第十三章
緊張を身体に巡らせながら、勇一は第三東屋に向かう一つ目のルート、第一通路を使用しつつ慎重に歩を進ませていた。
元から不人気の場所のため、他の誰かと会うということもない。だが、いつも以上に人気を失ったかのような静けさは、不自然を通り越して故意に他人を寄せ付けない雰囲気に満ちあふれているといってよいだろう。
その事に小さく舌を打ち付け、勇一は苛立たしげに辺りを見回す。
自分以外、誰の姿もないということは、余りありがたくもない状況だ。とはいえ、第三者が乱入してきては、それはそれで困ったことになるのだが。
けれども、いったい何者なのだろうか、という疑問はつきない。
もっとも、その答えはいずれ分かることだ。
その姿を引きずり出し、決着をつければすむだけのことなのだから。
そうやって自分自身に言いきかせつつ、勇一は少しずつではあるが歩調を緩めていく。
やがて、第三東屋が視界に入り込み、勇一の顔が険しさを増した。
今だにそこには手紙の主はまだ姿を見いだせず、勇一は僅かに詰めていた息を少しばかり吐き出す。
僅かではあるが、勇一の身体の緊張が和らいでしまう。
だが、相手はそれを狙っていたのだろう。小さな安堵の瞬間を狙ったように、明確な殺意が勇一に突き刺さった。
咄嗟のことに身構える暇もなく、突如現れた巨大な影の一つが勇一の左腕に喰らいついてくる。
「っ!」
痛みに顔が歪み、勇一は乱暴な動きで腕を振る。と同時に、自分を襲った相手が何なのかを理解する。
「鵺かよ……」
呟いた後、またしても遠隔操作で鵺達を操る刺客の小狡さを感じ取り、勇一は怒りの余り奥歯を噛みしめていた。
叫びだしたい衝動を抑え、勇一は右手に意識を集中させる。
思い出せ、と強く自分の中に呼びかける。それに呼応するかのように、右手に熱が集まっていくのが分かる。そう感じた途端、燃え上がるような熱さを握りしめるや、銀色の閃光が宙を切り裂いた。
躍りかかってきただ鵺だが、金属板をすりあわせたような断末魔をあげて地面にドサリと崩れ落ちる音が、勇一の耳朶を打ち付ける。
身体の半分を切り裂かれた鵺の死体をみてとり、他の鵺達は威嚇と警戒の呻り声をあげながらも、すぐにも勇一に飛びかかれるような位置をとりつつガサガサと前足で大地を蹴りつけた。
残り二匹。それを片付ければ、刺客の姿を引きずり出すことは出来るだろう。
ペロリと唇を舐めた勇一は、龍牙刀の柄を強く握りしめる。
そんな勇一の姿に、幾分か恐れを抱いたように鵺達は距離を取るべく足を動かした。
だが、すぐにそれをやめた鵺達は、逆に何かに急き立てられるようにして勇一との間合いを詰めてくる。その瞳に宿った狂気と焦燥に、勇一は一瞬疑惑に駆られるが、すぐにそれを消し去るとじりじりと爪先を鵺達に向けた。
トン、と、同時に両者が軽く大地を蹴りつける。真っ向から向かい合ったのは、刹那の時間だ。鵺の一匹の胴体を真っ二つに切り裂き、そのまま返す刃でもう一匹の頭を切り落とす。
ざっと砂に帰った鵺達の姿を眺め、勇一は辺りに視線を巡らせた。
緊迫感に満ちた空気がその場に落ちる。だが、それはすぐにクスクス、という嗤い声によって破られた。
「誰だ!」
ユラリ、と眼の前の空気が揺れる。
あからさまな殺気を感じ取った瞬間、何かが勇一に向かって飛来する。それをなんなく切り捨て、勇一は嗤い声の上がった方向へと目線を向けた。
「なるほど、鵺や私の遠距離攻撃では、簡単には死なぬか」
「……出てこい。それとも、怖くて出れねぇのか」
「ほう、一丁前に挑発は出来る、というところか」
感心したようにそう返し、相手は今まで消していた気配を解き放つと、ゆっくりとその姿を露わにする。
その姿に、勇一は驚いたように眼を見張った。
自分の眼の前に現れたのは、勇一もよく知っている人物だ。だが、その身に纏う雰囲気も、浮かべる表情も何もかもが違う。
まさか、と言う思いが、弾けて消える。
