第十二章
放課後を知らせる鐘の音とともに、勇一と那美はそろって立ち上がる。
どこか嬉しそうな那美の様子を見ると、勇一は物珍しさ覚えて那美へと尋ねる言葉を放った。
「なんかいい事でもあったのか?」
「内緒」
にこりと笑って人差し指を唇に当てた那美は、今にも鼻歌を歌い出しそうな雰囲気を放っており勇一は首をかしげながらも、それ以上の追求はやめて大きく息を吐き出した。
とりあえず今は、机に入っていたあの手紙の主を相手にしなければならないのだ。思わず眉根を険しくしてしまうが、すぐにそれを引っ込めてチラリと那美を見やった。
それを見とがめられたなら、那美は心配を露わに問いかけただろう。だが、それは杞憂だったようだ。那美は時計を見つめ、小さな頷きを一つすると、鞄をとって勇一へと視線を向けた。
よほど苛立たしい雰囲気を放っていたのか。那美は勇一の顔を覗き込むようにして、心配をこめて問いかける。
「勇一?」
「あ?」
「何か、あったの?」
どうしてこうもこの幼なじみは自分のことがよく分かるのか。察するのが得意、というわけではなかろうが、那美の洞察力に勇一は舌を巻く。
「んでもねぇよ。にしても、なんか用事でもあるのか?」
「まぁ、ね。だから悪いんだけど、今日は一緒に帰れないから」
「あ、あぁ」
那美の口調の柔らかさに押され、勇一はたじろぎながらもそう返事をしてしまう。
そういえば、と、朝の光景を思い出し、勇一は苦笑混じりの声を放った。
「須田の件か?」
「そ」
軽く頷いた那美は、同じく今朝の勇一の態度に違和感を覚えたのを思い出したのか、小首を傾けて声をかけてくる。
「そういえば、勇一は誰に呼び出されたの?」
核心をついた疑問に、勇一は一瞬身体を硬くする。だが、すぐにそれを消してしまい、安心させるように勇一は言を綴ろうとするのだが、その前に那美が口を開いた。
「平気、なの?」
「ま、多分、な」
「なんだか、その答えってはぐらかされてる気がするんだけど」
「んなことねぇよ。それを言ったら、お前こそはぐらかせてるだろ」
うっ、と言葉を詰まらせた那美は、勇一の言葉をどう交わしたものかと思案する。
そんな那美の様子に、思わずといったように勇一は小さく笑ってしまう。
その勇一の笑い声をしっかりと聞き取り、那美はじとりと勇一を見上げて、どうにか意趣返しをしようとするのだが、旨い言葉が見つからずに那美は肩を落とした。
その代わり、というわけではなかろうが、那美は勇一をまっすぐに見上げると、釘を刺すように言葉を綴る。
「無茶しないでよ」
「分かってる」
その答えに納得できなかっただろう。那美は顔をくしゃりとしかめるが、それ以上は何も言わずに鞄を持ち上げた。
追求がないことにほっとしつつ、勇一は手紙の件を思い返して眉間に険しさを滲ませると、那美同様に鞄へと手を伸ばした。
トントン、と爪先と靴を合わせるように動かした後、那美は今朝の忍の態度と真由美の雰囲気を思い出してしまう。だが、いつの間にかふうっと深呼吸を繰り返していることに気付き、慌ててそれを消し去ると那美は足早に昇降口を後にした。
忍の相談事など、昨日の件を見れば明らかな事だ。もちろんそれはもう一方の当事者も同じ事のために、嬉しいことには違いない。けれども、真由美に対してはどうしても消えない違和感が那美の心の中に根付いているために、真由美本人を前にしてそれを指摘できるか不安が残ってしまうのだが。
「さて、っと……」
思ってもいなかった呟きを耳にした途端那美は、思わずそれに対して瞬きを繰り返してしまうと、僅かに苦い笑みを口の端に刻み込んだ。
今一番に考えることは、忍の案件だ。それに、真由美の豹変ともいえる態度を口にしたところで、忍が困ってしまう事は明白な事実だろう。
とはいえ、あの二人の思いは那美としては分かっているつもりだ。だからこそ、忍の相談事に対しては嬉しさもあるし、それ故に自分を頼ってくれたと思っていいのだろう。
