5 岩山の隠れ処
もう数は、数えない。
岩陰の隙間に身を寄せながら、隊員の方に視線を走らせる。立っている者より、座り込んでいる者の方が明らかに多い。
――気付いた時には遅かった。
いったい、いつから判断を誤っていたのだろう。
それとも――まだ、取り返せるのだろうか。
彼は、ひとりの兵を呼び寄せた。
「ここを真っ直ぐいった所に、アマギ隊長の拠点がある」
この状況を打破できるとしたら……彼しかいない。
「お前なら早馬を乗りこなせる」
「……でも今出て行ったら、僕は多分あいつに見つかってしまいます」
「大丈夫。私があいつを引きつける」
「……大丈夫ですか?」
「わからない。でも生き残る確率が高くするには、こうするしかない」
「……分かりました。……どうかご無事で!」
その兵士は一目散に走った。
ゴァォァァァァ。
その声だけで、空気が震えた。
「こっちだ!」
咆哮したその獣は、新たな声に気を取られ、こちら側に標的を変えたようだ。
鋭い牙で噛み砕こうとしているのだろう。近付いて来ると、その口を大きく開けた。
* * *
身体が、勝手に上下に放り上げられる。
内臓が遅れて追いついてくる感覚に、思わず喉が鳴った。
踏ん張ろうとしても足元に力が入らない。視界が揺れ、歯がかちかちと鳴る。服に必死で掴まっていなければ、今すぐ放り出されてしまいそうだった。
「……姫、大丈夫か」
すぐ前から、声が聞こえてくる。
大丈夫なわけがない。
そう言い返したかったのに、息が詰まって声にならなかった。
リナは歯を食いしばり、ただ耐えた。
この揺れも、恐怖も、行き先も。
――音のない暗闇へ突っ込んでいくような感覚のまま。
どれほど走ったのか、もう分からない。
ただ上下の衝撃が、少しずつ穏やかになってきた気がする。
速度が落ち、蹄の音が重く、間隔を空けて地面を叩く。
――ようやく馬が止まった。
そう理解した瞬間、張り詰めていた力が一気に抜けた。
「……着いたぞ」
カイルが声をかけてくれるが、まだ返事する余裕はない。
「よかった。大丈夫そうだな」
――その瞬間だった。
胸の奥で、何かがぷつりと切れた。
「……大丈夫なわけ、ないでしょう!」
リナは真っ青な顔でカイルを睨みつけた。震える唇からは、文句よりも先に過呼吸気味の吐息が漏れた。
そんなリナの口元に、カイルの手がすっと伸びて、制するように軽く合図を送る。
「静かに」
低く抑えた声に、リナははっと我に返り、慌てて口元を押さえた。
ここは森の入り口。近くに大きな獣がいたらしき場所がある。
しばらくして、森が再び静けさを取り戻したのを確認すると、リナはゆっくりと息を吐いた。
「姫、すまない。姫がここまで馬が苦手だとは思わなかったんだ」
カイルの手を借りて、リナはようやく地面に足をつける事ができた。
――ただいま、大地よ。
続けてカイルは、胸に抱えていた矢筒を取り出した。
「姫、これを」
「ありがとうございました、カイルさん」
リナは蓋を開け、中に収められていたものを取り出した。
銀色に輝くリナの相棒。
フルートだ。
リナはフルートのキーに指を乗せると、息を吹き込む穴を口で覆う。
そして息を吹き込む。
それはまるで風が吹き抜けるような、自然に溶け込むような音だった。
何度かそれを繰り返すうちに、ようやく心の揺れが収まっていった感覚がした。
「獣が近くにいるかもしれない。気をつけて行こう」
短くそう言ったのは、カイルだった。
カイルは周囲を警戒しながら、森の奥の方へと視線を向ける。
数分歩いた所で木々の合間から、岩肌がわずかに見えてくるようになった。
リナは小枝を踏まないように足元に集中する。
物音を立てないように進むのには、相当神経を使わなくてはならない。
「あの先だ。岩山がある」
リナは黙って頷き、カイルの後に続く。
森は静かだった。
風が葉を揺らす音と、二人の僅かな足音だけが続く。
だが、その静けさがかえって不気味に感じた。
岩山の壁に辿り着くと、地面の様子が変わった。
踏み固められた土に、乱れた足跡。引きずられたような痕。
そして、かすかに残る血の匂い。
リナは思わず息を呑んだ。
「……誰か、います」
少し右側を向いた所で、岩山の割れ目のような場所があり、そこの入り口で兵士が一人手を振っている。
カイルがリナの前に立ち、ゆっくりとそこに近付いていく。
「……大丈夫か?」
「助けに来てくれたんですか!」
「そのつもりだ」
この兵士は衣服の腕の部分が引きちぎられて、引っ掻かれたような傷はあるものの、問題なく動けているようだ。
岩山の隙間の目の前にくると、途端に血の臭いが濃くなる。
思わず鼻を覆いたくなるほどだ。
カイルを追うように、意を決して中に入る。
そして中は空洞になっていて、いくつもの岩の起伏があった。
その影に――人影が、いくつも。
「……まさか」