だからこそ、勇一は掠れた声で問うていた。
「てめぇ、誰だ」
「そうか。現在の私に合うのは、初めてだったな」
ククッと喉を震わせるその姿は妖艶な色を帯び、その姿からは信じがたいものを感じ取る。
「成瀬、お前……」
「もっとも、死すべき者に名乗るほどの名はないのでな。
ここで死んでもらうぞ、沙羯羅龍王!」
残忍さを隠すことなくそう叫び、成瀬真由美の姿をした『何か』はパチンと指を鳴らしてその背後から新たな鵺を呼び出し、まっすぐにその白い指先を勇一に向けた。
拳を握りしめ、那美は眼の前の何もない空間を睨み付けていた。
何度目かは分からないが、それでもなんとか中に入るために那美は手を伸ばす。だが、それはバチンという拒絶の音ともに、鈍い痺れを身体に伝えてきた。
「どうして……」
結界が張られていることは、それだけで理解させられる。
何も出来ない。それが不甲斐なさと悔しさを那美に与え、ぎゅっと強く那美は唇を噛みしめた。
「那美!」
背後から聞こえた声に、那美は勢いよくそちらに身体を向ける。
ほっとしたように、那美はこちらに駆け寄る阿修羅の姿を視界に入れた。
これで、現状は動く。その事に安堵を覚え、那美は今まで見つめていた空間に視線を戻した。
那美の隣で足を止め、阿修羅は見えない壁を見据えるかのように眼を細める。
「勇一は中か?」
「そうみたい。
やっぱり、刺客の仕業よね」
「あぁ」
簡潔に答え、阿修羅は眼の前に張られた結界に舌を打ち付けた。
「かなりの結界だな。普通の人間ならば、ここに近寄ることもないだろうな」
「これ、そんなにすごかったの」
瞬きを繰り返し、呆然としたようにそう呟いた那美の姿に、阿修羅は一瞬だが苦笑を浮かべる。
「お前の場合、勇一が絡むと普通以上に勘が働くらしいな」
きょとんと阿修羅の言葉を聞いた那美だが、すぐにむっとしたように眉間を寄せた。
何かを反論すべきだと感じ口を開きかけるのだが、それは阿修羅の制止するような行動でそれを閉ざした。
阿修羅の視線が、今来た方向へと向けられている。訝しげにそちらへと目線を向けた那美だが、現れた人物に驚いたような声を上げた。
「須田君」
「那美先輩、ここにいたんですね」
「それより、どうしてここに……」
驚いた表情を浮かべる那美の姿に、忍はきょとんと眼を見開いた。
自分がいては何か不都合でもあるのだろうかと考え込んでいるのは、忍の顔を見れば理解できるのだが、先ほどの阿修羅の言葉を信じるならば忍がここに来られるはずはないのだ。
「あの、ここに来たらまずかったですか?」
「えっと、その、そうじゃなくて」
思わず助けを求めるように阿修羅に視線を送るのだが、阿修羅の雰囲気には僅かに息を飲み込むだけで何も言うことはなく、那美は忍と阿修羅を交互に見やってしまう。
厳しい表情を浮かべて忍の姿を視る阿修羅は、何かを思案するようにその瞳を細めるだけで、明確な答えを示そうとはしない。
「阿修羅……」
小声で那美がそう呼びかけると、現実に引き戻されたかのように阿修羅は細く息を吐き出した。
どうするの、と目線だけで問いかける那美に向け、阿修羅はかまわないと言いたげに頭を横に振り、すぐに眼の前の結界に目線を戻した。
「壊すぞ」
「壊せるの?」
「当たり前だ」
苦笑でそう切り返し、阿修羅は厳しい表情を浮かべる。それを見届け、那美は忍が佇む場所まで後退するのを確認すると、阿修羅は軽く目を閉じて呼吸を整えだした。
一分の隙もない自然体に、忍は感嘆したような吐息を漏らす。
「あの、先輩」
「しっ!」
何かを尋ねようとする忍を制し、那美は鋭い声でそれを遮る。何が起きているのか分からないが、それでも那美達の雰囲気に飲まれたように忍は口を閉ざした。
ユラリ、と阿修羅の周囲の空間が歪む。
それに反発するかのように、バチバチと空気が弾くような音を立て始めた。
一際大きな音が響くや、阿修羅は瞼を開けると同時に修羅刀を取り出し、それを真横に振り払った。
