァッ。
低く、腹の底を震わせる咆哮が、森を裂いた。
反射的に顔を上げる。
音の方向は、左――近い。
考えるより先に、身体が動いていた。
枝を払い、足元を蹴り、音のする方へと駆ける。
次の瞬間、視界が開けた。
倒れ伏した人影。
そのすぐ向こうから、獣が突進してくる。
「……隊長!」
獣の影が、地面を覆う。
剣に手を伸ばしかけ――止めた。
斬るより早い。
防ぐより確実だ。
カイルは剣を鞘に収めると、迷いなく身を低くした。
倒れている遠征隊長の身体に腕を回し、そのまま抱え上げる。
重い。
だが、躊躇はない。
次の瞬間、地面を強く蹴った。
横へ。
獣の牙が、空を噛む。
風圧が背を叩き、土と枯葉が舞い上がる。
転がるように着地し、すぐさま距離を取る。
腕の中の重みを、しっかりと抱えたまま。
――間に合った。
振り返った先にいる獣は、大きかった。
人の丈で二人分はあるだろう。
鋭い爪に鋭い牙を持ち、カイルの方をギロリと睨んでくる。
「さぁて、そこの獣。第二ラウンドといこうか」
* * *
「……それでな、あいつが爪で俺の腹をグサってやりやがったのよ」
兵士の話を聞いた瞬間、リナは思わず自分の腹を押さえた。
想像しただけで、ぞわりと背筋が冷える。
「よく……助かりましたね」
「はは、まあな」
笑ってはいるが、その声は少しだけ強張っている。
冗談めかしていても、恐怖がなかったわけじゃないのだと、分かった。
「ああ、そこで我らがローディス隊長がよ、あいつの左足を攻撃したら――」
「おい、それ以上はやめとけ」
低い声が遮った。
さっきまで話していたおしゃべり兵士が、ちらりとリナを見る。
「……嬢ちゃん、怖がらせちまったな。腹はかすっただけだ」
「い、いえ……」
無理に笑って返しながら、リナは胸の内で言葉を繰り返した。
――左足。
何気ない一言。
でも、耳に残る。
「嬢ちゃんは、歌姫の力は知っていたのかい?」
「えっと……それが、私、よく分からなくて……」
本当のことだった。
できることと、できないことの境目が、まだ曖昧だ。
「そっか。もし自在に使えりゃ、ローディス隊長の助けにもなるんだがなぁ……」
その言葉に、胸がきゅっと縮んだ。
――カイルさん。
――今、戦っているんだ。
リナは、ぎゅっとフルートを握る。
「あの……!」
自分でも驚くほど、はっきりした声が出た。
「もし……ご迷惑でなければ、少し、試させてもらえませんか」
兵士たちは顔を見合わせ、やがて一人が肩をすくめた。
「試すって?」
「私の演奏で……何か変わるか、確かめたいんです」
沈黙。
それから、賛同する声が徐々に上がった。
「もちろん、力になるぞ!」
「嬢ちゃんの力、気になるしな」
こうして、簡単な模擬戦が始まった。
兵士たちが木剣を交える横で、リナは少し離れた場所に立ち、フルートを構える。
色々なメロディを演奏する。
色々な想いを音に込める。
励ますように、背中を押すように。
戦いが終わると、兵士たちは額の汗を拭いながら、感覚を言葉にした。
「……なんだろうな。さっきよりお前の力が強くなってないか?」
「相手の動きが、ちょっと遅く見えた?」
最初は、気のせいだと思っていた。
でも、何度か繰り返すうちに、同じ言葉が重なっていく。
演奏している最中よりも、
終わった後、しばらくしてから。
――じわじわと。
足に溜まっていた重さが、いつの間にか抜けている。
胸の奥が、静かに高鳴った。
「ありがとうございました……!」
「いや、こっちこそだ」
リナは、深く息を吸い直す。
――これなら。
直接戦えなくても。
剣を振れなくても。
「……行きましょう」
声は、震えなかった。
リナと兵士達は、岩山の外に出る。
今度は、二人を探すための音だ。
リナは集中する。
テンポは中くらい。
高低をつけ、流れるように。
そして、森に溶けるようなメロディを。
そして演奏を始める。
吹き始めてすぐ、兵士の一人が顔を上げた。
「……聞こえる?」
「どっちだ?」
兵士は目を閉じ、耳に意識を集中させる。
「あっちだ!」
一人の兵士が断言する。
走り出す。
リナは兵士達の体力についていけず、途中で息が切れる。
「乗るか?」
あのおしゃべり兵士だ。
「はぁっ……はぁっ……」
兵士の背に掴まる。
「お願い……しますっ」
「了解!」
兵士の背中で、リナは呼吸を整える。
ガタガタという揺れが、自分の恐怖からなのか、ただの振動なのかは分からない。
自然とフルートの入った矢筒を強く抱きしめる。
ここから先は、演奏の力を頼ることになる。
そして、揺れの中で、リナの耳にも届いた。
一瞬の静寂。そして……。
――ゴァァ……。