そこには座り込んだ兵士たちがいた。
肩や足を押さえる者、呼吸が荒い者、岩にもたれて動けない者。
生きてはいる。
だが、誰一人として無事ではなかった。
「隊が……ここまでやられて……」
カイルも言葉を失っている様子だ。
「遠征隊長……ローディス隊長が、一人で森の奥に……」
案内してくれた兵士がカイルに伝える。
「分かった」
リナは、苦痛に歪む兵士たちの表情から目を離せずにいた。
呻き声、荒い息、必死に耐えようとする沈黙。
胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
「……カイルさん」
「どうした」
リナは一歩前に出て提案する。
「演奏してもいいですか?私……少しでも、楽にしてあげられるかもしれません」
カイルは少し難しい顔をした。
それが何を意味するのか、リナには全く分からなかったが……。
「……分かった」
フルートに指を当てる。
兵士たちの視線が、自然とそこに集まる。
それが何を意味するのか、誰も知らない。
リナは静かに息を吸い、そして唇へ運ぶ。
そして、目を閉じて集中する。
テンポは、ゆっくり。
音量は最初は優しく。
フレーズも、展開があるものにしようか。
それでいて明るく、希望を感じさせるようなメロディを。
そして吹き始める。
この兵士達は、任務中に大きな生き物に襲われたと言っていた。
突然の事で恐ろしかっただろう、怖かっただろう。
傷を負って痛かっただろう、悔しかっただろう。
みんなの、痛みも苦しみも、全てがなくなりますように。
音色が岩山の空洞内に満たされていく。
暖かいものが、兵士のみんなを優しく包んでいく感覚。
曲を終えると、リナはゆっくりと息を吐き、目を開ける。
洞窟の中は、不思議なほど静かだった。
さっきまで聞こえていた呻き声が、荒かった呼吸も、苦しげな息づかいも聞こえない。
ぱち、ぱち、と。
誰かの手が打たれ、やがてそれが広がっていく。
拍手だった。
その中で低く落ち着いた声が聞こえた。
「――行ってくる」
短い言葉だった。
けれど、迷いのない声色だった。
リナは、思わず顔を上げる。
カイルはすでに出口の方を向いている。
表情までは、よく見えない。
ただ、その声が、さっきよりも少し硬いことだけは分かった。
「姫はここで待っていてくれ」
それだけ言うと、カイルは洞窟の外へ向かった。
「カイルさん……!」
呼び止めた声は、彼の背中に届いたのか分からない。
足音が、岩に反響し、やがて森の音に溶けていく。
拍手は、いつの間にか止んでいた。
代わりに聞こえてきたのは、ざわめきとも、息を呑む音ともつかない声だった。
「……腕が、動く」
「痛みが……消えてる……?」
さっきまで岩にもたれて動けなかった者が、信じられないものを見るような顔で、自身の手先指先を眺めている。
足を動かす事が出来なかった者は、膝を曲げ伸ばしして、不思議そうにリナを見ている。
そして、それはリナも同様に。
――なんか、みんな怪我が治ってる?
一番最初に入り口にいた兵士が、ためらいがちに一歩前へ出てきた。
さきほどまで、腕に傷があったはずだが、見当たらない。
「……信じられないんですが」
低い声だった。
「さっきまで、ここが動かなかった。痛くて、力も入らなくて……」
そう言って、指を握り、開く。
「今は、何ともない」
周囲から、同意するような小さな声が重なる。
「俺もだ……」
「立てなかったのに……」
ざわめきの中で、別の兵士が口を開いた。
「昔、聞いたことがあるんです」
皆の視線が、自然とその声に集まる。
「戦いの場で、歌の力で聴いた者を鼓舞したり、傷を癒したり、そういった者がいると聞いた事があるのですが……」
――そんな凄い人がいるんだ。
そんな感覚でリナは聞いていた。
「……もしかして、あなたはそういう存在、歌姫でいらっしゃいますか?」
――歌姫。
知らないはずなのに、どこかで聞いたことがあるような。
「え!私がですか!?……私はそんな立派な人ではないと思います。……いつも怒られてばっかだし……」
言葉は、自然と弱くなった。
すると、今度は別の声が被さる。
「でもよ」
岩にもたれていた兵士が、ゆっくりと立ち上がる。
「理由は分からなくても、俺たちはあなたのおかげで助かった。……それだけは、はっきりしてる」
誰かが、深く頭を下げた。
それに倣うように次々と同じ動きが広がっていく。
「ありがとう」
「命拾いしました」
「感謝します……!」
洞窟の中に、静かな感謝の声が満ちていく。
リナは、ただ立ち尽くしていた。
確かに自分はフルートの演奏で、役に立てればなんて考えていた。
あくまで精神面で。
しかし目の前では、傷が癒えるという現象が起こった。
この世界における"音"とはいったい、なんなのだろう。
フルートを見つめ、リナは恐怖心すら覚えた。