その瞬間、甲高いガラスが割れるような音が、周囲を圧倒せんばかりに轟く。突風と化した空気が三人の身体を叩きつけ、痛いほどの殺気が風と共に肌を刺し貫いた。
「阿修羅!」
荒く肩で息をつき、黄金色の瞳となった阿修羅の姿をみるや、那美がすぐさま駆けよると、心配そうにその顔を見つめた。
「大丈夫だ。それよりも」
流れてくる凄まじい闘気は、間違いなく勇一のものだ。阿修羅は険しい表情舌を打ち付けると、その先で行われている戦闘を見透かすように目線を固定させた。
鋭い爪が、勇一の鼻先を掠める。
「くそっ!」
悪態をつきつつも、勇一は鵺の攻撃をすべて紙一重でかわしていた。
その様子を愉悦に満ちた表情で眺める少女は、己の勝利に酔ったように高らかな声を放った。
「その程度の神力しか使えぬとは、昔とは比べものにならぬ。
その剣すらも使えぬ貴様など、我等にとっては取るに足らぬ存在よのぉ」
侮蔑と揶揄をその顔面に張り付かせ、少女は悠然と眼の前で繰り広げられている戦いを眺める。
だが、ふと何かに気付いたように舌を打ち付けた。
「結界を破壊したか。
厄介と言うべきか、存外早かったと言うべきか……」
呟いた言葉とは裏腹に、少女の口調はどこか楽しそうな響きが籠もっている。
ここで邪魔者を消し去ってしまえば、自分の地位は今以上に高くなるのは確定したも同然だ。多少手こずるであろうが、自分には奥の手がある。それがある限り、阿修羅王とて手出しは鈍るはず。
「勇一!」
「来るな!」
駆けつけた那美の驚いた声が耳に届いた瞬間、勇一はためらいなくそう叫んだ。
それがつけいる隙となったのか。鵺が勇一の腕に噛み付く。
牙が食い込み、ドロリとした血が腕に伝い落ちる。それに顔をしかめながらも、勇一は無理矢理その鼻面に拳を叩きつけ、鵺の身体を引き剥がすとそのまま龍牙刀を振り下ろした。
チラリと声が聞こえた方向へと視線を向ければ、阿修羅は那美の肩を掴んで冷静な視線で戦場の様子を見つめていた。
「ちっ。やはり下級のアヤカシか」
その声を聞いた那美が、驚きも露わにそちらに目線を向ける。
「成瀬さん……」
茫然とした声が那美達の背後から上がる。
はっとしたように那美がそちらに顔を向ければ、この事態について行けずにいる忍の姿が視界に入った。
よろよろとした足取りで真由美に近づこうとする忍に、阿修羅が鋭い制止の声を上げてその足取りを止めた。
「やめろ!死にたいか!」
阿修羅の口調の荒さに、真由美はにっ、と残虐さを隠そうともせずに口の端を引き上げる。
忍の知る真由美ではあり得ない笑みに、忍は凍り付いたようにその場に立ち尽くす。
「久しいな、阿修羅王」
「……摩利支天か」
「いかにも」
酷薄すぎる薄い笑みを浮かべ、真由美、いや、摩利支天は傲然とその場に佇む。
その様子に、勇一は摩利支天を睨み付けた。
「てめぇ、だったのか……あいつらを操って自分自身を襲わせ、俺の実力を視るためだけに鵺をたきつけたのも、あの視線も、全部てめぇか!」
「いかにも。
人間の器を使えば、いかなる神力の持ち主とて探知しだすことは出来ぬゆえな。なかなかに面白かったぞ。貴様がのこのこ私を助ける様は。なによりも、貴様の今の神力も十分に見せてもらったことだしな」
「このっ!」
「やめろ勇一!その娘を傷つけても、奴は傷一つおうことはない!」
「どういうこと?」
余りの事態について行くことが出来なかった那美だが、阿修羅の言葉に青ざめた顔でそう問いかけた。
「さすがは阿修羅王。一目で見破ったか」
くくっと喉を震わせ、摩利支天は嘲るように勇一達を見回した。
「この娘が望んだことを、私が叶えてやったまでのことだ。
助けてくれ、と、この小娘は望み、私はそれに応えてやった。その代償として、私はこの娘の『肉体』を器として使っているだけのこと。『器』である以上、私はこの娘と同化したわけではないからな。なればこそ、分かるであろう?