低く、身体に響く咆哮。
確かに、そこにいる。
走り回っているのは、――カイルだ。
逃げているように、見えた。
木々の間を縫うように、獣の突進をかわし続けている。
真正面から斬り結んでいるわけじゃない。
距離を取り、角度を変え、何かを待っているようにも見える。
「隊長は?」
「ローディス隊長?」
兵士たちの声が、重なる。
その一言一言が、胸の奥に落ちてくる。
「なんだ、あの獣は……。見たことない」
誰かが、そう呟いた。
リナは、獣の方へ視線を向ける。
大きな身体。
盛り上がった肩。
分厚い前脚と、鈍く光る爪。
絵本で見た挿絵とか、図鑑やテレビで見た光景と重なる。
「……え?」
喉から声が漏れた。
直接見たことはない。
でも、この色、この輪郭、この顔。
「……クマ、さん?」
リナが動揺した、その瞬間だった。
「――行くぞ!」
「援護する!」
誰かが叫び、兵士たちが一斉に動いた。
え――。
止める暇もなかった。
剣を抜き、盾を構え、木々の間から飛び出していく。
クマの注意が、はっきりと兵士たちへ向くのが分かった。
「ま、待って……!」
声は、届かない。
獣が吼え、地面を蹴る。
太い幹に体当たりし、木が軋み、葉が舞った。
兵士たちが散開する。
だが、相手は大きすぎる。
――このままじゃ。
リナの胸が、強く脈打った。
考えるより先に、身体が動く。
フルートを構える。
息を吸う。
今、必要なのは――戦うための音。
テンポは、速く。
力強く、高低差のあるメロディを。
フレーズも、盛り上がるものにする。
疾走感を大事にしながら……。
そして吹き始める。
地を蹴る足を思い浮かべる。
剣を振るう腕が、迷わないように。
恐怖の感情すらも、力にできるように。
最前に出た兵士の踏み込みが、わずかに深くなった。
クマの爪をかわし、盾が間に合う。
「今の……!」
「いけるぞ!」
声が上がる。
カイルはというと、大木を背に座り込んでいる。
演奏を停止させると、リナは駆け寄る。
「……姫か、元気そうだな」
「カイルさん、お怪我してますよね?」
腕や足には服が破れた跡があり、少し血も滲んでいるように見える。
陽気に見せているが、声は明らかに弱っていた。
リナがそう尋ねると、カイルは肩をすくめた。
「正直、あんまり余裕はないな。けど、まだ動ける」
その視線が、少し先――獣の方へ向けられる。
「自分はあんな獣は初めて見た」
「……私も、実物は初めてです」
その言い回しに、カイルは引っかかったのだろう。
わずかに眉を上げる。
「実物?」
リナは、はっとしてから頷いた。
「あ、えっと……話には、聞いたことがあって」
言葉を選びながら、続ける。
「あれは――クマです」
「クマ?」
「はい」
テレビで聞いたような知識しかないけど……。
リナは、必死に記憶をたぐる。
「骨がとにかく頑丈で、筋肉も分厚いんです。だから、人の力では中々傷はつけられないんです」
確か、警察官が持つ拳銃ですら、効かないと聞いたことがある気がする。
そんな曖昧な記憶が、頭をよぎる。
「……うん、そうだな。確かに、中々剣が通らなかった」
カイルは納得したように息を吐いた。
リナは、もう一つ、大事なことを思い出す。
「あ、それと……」
視線を上げ、はっきりと言う。
「ローディス隊長が、クマの左足に傷をつけているようです」
あの、おしゃべりの兵士が言っていた。
「左足……」
カイルの表情が、わずかに引き締まった。
「同じ場所に傷を重ねたら、もしかしたら……」
断言はできない。
「……なるほどな」
カイルは小さく笑った。
「カイルさん、聞いてください。……私、少しカイルさんのお役に立てるかもしれませんよ!」
リナはフルートを唇に当てたまま、息を整える。
カイルに、もう一度立ち上がってもらうために。
目を閉じ、集中する。
テンポは、ゆっくり。
音量は、優しく。
フレーズは、緩やかに広がるものを。
明るく、希望を感じさせるようなメロディを。
そして、演奏を始める。
暖かい気配が、静かに満ちていく。
――そうか。
この、包み込むような感覚。
これが、自分がずっと感じていた違和感の正体なのだと、リナは理解する。
しばらくして、彼女は音を変えた。
テンポを、少しずつ速く。
音量を、確かなものへ。
最初の旋律を土台に、さらに情熱的に展開させる。
ゆっくりだったメロディは、次第に力強さを帯び、暖かい気配は、更に周囲に染み渡っていく。
「……姫、ありがとう」
その言葉に込められたものが、
感謝なのか、信頼なのか、それとも覚悟なのか。
リナには、まだ分からなかった。
ただ――フルートを握る指に、もう迷いはなかった。