そう思い至るのだが、ゆっくりと那美の唇をついて出る吐息に混ざるのは、いろいろな色をした感情だ。
その中でも一番強いのは、考えたくはないが不安という色合い。
自分の思い違いかもしれない、と言いきかせつつも、どこかで自分自身の勘を信用すべきだ、との声も聞こえてくる。
幾分か険しすぎる表情を浮かべていることに気付いてしまい、那美はフルリと頭を横に振った。
なんとか気持ちを切り替えねばと考えつつ、那美はゆったりとした歩調で指定された場所へと向かう。
下校時間とあって人混みはそれなりにあったはずだが、目指す方向からは人の気配が漂ってくることはない。
元々不人気な場所でもあるため、さしてその事に気を留めずに那美はチラリと右手首にはめられた腕時計に目を落とした。
時刻を四時としていていたことに思い至ったが、律儀な後輩の性格を考えれば時間前にその姿を現すだろう。そう判断してしまえば、気持ち的にも余裕というものが生まれてくる。
降り注ぐ日光に眼を細め、那美は平和とさえいえる景色に身を委ねる。こうしているのは、いつ以来のことだろうか。そんな考えを抱いてしまうのは、この場合仕方のないことなのかもしれない。
勇一の身の回りで起きていること。そして、自分がその先端をつついてしまったことを思い返せば、こうやって暢気ともとれる相談に乗るというのは、今までの当たり前を想起させるには十分すぎる事柄だ。
ふぅ、と身体から緊張感が抜け落ち、とりとめのないことがつらつらと頭の中を駆け巡る。
自分が、勝手に忍達の心をかき回してもよいのだろうか。
忍はともかくとしても、真由美の心情は一体どこを指しているのだろうか。
いろいろな事を考えながら、ゆったりとした足取りで前へと進む那美が、近づく気配に足を止めた。
「先輩!」
案の定、と言うべきだろう。背後からあがった元気すぎる声に、那美はそちらに視線を向けると、小走りによってくる忍の姿を視界に収める。
まだ指定場所までは距離があるが、それでも急ぎ足で近づく忍の行動は、まるで子犬のような態度に見え、微量の安堵を乗せて那美は忍を出迎えた。
那美と忍は第三東屋の中間地点で立ち止まったのは、もしかしたら他人がいるかもしれない予測をしたからだ。
あの場所に通じる道は二カ所あるが、那美や忍が選んだ道筋、第二通路ははやや入り組んだ作りのために、生徒達からは敬遠されている場所でもある。そのため、他人の耳に入れたくない事柄を話すには最適な場所といえるが、どこかで誰かが聞いているとも限らない。
だからこそ、忍はこの場所を指定したのだろうが、それは杞憂に終わっており、今の所那美と忍以外の姿は見つからない。
周囲を見回した後、忍はぺこりと頭を下げた。
「すいません、遅くなって」
「別に待ってないから、大丈夫よ」
すまなそうに謝罪する忍だが、那美の返答にほっとしたように微笑を浮かべる。
そんな忍の態度に、思わずといった様子で那美は小さな笑みを見せて忍を見つめた。それにつられたように忍は安堵のために肩を落とすが、それから一転して落ち着かないようにあちこちに視線を巡らせた。
「その……先輩……あの、ですね……」
「ん?」
徐々に顔を赤らめながら、忍は話しの切り口をどうにか見つけようと口を何度も開閉させる。
言いたいことは分かっているが、それでも忍の唇から素直な気持ちを引き出さし、その気持ちを確かめなくては、この先の進展は危ういものとなるだろう。
黙って先を待つ那美の姿に、忍は何かを決意したような真顔となり、ゴクリと息を飲み込んだ。
「僕、成瀬さんから告白を受けたんです」
まかり間違えばそれはのろけにしかならない発言だが、忍の真剣な顔を見ればそうではないということがよく分かる。
だからこそ、直球で那美は問いかけることが出来たのだ。
「須田君は、成瀬さんのことどう思ってるの?」
「ぼ、僕、ですか?」
「そう。須田君の気持ち」
じっと視線を固定させられれば、嘘や誤魔化しを許されない空気が流れる。それ故に、忍は緊張した面持ちで那美の視線を受け止めた。