貴様らがこの娘を傷つけ、私を殺そうとするならばそれはそれでよい。私は迷わずこの身体を捨て、『外』へと出ればよいだけのこと。
さぁ、どうする。沙羯羅龍王!」
「何で……何で助けを望んだの!」
那美の血を吐くような叫びが、辺りに響き渡る。
「応えて!お願い!」
阿修羅の手を振りほどき、那美はまっすぐに摩利支天へと問いかける。
いや、摩利支天にではない。摩利支天の中にいる成瀬真由美自身へだ。
「無駄だ。この娘に何を言ってもな。
この娘はな、下卑た者達に身体を暴かれようとしていたのだ。それが女にとってどれほどの屈辱か分かるであろう?だからこそ、助けを求めた。もっとも、そやつらを殺したのは、この娘の肉体を使い、私がやったことだがな。しかし、自分の手が血に染まっていると知ったこの小娘は、心を閉ざしてしまった。だが、意識を閉ざされてしまっては、こちらが不都合になる。故に適当なところで記憶を消してやり、それを忘れさせて普段通りの生活をさせていた。
とはいえ、このままでは埒があかんのでな。今はその記憶の封印を無理矢理壊して活動させてもらっている。そのせいもあってだろう。娘の心、簡単に砕けたぞ」
「なっ!」
勇一と那美、そして忍が息をのむ。
酷いと一言で終わらせることが出来ないその所業に、勇一達は怒りに身を震わせた。
「あんたにそんなことする権利はないわよ!そんな、自分勝手に人の心を踏み台にするなんて……あんた達の方が、よっぽどじゃ邪神じゃないの!」
那美のその言葉に、摩利支天は不機嫌も露わに顔を歪めた。
「小五月蠅い人間の小娘が。貴様のような下賤な存在に、その様な事を言われる筋合いなどないわ!
沙羯羅龍王からと思うておったが、まずは貴様から殺してくれる!」
摩利支天の指先に、小さな炎が灯る。
すいっとその指先を那美に向け、摩利支天は傲然と笑った。
「死ね!」
真紅の炎の舌が、那美に向かって伸びていく。その様に息を飲み込み、那美はその場に立ちすくんでしまう。
「那美!」
ほんの僅かに離れていた阿修羅が、那美に向かって駆け寄ろうとする。
だが、再び摩利支天が鵺を呼び出し、その動きを封じるために阿修羅に向けて攻撃するよう命じた。
「邪魔だ!」
そう叫び、阿修羅は空中で修羅刀を一閃させる。苦悶の悲鳴を上げることも出来ず、鵺は呆気なくその身体を砂塵に変えてしまう。
その様子をただただ茫然と眺めていた忍が、呻くような声を上げる。
「僕は……」
あの姿は、見覚えがある。
記憶の奥底に眠っていた何かが、少しずつ思い出されていく。
今までは、指先から流れ落ちる砂のようなものであったそれが、ゆっくりと忍の中で明確な形となり、まるでパズルのピースのように填まっていく。
「那美ー!」
勇一の悲鳴にも似た声が、忍を現実へと引き戻した。
あと少しで炎が那美を焼き尽くそうとした瞬間、勇一は力の限りを込めて龍牙刀を振り下ろした。
太刀から放たれた勇一の神力が、横凪にして摩利支天の炎を打ち砕く。
「馬鹿な……」
摩利支天の口から呆けたような声が漏れ、驚愕したように勇一を見つめる。
勇一の持つ太刀に視線を釘付けにし、忍はそれをつぶさに観察する。
二匹の龍が絡み合うように形取られた柄。だがその先は、ぽっかりと穿つ穴が開いており、今だ不完全な形であることを示している。それは紛れもなく八部衆の一人、沙羯羅龍王が持っている龍牙刀だ。
「何で、完全じゃないんだろう?」
現実離れした『現実』についていけず、忍は真っ白になった頭でそう呟く。
あれは、あの柄の先には、沙羯羅龍王の瞳と同じく深緑に近い碧の宝珠が組み込まれていたはずだ。
「終わりだな、摩利支天」
那美を庇うようにして立つ阿修羅が、冷ややかに摩利支天を見つめる。
ぎりり、と歯をかみ合わせ、摩利支天は憎悪に染まった視線を阿修羅と勇一に向けた。
「人間の肉体に入っている以上、本来の神力は使えぬ。貴様の負けだ」
断言され、一瞬摩利支天は怒りに身体を震わせる。
