第九章
ぼんやりと、那美は自室の窓に腰掛けながら空を見つめていた。
真っ赤な夕日はその姿を地平へと消し、宵闇の色合いが空を塗りつぶしていくのを見るともなしに見つめていたが、それが奇妙に現実とかけ離れた事のように思い起こされて仕方が無い。
「嫌な、感じ……」
ぽつりとそう呟き、那美はクシャリと顔を歪めた。
放課後のことを思い出しかけ、那美はそれを蹴散らそうと眼を細める。
自分の感情を心の中で浮かべないようにしているのは、真由美に指摘されたことだ。
何故あんなことを話したのか。那美にもよくは分からない。けれども誘導尋問のように促され、自分の心情を吐露することになるとは思わなかったと、いうのが、那美の正直な感想といえる。
深く溜息をつき、那美は隣家へと視線を向けた。
まだ勇一は帰っていないのか。部屋の明かりはついていない。だが、ゆかりが在宅していることは漂う夕飯の匂いで分かってしまう。
「あんまり、無茶しないでほしいんだけどなー」
そうこぼしたのは、勇一の学校内での別れ際の態度からだ。
出るんじゃなかったといきり立つのは眼に見えているが、それでも退部した部に対しての責任はきちんと果たしているのだから、そこは褒めるべきところなのだろう。
「おい那美」
考えに没頭していたためだろうか。突然声をかけられ、那美はびくりと肩を上方に動かした。
「お兄ちゃん、ノックぐらいしてよ」
突如部屋に乱入してきた兄に対して、那美は幾分か険しい顔でそう告げるが、兄、翔也はどこ吹く風でそれを聞き流してしまう。
兄とは言え、男だ。女性の部屋に対するデリカシーぐらいは弁えてほしいのだが、それくらい分かっていれば、部屋をノックして顔を出すぐらいで済ませてくれるだろう。
もっとも、それを兄に求めたところで、妹に対してそんな必要性はないだろう、と返してくるのがおちだろうが。
「で、何?」
「親父が帰ってきたから、夕飯だとよ」
「分かった」
そう言って、那美は腰掛けていた窓から降りると、ピタリとそれを閉め切ってしまう。 そんな那美の行動を眺めながら、翔也は隣の家の明かりに気がついたらしく、顔をしかめて那美へと言葉をかけた。
「勇一の奴、まだ帰ってないのか?」
「もうすぐ合同練習試合があるんだけど、それにかり出されて道場に顔を出すように言われてたから」
「退部してないのか?」
「退部届は出したみたいだけど、それ無視して大将になってくれって言われたから、遅いんじゃないかな」
「ふーん」
生返事を返し、翔也は那美の部屋から出て行く。
その背中は、さっさとしろ、と書かれており、那美は溜息を吐き出して兄の背中を追いかけた。
リビングに入れば、疲れ切った顔をした父親がダイニングテーブルの定位置に座っており、ここの所の激しい忙しさをその雰囲気から察せることが出来た。
「お帰りなさい、父さん」
「あぁ、ただいま」
態度同様に、口調もまた何時もの快活さが全く見えない。健太郎の研究室で起きた爆発事故の原因が分からず、捜査に行き詰まっているのは明白だが、それだけではない疲れが父を襲っていることが分かる。
父、天野茂人の様子に、那美は心配そうに声をかけた。
「父さん。
身体、大丈夫?」
「……あぁ」
そう生返事を返した後、茂人は那美に視線を合わせ、どこか言いにくそうに疑問を提示した。
「……那美、矢沢学園高等部のネクタイの色なんだが、各学年の色は何色だ?」
「一年が緑、二年が青、三年が臙脂だけど。
なんで?」
不思議そうな娘の表情を眺めながら、茂人は冷えたビールをコップに移して一気にそれを飲み干した。
コップに次のビールを入れた茂人は、そこで弾ける泡を見つめて眉根を寄せた。
「もしかして、町外れの廃屋工場で見つかったっていう、惨殺死体の件か、親父?」
翔也からその言葉を吐き出されると、茂人の顔が一気に渋面を浮かべた。
どうやらそれは当たりだったらしい。翔也は興味深そうな顔で、父親の様子を観察し始めた。
そんな兄の言葉に、那美は新聞の地方欄に小さく殺人の件が書かれていたことを思い出す。どうやら、父は健太郎の件から、そちらの事件に移動になったのだろう。