自分の気持ちは決まっている。だが、それを口にしてしまえば、記憶の底に封じ込められている『何か』を裏切ってしまうことにもなる。それ故に、自分の気持ちを前面に出すことを自分自身が許せなくなり、忍は唇を引き結んでどう答えるべきか思案するために眼を細める。
「僕も、成瀬さんが……好き、です。でも……」
「でも?」
「その好意を、受け止めちゃ、いけないんです」
絞り出すようなその声に、那美は驚いたように忍を見つめた。
既視感に、那美は襲われる。
忍が身に纏う空気は、あの時と似通った雰囲気放っている。それは、那美が肌で知っているものと同質といえるだろう。それ故、那美は忍に対して探るような眼を向けてしまった。
今朝話している時に感じた空気と、眼の前に立つ忍の身の内から湧き出しているもの。それは、記憶を取り戻した時の勇一と同一のものだ。まさか、と言う気持ちが強いが、それでも間違えることのないそれに、那美は己を落ち着かせるために深く息を吸い込んだ。
「どうして、って聞いてもいいかな?」
「それ、は……」
問われた忍が、自分の心を上手く言い表せない不安と焦燥に、難しげに大地を睨み付けた。
訳の分からない自分の心を整理しようとするのだが、それが上手くいかない。それどころか、それを那美に話してもよいものか、い言う疑惑がふつふつと沸き起こってくる。
笑われるだろうか。それとも、心配をかけてしまうだろうか。
圧倒的に後者のような気もするが、これは自分の問題だと頭を切り替え、忍は当たり障りのない言葉を探すように那美に視線を戻した。
「僕には、そんな資格ないんです」
「資格って……そんな風に考えたら、自分の気持ちに嘘をつくことになるわよ」
「分かってます。でも……巻き込みたく、ないんです」
口をついて出た言葉に、あぁ、そうか、と忍は納得する。
自分は、自分の周囲で起こるであろう未来に、大切な者を作りたくはないのだ。
もしかしたら、自分のせいで彼女が傷つくかもしれない。その可能性の大きさに、忍は二の足を踏んでいたのだと、改めて気がつく。
困ったような光りを瞳に浮かべた那美だが、忍の心の内にあるしっかりとした意志の強さをみては、軽く答えを返してよいはずもなく、どうすべきかと思案に暮れるしかない。
だが、ふいに何かに気付いたように、那美は周囲を見回した。
おかしい、と思ったのは、直感めいたものだ。
人がいないのは当たり前としても、何かが心の中で騒ぎ出す。
何に対してか、と考え、那美は肌で感じるそれに身体をこわばらせた。
空気が、緊迫に満ちている。
その中に流れる僅かな殺気を感じ取り、那美は不安にかきたてられた。
まさか、とは思うが、勇一もまた第三東屋に呼び出されたのではないだろろうか。
その思考に至り、那美は真剣な表情で忍に話しかけた。
「須田君。突然だけど、ごめんね。三年の秋山先輩、知ってる?」
「え、えぇ」
那美の尋常ならざる雰囲気に飲まれたように、忍は眼を瞬かせて頷いた。
何故その名が出たのか疑問が浮かぶのだが、それでもそれを尋ねることが出来ずに、忍は僅かに首を傾けて那美の次の言葉を待つ。
「悪いんだけど、阿修羅、じゃなくて、秋山先輩呼びに行ってくれないかな」
那美の唇からついて出た名前に、忍の背に電流が流れたように一瞬硬直してしまう。
『阿修羅』
その名前なら、寺の息子である忍もよく知っている。だが、今感じたのは、その名は奥底の記憶を刺激するほど大切な名前だと分かったためだ。
「須田君」
だがそれはほんの一瞬の出来事だった。焦りを煮詰めたような表情を浮かべる那美の姿とそれ以上に焦燥を帯びた声音に、何か大変な出来事が起こっていることは想像に難くない。
だからこそ、忍は力強く頷き、校舎に向かって駆けだした。
その背を見送った後、那美は第三東屋に向けて射るような視線を送りつける。
「勇一……」
きゅっと唇を噛みしめ、那美は第三東屋に向けて走り出していた。