だが、何かに気付いたように、摩利支天は狂ったように嗤い出した。
「何がおかしい」
「残された道はある、ということだ。
このまま引き下がるとでも思うたか!阿修羅王、貴様はどうか知らぬがな、沙羯羅龍王はこの娘は殺せぬ。
もう一つ教えてやろう。確かに、この小娘の心は砕けた。だが、砕けただけだ!この娘の心は今だ消えてはおらぬ!完全にはな!」
その言葉に、勇一と阿修羅は動きを止める。
阿修羅でさえためらうであろう事を、摩利支天は最後の切り札として振りかざすべく言葉にし、十分な効果を持って勇一と阿修羅の行動を止めてしまった。
手にしていた細身の剣を勇一に向け、摩利支天は試すように口を開く。
「さぁて、どうする?
この小娘を殺し、私も殺すか?」
「汚ねぇぞ、てめぇ……」
「やはり殺せぬようだのう。ならば、この娘の身体で戦わせてもらうわ!」
ふわり、と、舞うように摩利支天が動き、一気に勇一へと走り寄った。
ギン!と、甲高く重々しい音が響き渡る。
なんとか真由美の身体に傷をつけずに済まそうとするために、防戦一方にまわらざる得なくなった勇一は、それでも摩利支天の太刀をなんとか捌きながらその隙を見つけようと必死に頭を回転させる。
だが……。
「や……やめるんだ!成瀬さん!」
忍の絶叫が、辺りの空気を震わせた。
ぴくん、と、その声に摩利支天の身体が反応を示す。
それを見逃すことなく、勇一が摩利支天の剣を力任せに押し返し、摩利支天の手から剣を奪い取るために刃を下からくぐらせた。
なんとかその動きを読んだ摩利支天ではあったが、一気に勇一との間合いを取るように背後に下がり、けれども剣先だけは勇一へと向けて顔を歪ませた。
「っ……」
短いが、何かを押さえつけるような口調を吐き出し、摩利支天は一瞬勇一から視線を反らせた。
一体どうしたのだ、と思う勇一達の前で、摩利支天は細かく震える右腕を左手で押さえつけると、忌々しげな声を上げた。
「小娘が……」
柳眉をあげて苛立たしげに呟くが、己の意思を押さえつけて摩利支天は叫び声の聞こえてきた方向へと顔を向けていた。
そこにいたのは、少女に制止の声を上げた少年だ。
彼の存在が、少女の精神を呼び起こした。
その行動に驚愕したのは、摩利支天だ。
砕けたはずなのだ。
少女の心など、残っているはずがない。
それほど完膚なきまでに叩き壊したというのに、少女の心の欠片が少しずつ形を取り戻そうとしている。
「馬鹿な……」
苦しそうに呟き、摩利支天は激痛に身体を折り曲げそうになるが、歯を食いしばってそれに耐える。
もしもここで膝を屈すれば、それは勇一達に隙を与えるだけだ。
だが、この痛みは、身体だけではなく精神までもが軋ませる。
それを感じながら、摩利支天、否、真由美の身体の中で、二つの意識がせめぎ合う。
一体何が起きたのか分からず、勇一や阿修羅達はじっと真由美を見つめていた。
他を圧するような純粋な力が、少女の身体から迸る。
「……め……」
やがて、その唇から、かすれた声が漏れ出た。
「だ……め……やめ、て……お、願い……あの人達を、殺さないで……」
「成瀬さん」
忍が一歩前に進む。それを察知した真由美が、泣き笑いに似た表情を浮かべて忍へと視線を向けた。
その表情を見た途端、忍は大きく息を飲み込み歩みを止める。
透き通った真由美の笑みは、誰もが動くことが出来なくなるほどの力が籠もったものだからだ。
「ごめん、なさい……ごめん、な、さい……この身体は、彼女、いえ、彼の、もの、なんです……あたしが、望んでしまった、から……たった一つ、望んで、しまった、から……助けて、ほしかったん、です……でも、それ以上に、あいつらの死を、望んだから……」
真由美の瞳から、幾筋もの涙がこぼれ落ちる。
壊れたはずの真由美の心が、奇跡を呼ぶようにして忍の声によって引き戻されたのだろうか。忍を見つめる真由美の瞳は確固たる意思に満ちあふれ、何かをしようとしていることを如実に勇一達に伝えていた。
―やめろ!小娘!何を考えておる!