そんな二人を横目で見ながら、那美は母親を手伝うべく台所に足を向ける。
「……酷いもんだからな」
「ひどい?」
夕飯を運んでいた那美が、不思議そうに首を傾ける。
廃工場で死体が見つかった、という程度にしか認識していなかったが、どうやら新聞に書かれている以上の何かがあったらしい。
好奇心を丸出しにしている翔也が、先を促すように茂人を見つめる。そんな息子の姿に溜息をつきつつも、茂人は疲れ切った様子で天井を見上げた。
「ここだけの話し、殺された連中は札付きのワルでな。警察沙汰を何度も起こしている連中だった。
そいつらが、生きたまま手足をもぎ取られたり心臓を潰されていた。人間の仕業じゃないってのが、上や俺達の見解だ」
「でも、何でうちの学園が出てくるの?」
「現場に、壊れた校章と引き裂かれたネクタイが見つかってな」
「それが、うちの学園の物だったってこと?」
「そうだ」
茂人の答えに、那美が僅かに唇を噛みしめる。
まるで、あの時と同じようだ。
自分が力を願ったばかりに、勇一を殺そうとしてしまったことと。
「全く、ここのところおかしな事件ばかり続いてやがる。
高橋さんの家のことといい、今回のことといい……」
そう締めくくると、茂人はついであったビールを速いペースで開けていく。
そんな父の姿に心配そうな視線を送れば、茂人は口の端に淡い笑みを浮かべて安心させるように那美に声をかけた。
「すまんな、飯前にこんな話しをして」
「平気。それより、身体に気をつけてね」
「分かってるさ」
本当か、と問いただしたくなるが、滅多に弱音を吐かない父がこうして話しをしてくれたのは、考えが相当行き詰まっているからだろう。
なんと声をかけるべきかと考えていた那美だが、突如鳴り出したスマートフォンに慌てて着信者の名前を確認してみる。
着信者の名前は表示されていないが、何となくそれに出なければならない気がしてしまい、那美は廊下に出ると受話器のボタンをタップした。
「はい」
『天野、先輩』
ぼそり、と、遠くから聞こえてくる少女の声に、那美は気味悪げにその声の主が誰であるのかを考える。
だが、全く心当たりなどなく、那美は幾分か眉根を潜めた。
「どなたです?」
『お願いが、あります』
いささかきつい口調でそう問いかけるが、相手はそれに頓着せずに感情の籠もらぬ声で淡々と言葉をつなげた。
『当分、高橋先輩と行動するの、やめてください……お願いします』
「え?」
意味を掴み損ねた那美が、スマートフォンを握る手に力を入れる。
いったい何を言っているのだろう。勇一に近づくなと、わざわざ警告を入れる人物などまるっきり思いがつかない。
『お願い、します』
再度そう念を押し、相手は一方的に通話を切ってしまう。
こちらが何かを問いかけることすら許さず、ぶつりと切られてしまったスマートフォンの画面を、那美は険しい眼で見つめる。そこに何かがあるというわけではないが、奥底の知れない相手の言葉は苛立ちを覚えるには十分すぎるものだ。
「いったい、何なのよ……」
相手は、明らかに普通ではなかった。
それぐらいは、理解できる。理解はできるが、理性と感情は別のものだ。
感情的になるな、と、頭の中では言い聞かせてはみるものの、それでも苛立ちが募ってしまうのは仕方のないことだろう。
ふと、先日真由美を襲っていた生徒達のことを思い出す。
あれは操られていた、と阿修羅も勇一も断定していた。そうなれば、この通話も陰に隠れている存在が、誰かに糸をつけてこんなふうに電話を入れさせたものなのだろうか。
勇一か、阿修羅に言うべきだろうか。
そう考え、那美はばっさりとその考えを切り捨てる。
もし話してしまえば、それは二人の負担になってしまう。阿修羅はともかくとしても、勇一にはまだ荷が重すぎる命題でしかないのだし、天界からの刺客がどこかで聞いていないとも限らないのだ。
あれこれと考えれば考えるほど、思考は泥沼の中でかき回されるように重苦しく那美を包む。
「那美?どうした?」
「あ、なんでもない」
不思議そうに廊下に顔を出した兄の声に、那美は慌ててそう告げるとリビングに戻るべくドアをくぐり抜けた。




