第十章
小さく生あくびを殺した那美の様子に、勇一は珍しいものを見けたようにその顔をまじまじと見つめてしまった。
「お前、どうかしたのか?」
「んー、昨日、ちょっと考え事してたの。そうしたら、寝不足になっちゃって」
そう言って、那美は失笑めいた笑みを浮かべた後、軽く肩をすくめてみせる。
どちらかといえば、ここのところ勇一の方が寝不足気味であるというのに、那美がそんなことに陥るなど不思議なことといっても良い。
希なこともあるものだと考えながら、勇一は那美の歩調に合わせて通学路を進む。
眠たげに眼を瞬かせながらも、那美は勇一の心配を払うように笑みを浮かべてみせる。
何かを言いたげに口元を動かしつつも、勇一は那美の行動に押されるようにして小さく溜息をつき、それ以上の詮索をやめてしまった。
那美の行動パターンはよく分かっている。自分が大丈夫だといった以上は、頑としてそれを曲げることはないのだ。だからこそ、これ以上の言葉は無用だと那美の雰囲気は語っていた。
その態度に思わずといったように息を吐き出し、勇一は那美の様子を見ながら、まるで何事もなかったかのように声をかけた。
「眠ったら言えよ。ノートぐらいなら何時でも貸せるからな」
「ありがと。そうなったら頼むかも」
素直に勇一の好意を受け取り、那美は感謝の言葉を口にする。
だが、すぐに難しげな表情で那美はアスファルトへと視線を向けた。
昨日の電話が引っかかっているのは、那美だけが知っていることだ。これ以上勇一に心配かけさせまいと思っても、心の奥底で渦巻く言葉は那美の心を緩く縛る。
そんな二人向けて、突如元気すぎる声がかけられた。
「おはようございます、先輩方!」
「おっす、須田」
「おはよう、須田君」
顔だけ動かして姿を確認し、二人はめいめい朝の挨拶を交わす。
駆け寄った忍だが、不思議そうに那美の顔を見つめると、軽く首を傾げて那美に問いかけた。
「どうかしたんですか、天野先輩?顔色悪いですよ」
「そうかな?」
「そうですよ」
忍の言葉に、那美は僅かに困ったように唇を折り曲げる。
本人に自覚がなくとも、他の人間がみればそれなりに顔色が悪いのだと指摘されてしまうのだから、正直なところ心配をかけさすまいという心持ちになる。
「心配してくれて、ありがと。でも、大丈夫だから」
「そうですか?」
それでもなにか言いたげな忍ではあったが、那美自身ががそう断言する以上はそこから先を進めることも出来ず、忍は常と変わらぬ態度で二人の背中を追いかけた。
何時もならばそこそこの会話が交わされるはずなのだが、今日に限っては珍しくも静かな道行きに、三人は居心地の悪さを感じながらも、それでもそれを払拭するためにどうにか話題を探すように視線を迷わせた。
だから、だったのだろうか。
一人の少女の背中を見つけ、三人の視線はそれに集中する。
友人と談笑しながら登校するのは、成瀬真由美だ。勇一は道場の側で見た姿を、那美はあのときの会話を、そして忍は……。
ガチリと硬直した雰囲気に、勇一が不思議そうに忍を見やる。
同じように忍に目線を向けた那美が、僅かに口元をほころばせて忍ぶから真由美へと視線を移した。
こちらに気がついていないのだろう。柔らかな笑みを浮かべ、友人と話している姿をみていると、ふと昨日の真由美の態度を思い返してしまい、那美は小さな、だが、はっきりとした違和感を感じ取った。
「天野先輩?」
「ん?」
「成瀬さん、何かあったんですか?」
那美の様子に何か感づいたのか、忍が不安そうに問いかける。
少しばかり驚いたように、那美は忍の顔を見つめた。よく気がついたな、というのが本音だが、それをもう少しばかり発展させてくれれば、という気持ちがないわけでもない。
「別に何もないわよ」
「そう、ですか……」