摩利支天の焦りに満ちた声が、勇一達の脳裏に響く。
真由美の行動をなんとか止めようと慌てふためく摩利支天の口調は、真由美の思考を全て理解しているためだろう。
だが、そんな摩利支天を逃がすまいと、真由美は身体を丸めて苦悶に顔を歪める。
そして、最後の力を振り絞るかのように、真由美は忍に目線を合わせた。
「須田、君、ごめん、なさい……好き、でした……」
「成瀬さん」
「この気持ち、だけ、は、本当、なんです……本当に、好きだったん、です……」
ふわり、と、悲しいまでの微笑。
それを視た者達が、察知する。真由美が何をしようとしているのかを。
「だめだ!やめるんだ!」
忍が、真由美に向かって走り出す。
「ごめん、なさい……本当に、ごめんなさい。
さよう、なら」
―やめろ!貴様!
摩利支天の声に、真由美は優しさすらも籠もった儚い視線で自分が握っている太刀を見やると、くるりとその刃を自分に向ける。
「だめ、逃がさない……だから……」
「だめだ……成瀬さん、止めろー!」
一緒に、逝って。
須田の絶叫と、それに重なるような真由美の囁き。
そして次の瞬間、真由美はまっすぐに自分の胸に太刀の刃を刺し貫いた。
全てが、凍り付く。
那美が声にならない悲鳴を上げ、くずおれていく真由美の姿を見つめる。
勇一や阿修羅もまた、真由美の取った行動を信じられずに驚愕を顔に貼り付ける。
真由美の胸から、深紅の華が散っていくように血が噴き出し、大地に伏すと同時にその場へと朱色の液体が広がり始めていた。
「成瀬さん……」
茫然としていた忍が、よろよろと真由美に向かって歩き出す。
だがそれは、不意に聞こえた声によって遮られた。
「おのれ……小娘が……」
苦痛に混じり、苛立たしげな声があがる。
頭上から聞こえた声に、勇一達は視線をあげて声の主を睨み付けた。
男性とも女性ともとれる優美な顔立ちが、今は凄まじい憎悪と屈辱に染まっている。
その身に纏った甲冑の胸の中央には盛大なひびが入っており、それが一体何によって出来上がったのかは一目瞭然といえるだろう。
「てめぇ……」
真由美の身体を一瞬早く捨てさり、その場に実体として現れた摩利支天へと、勇一は今までからは考えられないほど桁違いな闘気と怒りをその身体から立ち上らせた。
それを受け止め、摩利支天は忌々しげに言葉を吐き捨てた。
「そこな小娘が意識を取り戻さねば、貴様らを簡単に殺せたものを」
ギリギリと悔しさに奥歯を噛みしめ、摩利支天は阿修羅を鋭い眼で見下ろした。
「貴様としては、都合がよかろうな、阿修羅王。
沙羯羅龍王が覚醒した以上、他の邪神共、あの忌まわしき八部衆がこの地で覚醒し、またぞろ結束するのは眼に見えておる。そして、修羅界を復活させ、天界へと攻め込むであろうよ!
だが、そんなことはさせぬ!断じて……断じてだ!あの時も……貴様らが……難陀龍王が反旗を翻さず、帝釈天様のお言葉を信じておれば、このようなことにならずにすんだというに!
結果的に、そこな小娘が死んだのは貴様らのせいだ!」
「黙れ!己の所業を我等の咎にすり替えるな!やはり、貴様らは腐りきった神達と言えるだろうな。
我等は己の信じた道を進んできただけのこと。それを貴様如きにとやかく言われる筋はないと思え!」
「貴様……!」
阿修羅の切って捨てるような鋭い言に、摩利支天は一瞬にして般若のような顔付きとなり、顔面を主に染め上げた。
「減らず口を叩きおって……ならば、その口を塞いでくれる!」
ゆらり、と摩利支天の周囲の空間が揺らめく。
陽炎と言えるそれが、白い焔へと刹那にして色を変えた。
「まずは手始めに、そこな二人を殺してくれる……さんざ私の邪魔をしたのだからな!」
そう叫ぶと同時に、阿修羅の背後に立つ那美と、動きを止めていた忍に向けて摩利支天は焔をまっすぐに放った。
「そこな小娘共々我が焔に焼かれて死ぬがよいわ!」
「那美!須田!」
勇一の位置からは僅かに遠く、そして阿修羅の背後といっても少しばかり離れた場所に立ちつくす那美と、真由美のすぐ近くで佇む忍に向け、勇一は焦りに満ちあふれた声をあげる。
那美だけならば、阿修羅の力はすぐに対応できる。だが、忍への支援はどうしても間に合わない。
―賭けるか。
ギリギリで那美への結界は間に合う。だが、忍に対してその措置がとれない。
だか、何かが阿修羅の中で芽生えている。それが確固たるものとするために、阿修羅はあえて忍に対しては何の対策もせず、その姿に視線を固定させた。
上手くいってくれ、と、どこかで願う。
そして、それは、その場にいる者達の眼に結果として表れた。
勝利を確信し、喜悦に顔を歪ませた摩利支天だが、一瞬にしてその表情が消え去ると同時に顔面の血の気が瞬く間に失せていった。
全ての時は、止まっていた。
茫然と、忍は大地に伏した少女を見つめ、ふらりと足を動かす。
今まで眼の前で生きていた少女は、信じられぬほどに呆気なくその動きを止め、じわじわと地面に深紅の水溜まりを作っていく。
『この気持ち、だけ、は、本当、なんです……本当に、好きだったん、です……』
悲しい、悲しすぎる微笑。
そして、少女の、最後の告白。
自分にはまだ、何も答えていないというのに。まだ、自分の気持ちすらも、伝えていないのに。
少女の顔が白さを増していく。まるで掌からこぼれ落ちる砂のように変わっていく顔には、うっすらと涙の筋が浮かんでいた。
こんな終わりを、させるはずではなかった。
―何で、こんなにも無力なんだ……。
自分自身が、許せなかった。
荒れ狂う怒りと絶望が混然となり、忍の心を焼き尽くす。
―何時も……何時も自分の力が足りないせいで、大切な者が死んでいく!
忍の中で、もう一人の自分がそう叫ぶ。
―あの時も、そうだ……。
その言葉に導かれるようにして、忍の中にいるもう一人の自分が、緩やかに同化を始めていく。
眼の前を過る光景。
これは、全て自分の中にある記憶だと実感する。
眼の前に広がる平原。
そこに、色取り取りの布地で染め上げられた幾百ものテントが密集している。
笑いさざめき、幸せに暮らしていた、懐かしくも今はいない人々。
―守れなかったんだ。あの時も……。
焼けた家々。そこに横たわる血まみれの骸達。
様々な思いが、怒濤のように押し寄せる。
その中で、見知った者が二人。
―あれは……。
一人は、高橋勇一。その昔、沙羯羅龍王と呼ばれ、難陀龍王の嫡子であり、忍の一番の友。
一人は、秋山修。過去、そして現在も三千大世界最強の闘神と言われ、沙羯羅龍王とともに八部衆を束ね、たった一人大冥道をくぐらなかった神。
そして自分は……。
「那美!須田!」
追憶にふけっていたのは、ほんの数秒のことだろう。勇一の声に、忍は我に返る。
火炎が、自分に迫っている。
それと同時に、那美の姿が眼に入る。
守らなければならない。今感じる痛みと、あの時感じた痛み。同じ痛みを繰り返すことのないように。
眼の前で死んだ少女のような悲劇を二度と繰り返さないために!