納得したわけではないのだろうが、それでも落ち着きを無くしたように視線を彷徨わせながら那美を見た後、忍は真由美に視線を向け、那美が感じた何かを探すようにその背中を見つめた。
そんな忍の様子に、那美は安心させるための言葉を探すが、自分の内心の考えが上手くまとまらずに小さく息をつくだけで終わってしまう。
結局会話らしい会話を交わすことなく、三人は校門をくぐり校舎へと向かった。
終業の鐘が鳴り終わるか否かで、勇一は勢いよく立ち上がると、さっさと鞄に教科書類を詰めていく。
何時もならばゆっくりと支度をする勇一なのだが、あまりも性急に用意していることが珍しかったのか、那美は何かあったのかと不安をあらわに勇一を見上げた。
そんな那美に向け、勇一は不機嫌そうに答えを口にする。
「今日は、阿修羅との特訓なんだよ。先帰っていいぞ」
「あ、うん」
特訓、というより、厳しい修練が待ち構えていることが明白なのは、一度那美もそれを見るためについて行ったときだ。
阿修羅にいいようにあしらわれ、泥だけになりながらも勇一が阿修羅に向かっていく様は、力量差からいってもまだまだ阿修羅の足下に及ばないことを明示していた。
ついて行ってもよいのだろうが、修練の邪魔になるだけなの知っている那美は曖昧な返事とともにその背中を見送った。
だが、今日もまたドロドロになって帰ってくるだろう勇一の姿を想像してしまい、那美は堪えきれずにクスリと笑みを漏らしていた。
とりあえず阿修羅がいれば安心は保証される。ここのところ張り詰めたような空気を放つ勇一の姿を見ているため、那美はそっとと息をついて勇一の席を見つめた。
「……大丈夫」
自分に言い聞かせるようにそう呟き、那美は自分も帰るための支度を始めた。
そんな那美の姿を見てだろう。友人の一人が声をかけてきた。
「那美ー、今日帰りヒマー?」
「まぁ、暇って言えば暇だけど。なに?」
「駅前に、新しいクレープ屋が出来たの。一緒に行かない?」
「うーん」
友人の提案に、那美は考え込むような声を漏らす。とはいえ、それは一瞬のことだ。すぐに頷きを返して、近づく友人達の姿を見ながら立ち上がった。
「駅前にそんなので来てたんだ」
「そ」
「おいしいかどうか、試しに行ってみるってとこ?」
「まぁね」
「興味あるし、一緒に行くわ」
「よっしっ!」
「ほんと、高橋がいない時って、那美のこと誘いやすいのよねー」
人の悪い笑みを浮かべてそう語る友人達に、那美は一瞬きょとんと目を見開く。
だが、その意味を理解した途端、那美は憮然とした表情で友人達を見やった。
「なによ、それ」
「いやー、あんた達って、ラブラブじゃん。仲を引き裂いたら悪いなーと思って」
「ちょ」
「アツアツをみせられてるこっちの身にもなってほしいわよね」
あまりの言い草に、思わず那美はパクパクと口を開閉させる。
と同時に、真由美の言葉を思い出していた。
『嘘つきですね』
鋭いトゲのように那美の心に突き刺さったそれは、否定することが出来なかった自分の本心。それを見透かしたような真由美は、本当はあの時どんな表情をしていたのだろう。
思い出したそれを何とか心の奥に押し込めると、那美は大仰な溜息をついてみせる。
「あのねぇ、あたしと勇一は単なる幼なじみ」
「って、思ってるのは、那美達だけでしょ」
「そうそう。実は高橋も那美のこと好きみたいだし」
「あたし達は、そんな関係じゃないって」
「またまたー」
何を言っても友人達には無駄なことであり、自分の窮地を変えることが出来ないと悟った那美は、憮然としながらも先程の話題に誘われた理由に戻した。
「で、そのクレープ屋には、いつ行くのよ。行って休みだった、てことにはならないんでしょうね」
「あぁ、それなら大丈夫。静香がそこら辺はチェックしてたから」
「じゃ、早く行かないとね」
そう言うと、那美は自分の鞄の蓋を閉める。