忍の中で眠りついていた神力が、目覚めの刻をむかえた。
身体中の力が、右手に集まる。
その神力が現実的なものへと変化して現れることにより、忍の中にあるもう一人の自分が完全なる同化をはたした。
今ならば、理解る。
自分が何者なのか。
そして、自分のなすべき事がなんなのか。
右手に現れたのは両刃の太刀を握りしめ、忍は自分に向かってくる焔を一刀両断した。
「目覚めたか……」
不敵すぎる呟きが、阿修羅の唇をついて出る。
鳶色の瞳を持つ少年。それが誰であるか、阿修羅も勇一も瞬時に思い出す。
「天王?須田が、天王だったのかよっ!」
忍が手にする太刀、破皇刀とその瞳の色を持つ者は、勇一の中では一人しかいない。
驚いたような勇一とは対照的に、摩利支天は現実の展開について行くことが出来ずに、全身を驚愕に縛られたように立ち尽くす。
「そんな……馬鹿な……」
摩利支天のうつろな声が、内心の恐怖を如実に物語る。
それを耳にした忍が、ゆっくりと摩利支天に視線を合わせた。
「摩利支天……お前だけは、許さない」
静かな、凪いだような口調でそう告げ、忍は視線に鋭さを乗せて殺気を放つ。
何時もは温和な光をたたえる瞳は、その奥に怒りの焔を燃え上がらせ、摩利支天を圧倒するような光を帯びている。
その迫力に押され、摩利支天の額から玉のような汗が浮かび上がった。
逃げなければ、と言う本能が摩利支天の頭を占める。
だが、それを許すことなく、忍は破皇刀と呼ばれる太刀を頭上に掲げると、裂帛した気合いとともに振り下ろした。
解放された神力が、摩利支天めがけて走り寄る。
「くっ!」
結界を張ったにもかかわらず、それは紙切れのように易々と破られ、摩利支天の左肩を切り裂いた。
状況の不利を悟り、摩利支天は一瞬にしてその場から逃れるために急いで姿を消し、静寂が辺りを支配した。
今まで戦闘があったとは思えないほど、静かすぎる空気がその場に流れる。
力が抜けきったように、忍はふらふらと真由美に近づくとその場に膝をついた。恐る恐る真由美の身体に触れるために、忍は指先を伸ばす。
触れるか触れないかまで伸びた忍の指だが、一瞬のうちに真由美の身体が砂のように崩れてしまったことにより、それは空を引っ掻くだけで終わってしまった。
人間が、あれだけ強大な神力を行使させられていたためなのだろう。肉体の限界は、すでに超えていたため、その身は呆気ないほど簡単に崩壊してしまったのだ。
那美が、真由美の最後に小さく視線を反らす。
「須田……」
ためらいがちの言葉が、勇一の唇から押し出される。
だが、何を言ってよいかが分からない。
忍の眼の前で、あんな光景を見てしまったことに対して。そして、自分が覚醒した時の那美の行動を思い返し、勇一は自分がどれほど運に恵まれていたかを痛感してしまったが為に。
勇一の声に、忍がびくりと大きく肩を揺らす。
やがて、小さな、まるで囁くような声音が、忍から流れ出た。
「こんな……こんなことに、なるなんて……こんな最後……もう少し、もう少しだけ早く記憶が戻ってたら……神力があれば、成瀬さんは、死なずにすんだのに……」
「須田君……」
「何時も……守りたい人がいても、守り切れなくて……」
ガツン、という音が、周囲に響く。
忍の拳が大地に叩きつけらる音は、幾度も繰り返される。
そのうちに拳の皮膚が破け、血が飛び散る。だが、それに気がつかないのか。忍は痛みすらもが感じていないかのように、ただただ拳を叩きつけ続けた。
「須田君!」
那美の声に、弾かれたように忍は顔を上げた。
泣いてもいいのだ、と那美の視線が語っている。と同時に、那美の眦からも幾筋もの涙が流れているのを見、忍はくしゃりと顔を歪めた。
「僕は……僕、は……」
嗚咽が、忍の喉を震わせる。
流れる涙が拳に落ち、涙と血が合わさって大地に染み入り、その朱が真由美の流した色に混じり合うのを見、忍はその場で叫びを上げた。
「うわぁぁぁ!」
大地に頭を下げ、忍は身体を震わせながら慟哭を放つ。
何も言えず、勇一と阿修羅はその姿を見つめることしか出来ずにいた。
記憶の覚醒は、一人の少女の死を代償としたのだ。忍にとって、最も残酷な結果を与えて……。
ふわり、とその場に風が流れる。
まるで悲しみを包み込むように……