めいめいが自分の鞄を持って教室を出ると、話題はとりとめのないものへと変わっていく。
昨日のドラマの話しや、本日出された宿題のこと。ごくごく平凡な日常の会話を交わす事に、那美はどことなく居心地の悪い思いを抱く。以前ならばそんな感情は抱かないはずだというのに、勇一が覚醒してからの怒濤のような日々の変化は、那美の日常を変えるのには十分すぎた。
小さな、けれども誰にも気付かれないように息を吐き出し、那美はふと窓の外に広がる景色に眼を向けた。
特別棟に続く廊下と、緑に満ちあふれた中庭は、珍しいことに人影というものが見えない。それ故に、だろう。見知った姿を見つけ、思わず那美は立ち止まってしまう。
「須田君?」
あまり人の来ない場所に佇んでいる忍と、もう一人、その影に隠れるように小さな身体を持つ少女、真由美の様子に、那美は軽く首を傾けた。
距離はあるが、忍と真由美の二人の姿は、はっきりと那美の視界に入ってくる。
どうしたのかと思いながらも、必死さが伝わる真由美の様子に、あぁ、と那美は納得したように頷いた。
「那美?」
「あ、ごめん」
不思議そうに友人に呼ばれ、那美は慌てて離れていた友人達に近づく。
頑張れ、と心の中でのみ放たれた言葉は、祝福の色を帯びたものであり、きっとあの二人の関係が発展するだろうと願ったものだった。
顔を朱色に染めた眼の前の少女に、忍は同じように顔を赤くさせながらその姿を見つめていた。
その視線に耐えきれなかったのか。少女、成瀬真由美は、ぺこりと頭を下げると、その場を駆けるような足取りで後にする。
その行動に、身体を硬直させて見送ってしまった忍は、思わずその背中に右手を伸ばしていた。だが、声をかけようにも、何を言ってよいかも分からず、忍の指先は僅かに宙を引っ掻くだけで終わり、真由美の去った方向へと目線を向けるだけで精一杯だった。
「……成瀬さん」
自分の声が耳に届いた途端、忍の顔がさらに赤くなる。
「う、うわぁー」
漏れた声は、忍の混乱した心情を如実に表しており、誰にも見られていない事をいいことに、忍はその場にしゃがみ込んで頭を抱えてしまう。
あの場で即返事が出来ていればよかったのだろうが、混乱に混乱を重ねた心が事実を認識するのに時間がかかってしまったのだ。
返事はいつでもよいと言われたが、自分の心はすでに決まっている。というのに、それを口にすることが出来なかった。
後から後からわいてくる後悔に、忍はがくりと肩を落とす。
内心で自分を罵倒しつつ、忍はゆっくりとした動作で立ち上がった。
「どうしたらよかったんだろう……」
思わずこぼれた呟きは存外自分の耳に大きく響き、熱を帯びて赤くなった顔で忍は再び頭を抱え込んだ。
本当に、こんな時はどうすればよいのだろうか。
誰かに相談すると言っても、いったい誰に相談すべきなのか。
口が堅く、自分の性格をよく知り、信用できる人間。
ぱっと頭に浮かんだのは、勇一の顔だ。だが、この手の話を同性に聞かせるとなると、からかわれるか、のろけるな、とバッサリ断ち切られるかのどちらかだろう。
だとすれば……。
「天野先輩、かな、やっぱり」
勇一の次に信頼できるのは、那美ぐらいのものだ。
彼女ならば、自分の話しを真剣に聞いてくれるだろうし、何よりも真由美とも顔なじみであり、それとなく真由美の感情を理解している気もするのだ。
「よし」
バチンと己の両頬を叩き、忍は鼓舞するように声を放つと、勢いよく立ち上がる。
下校の時間のため、那美が教室にいるとは限らない。ならば、明日の朝一番で那美を捕まえて、放課後相談に乗ってもらうのが良策だろう。
大きく息を吸い込んだ忍は、茜色に染まりつつある空を見上げる。
その瞬間、何かが忍の中を走り抜けた。
広がるのは、あちこちから上がる黒煙と、嗅ぎなれてしまった死と鮮血の匂い。
知らないはずの場所だというのに、そこは自分がよく知っている場所だと断定できしまう。
けれど……。
視たことなどない。
少なくとも、現在の自分が知っていれば、その場所は特定できたはずだ。なのに、その場の名前すらもが、頭の中で靄のかかったように出てくることなどなく、ひどく焦燥感をかき立てられる。
思い出せ、と、どこかで声が聞こえてくる。けれど、何を思い出せばよいのかが分からない。
その事実がひどくもどかしく、そして同時に、思い出してはいけないと激しく警鐘が鳴り響く。
「……っ」
ズキリ、と頭の奥が痛みを放った。
瞬間、誰かが自分に手を差し伸べている姿が視えた。
それを見上げる形になってしまったのは、自分が疲れこんで座っていたためだ。
『どうした?』
心配そうにそう問われれば、まだ大丈夫だと言いかけるのだが、それは溜息で打ち切られてしまう。
自分の何倍もの敵を相手にしていたというのに、『彼』は微塵もその疲労を感じさせない声音をあげている。まだまだだな、と考えながらその手を握りしめると、軽いかけ声とともに立ち上がることに成功した。
見渡せば、周囲は敵味方の区別のなど全く分からない屍が転がっている。無論、敵であった者の死体を作り出したのは、間違いなく自分と『彼』が圧倒的に多いだろう。
そして生き残った味方の軍勢は、この戦いが始まった時よりも圧倒的に数が減っているだけではなく、誰もが傷だらけになっている。だが、それを気にする余裕など残されてもおらず、彼らはその損害を確かめるために奔走していた。
「酷いですね、やっぱり」
『仕方ないだろ。所詮俺達は奴らにとって、滅ぼすべき存在だからな』
「確かに、そうなんですけど……」
それでもやはり、どうしてもやりきれなさが心の奥底にたまっていく。
それを感じ取ったのか。『彼』は小さく息を吐き出し、戦場へと視線を向けた。
『奴らも、必死なんだろうさ。
自分達の考えを押しつけ、それが受け入れられないと知って、こうやって戦を仕掛けてきたんだからな』
「……そう、ですね。
あぁそういえば、他の皆は?」
『安心しろ。俺達がそう簡単にくたばると思うのか』
「それを言われると、なかなか簡単には皆くたばるわけはないですよね」
『仲間達』がそう簡単にやられる事などないというのは、重々承知している。だが、それでも尋ねてしまうのは、やはり多少なりとも心配があってのことだ。
それを分かっているためか。『彼』は、僅かに笑みを込めた口調で語りかけてきた。
『たとえ何があっても、俺達が負けるわけにはいかないからな』
「えぇ」
忍もつられて笑みをこぼす。
たとえどれだけ傷つこうとも、自分達が膝をつくわけにはいかないのだ。その理由も、その覚悟も、自分達誰もが持ち得る矜持であり、勤めなのだから。
そこまで思い出し、次の瞬間、忍は愕然とする。
今のは、何だ?
自分は、一体何を考えていた?
分からない。だが、確かなことは、それが実体験に基づいた記憶の再構成だったということだ。
「あれは、一体……」
ズキズキと頭の奥が痛むと同時に、泡のような何かが心の中で弾ける。
どうにかして掬い取ろうにも、余りにも儚いその『何か』は、思い出せないというだけでひどい苛立ちすらも覚えてしまうもの。
心の奥底に眠り、そしてそれが醒めていく感触はあるのだが、けれどもまだ自分には早すぎるのだと、なんとかその蓋をしようとしてしまう。
ギシリ、といつの間にか奥歯を噛みしめていた。
そうでもしていないと、今の自分が立っている場所を失いそうになってしまうから。
不意に思う。
自分は一体何者なのか、と。
答えなど、今の忍には見つかるはずもない。それだけは、確として分かる事実だ。
「僕は……」
漏れ出た呟きは、宵闇に覆われた空に薄くたなびくようにして消えていった。




